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平成22年4月22日 校正すみ

私の追想と回想の記

齊田 元春

私が海軍機関学校に入校してから復員帰郷するまで経験した過去を振り返りながら、今は亡き友を含め、その時々の思い出を綴り、私の追想と回想の記として述べてみたい。

 

 第3分隊・四号生徒時代

昭和19年6月20日サイパン沖、航空母艦瑞鶴で戦死した石間正次郎君と、昭和20530日横須賀港内で海竜搭乗訓練中、無念の殉職を遂げた蕪木正信君は私が海軍機関学校に入校した当初、配属された、第3分隊の四号生徒7名の中の2人であった。

人懐こい人柄でくるくるした瞳、柔和な声で笑窪をつくりながら話し掛けて来る商業学校出身の異色の石間君、石間君とは三号時代も同分隊員で丁度1年間、よく付合い、よく話し合い、相撲も好敵手だった。また、短艇訓練時は隣同士でよく漕がされたものだった。困った時には一寸眉間に皺を寄せるが、いつも笑顔の彼の面影は忘れられない。

又、力の籠もっただみ声でとつとつと話す(かぶら)木君は元気者で、短艇訓練や駈足訓練で歯を喰いしぼり、頑張っていた姿が特に印象深く残っている。一緒に叩かれたも忘れられない一駒で、踏まれて強くなる麦の姿を連想させる友であった。

同分隊員であった石間、蕪木君に加え、阿部達、飯盛、上田、金枝君と私を入れて7名は仲良く頑張った仲であり、山村稔生徒長の庇護を受けつつ、一緒に他の猛者によく鍛えられたものであった。

 

 第1分隊・三号生徒時代

50期生卒業後、暫く四号時代の同分隊3学年生徒を一号生徒に戴き、再度最下級生のやり直しをさせられたが、昭和16年6月21日実施の分隊編成替えによって、私は新しい分隊に配員された。即ち、第1分隊。三号生徒時代である。

第1分隊に配属されて、正直な所、最初は気分的に嫌な感じを持ったが、仕方がなかった。今までの分隊の隣の分隊であって、何をするのにも第一番目に引き出されたからである。

同分隊員には安藤、石間、近藤寿男、佐丸、坂梨、松田、山下宏、吉田と私を含め、9名が配員され、最初から多士済々の感があった。三号生徒といっても、相変らずの最下級生、然も一号生徒にとっては初めての新しい顔触れの三号生徒であったので、よく教え、よく鍛え、折に触れては可愛がって呉れたものだった。

第1分隊員としての5ケ月余りの生徒生活はまた斬新な思い出の生徒生活でもあった。分隊温習室を出た途端に.中央廊下階段の下で黒木生徒によく掴まったのも此の頃であった。

昭和191027日第53期生並びに第41期飛行学生の先陣を切って神風特別攻撃隊義烈隊員として、山田大尉(41期偵学教官) と共に比島レイテ湾上敵艦隊に突入して行った近藤寿男君は顎鬚が濃く、物静かな口調でしかも強い話し振りであった彼は常に訓練に、また勉学に努力を惜しまない生徒であった。

卒業後、飛行学生の方に進み、彼は艦爆操縦学生として、私は偵察専修学生として百里原航空隊で暮した5ケ月間は彼との最後の期間であり、余暇を見てはよく語り合ったことを思い出す。一言にして語れば、物静かな常に何か憂愁を湛えたような熱血男子であった。

昭和191015日台湾沖航空戦において決戦部隊の一員として台湾沖で散って行った山下宏君は近藤君に先立つこと12日前のことであった。艦爆搭乗員として第一線部隊に配属されて行った山下君の背が高く、肩巾の広い、胸の張った姿が、……少し赤ら顔になりながら、ゆっくり話す彼の面影が脳裏から消えない。

三号時代の短艇の櫂を操作する姿と、偵察学生時代の地道に電鍵を叩き訓練に励んでいる姿がオーバーラップして浮んで来る。同じ分隊で、また偵察学生として一緒に鍛えられた仲間であっただけに忘れることの出来ない一人である。

 

昭和20年6月8日ボルネオ南方海面において巡洋艦足柄で散って行った坂梨忠君は実に温和な好漢であった。はきはきした口調の優しい喋り方であり、四号時代は山下宏君と同分隊であっただけに、二人はよく気が合っていたような記憶が残る。今頃は、横縞のラグビーシャツを着て仲よく神の庭でボールを蹴っていることだろう。

また、面の奥でくるくるした眼を貯え、竹刀を振りかざして来る剣道着姿の彼の印象は特に強く、豊住、合志君と同様に熊本健児の面影が沸々と浮び上って来る。

 

 第3分隊・二号生徒時代

昭和161129日実施の分隊編成替えにより、漸く最下級生の修練場を脱し、二号生徒時代を迎えた。

顔を合わせた第3分隊員は高脇君を先任とし、坂本、佐野、豊住、斉田、斎藤、佐藤の7名であった。何故か、この7名は特に気が合って、極めて愉快な二号時代を送ったように記憶している。

何くそ、一号生徒に負けまいとする意識が強かったのか、二号生徒としての結束も固く、起床動作から就寝動作まで何事をするのにも、お互いにかばい合いながら、助け合ったものだった。それだけに、短艇、ラグビー、駈足等団体競技においては一号生徒には負けないで分隊内の元気の源泉だったことは忘れることの出来ない思い出である。

尤も、この時の一号生徒は、第52期生の中でも揃って紳士であったことは見逃すわけにいかない。 

昭和191025日比島東方海面において航空母艦瑞鶴で散って行った佐野寛君、同年1122日無念にも鹿屋基地において戦闘機訓練中に殉職して行った坂本博君、昭和20年1月21日ウルシー泊地に回天特別攻撃隊金剛隊員として散って行った豊住和寿君、同年4月7日九州南西海面において戦艦大和と運命を共にし、護国の鬼と化した高脇圭三君の4人に対する夫々れの思い出は到底消え去るものでない。

どっしりと落ち付いた高脇圭三君、お尻の方が戦艦大和のようにがっちりとして居り、朝の起床動作は早い方でなかったが、お互いに歩調を合せて寝室をゆっくり出て行った思い出、ラグビーのフォーワードのセンターを勤めた重戦車型、一寸鼻が詰まる方で居眠りしては、時折困っていた点が妙に頭に残っている好人物であった。

萬事にすばしっこくて張り切りボーイの豊住和寿君、中々居眠り上手で姿勢のよいこと、剣道やラグビーで見せた元気よさは真に見事であった。豊住君と言えば、硫黄島で散って合志君を思い出す。同じ済々黌出身であっただけに、共に剣道が強く、兄弟のように仲の良かった点が心に残る。

一号生徒になって、豊住君とは奇数と偶数分隊に別れたが、第二生徒館で寝室も温習室も向い合い同士、お互いの往来は毎度の事であり、三号生徒もさぞかし迷惑したことだろう。

また、当時第13分隊所属の二号生徒本井文哉君が彼に先立つこと9日前、即ち昭和20年1月12日回天特別攻撃に従事しウルシー泊地に突入壮烈な戦死を遂げていること、同分隊二号生徒宮沢一信君が同年1月14日館山湾において回天訓練中殉職していること等、豊住君と彼等との因縁の深さを強く感じている次第である。

佐野君と言えば、色白で何事にも急がず、慌てず、しれっととして居り、兄貴格の貫録十分であった。また、内に秘めた頑張りと忍耐力については学ぶべき所が多かった。

艦と飛行機の違いはあれ、富士中出身の佐野君と沼津中学出身の小山、富田、寛応君の3名に何かしら共通のものを思い出す。共に明るくおおらかであったことは、毎日、富士山を見て育った所為でなかろうかと思うことがある。

最後に、坂本博君と言えば豊住君と同様に、分隊二号生徒内の元気の源泉、すばしっこい張り切りボーイ、ラグビーを始め、諸訓練に弾丸のようにぶっつかって行った彼だった。若くて純真だった彼、大阪と和歌山出身の者同士の身近さもあり、よく語り合ったものだった。

卒業後、お互いに戦闘機に進もうと話し合っていたのに、如何せん、私が偵察専修の方に廻されたので、霞ケ浦航空隊時代の彼との思い出が最後のものとなってしまった。

今はなき友の寸描は以上の通りであるが、ともかくも二号生徒7名は常に一致団結し、日常生活や勉学訓練に大いに張り切ったが、授業中は仲よく居眠りをしたものだった。

 

 14分隊、一号生徒時代

最後に、一号生徒になって、昭和171128日配属されたのは第14分隊であり、高野分隊監事の下に、十分なご指導と薫陶を受けつつ第二生徒館において生活すること約10ケ月、同分隊で起居を共にしたのは福田、村上、角田、佐丸君と私の5名であった。

昭和191120日回天特別攻撃隊菊水隊員として、ウルシー泊地に壮烈な特攻攻撃を掛けた福田斉君、また、同日コツソル水道に同じ菊水隊員として回天特攻に従事、散華して行った村上克巳君については皆様の十分ご承知の通りである。

両人とも、熱血男子であり、自らに厳しく、下級生に対してはよく鍛え、且つ、面倒見の良かった両人であった。当時の三号生徒であった第55期会誌を見ても、その面目が躍如たるものがある。

両君に関する資料も多く、今さら、私がくどくど述べる必要はないが、福田君には前記の第14分隊生徒次長として大いに助けて貰い、また、村上君には後期の生徒長を引き継ぎ、分隊内の融和団結を図り、私の至らなかった点の尻拭いをして貰ったこと等、尽きることのない思い出が一杯である。

昭和53年7月28日、物故された角田武之助君は厳しい戦いの最中を潜りぬけ、機関学校出身同期戦闘機乗り10名中、生残り3名の中の1人であった。戦後の厳しい中を持前の才気、気力をもって切り抜け、ニッカウイスキー株式会社名古屋支店長まで栄進されたが、惜しい哉、急逝するとは真に惜しい人物であった。

角田君は、クラスの中の年少組に属し、生粋の江戸ッ児気質であり、歯切れのよい口調、機敏な諸動作、而も、何時も三号生徒に心優しかった印象が強く残っている。

戦後において、彼と会ったのは僅かに2回にすぎなかった。初めは、戦後間もない昭和22年の初夏、銀座三越デパート横の時計店で語り、第2回目は昭和41年2月12日、始めての第14分隊会(於新宿) の会合で分隊監事も交え、懐かしく話し合った思い出がある。ほんのりと頬を桜色に染めた彼の顔、昔と少しも変らない、否、少し恰幅のついた姿が印象深く残っている。

 

以上は、昭和1512月1日、海軍機関学校入校以来、卒業する迄に、主として同一分隊員として起居を共にした同期生のプロフィールであり、思いつく侭に追想させて戴いたものである。

 

 偶感その一 寸劇 「五条の大橋」関連

52期生卒業前に催した送別演芸会で演出した寸劇の題名であって、記憶している人は殆んど居ないと思うが、出演者と関連して、私にとって忘れられない一コマである。

筋書は至極簡単であって、鞍馬寺の小僧(石井勝信) の手引で、天狗(村上克巳)に秘術を授かった牛若丸(誰?)が、五条の大橋で弁慶(三田道)と渡り合う寸劇であり、卒業して行く第52期候補生に感謝された記憶がある。出演をお願いした今は亡き同期生に関連して触れてみることとする。

先ず、鞍馬寺の小僧石井君は昭和19年1月11日、第53期生の最初の戦死者として、ペナン沖において球磨で散華し、続いて弁慶役の三田君は昭和19年6月19日、サイパン沖で翔鶴において名誉の戦死を遂げている。牛若丸役は比島沖海戦において、艦は沈められ、泳ぐこと10時間にして味方の艦に救助されている。天狗役の村上君は既述の通り、菊水隊員として、壮烈な戦死を遂げている。

三田君は、正に弁慶を想像さすような快男子、気風のよい眉毛の太い大男、同一分隊で暮したことはないが、何故か、気が合ってよく話し合い、此の役割も直ぐに引き受けて呉れた気さくな友達だった。大上段から竹刀を振りかざして来る彼の勢いには、思わずたじろぐのが常であった。

村上君については、既述の通りであるが、この寸劇においても、実に上手に天狗役を演じ、真面目くさって牛若丸に秘術(手品)を伝授したものだった。

石井君については、同一分隊に配属されたことはなかったが、小僧役を引受けて貰う程に、日頃気易く付き合っていたことを思い出す。小粒ながら機敏な剣道の名人であった。

二号生徒時代に、私と牛若丸役、村上、三田、石井君は、それぞれ3・5・9・1113分隊の奇数分隊員であり、毎日の顔合せの中から生まれた寸劇だったと思う。

石井君は、第53期生として出した最初の戦死者であっただけに、強烈な印象が今なお私の胸裏に残っている。

それと言うのも、斯く言う私が石井君の戦死された日よりも24日前の昭和181218日、霞ケ浦湖上において墜落した飛行機の中で生死の淵をさ迷って居り、3日後に人事不省から醒めたと言う経験を持っているからである。「醜ちゃんが死んだ」と言う噂が舞鶴(機関学校)で流れたと言うことを聞いたが、この時のことであろう。

一号生徒時代の第18分隊に、石井、石間、服部、井上、川崎、梅本君の6名が所属して居り、第三生徒館の偶数分隊として大いに張り切って居た。 卒業後、石井君に続いて、石間君が同年6月20日、サイパン沖で翔鶴において戦死、更に服部君が同年1025日、比島サマール沖で筑摩にて戦死した。前記水上艦乗組の3名が戦死のあと、潜水艦乗組の井上君は、同年1118日、比島東方海面において乗艦と運命を共にして居る。

当時、同分隊の4名戦死のことは既に聞いておったであろう川崎君は、昭和20年2月26日、硫黄島方面海域において回天特別攻撃隊千早隊員として、壮烈な戦死を遂げて居る。そして、同分隊員中、唯一人生き残ったのは、飛行機の整備の方に廻った今は亡き梅本君だけであった。

石井君に関連して、第18分隊員同期生の推移に触れたが、最後に、石井勝信君の生徒時代のメモ書として、次の一首と言葉が残されているので、此所に誌して置きたい。

吾が心 誰か知るらん 君が為

           捧ぐる命 只親の為     
         
             
勝信

忠孝一本、君のため又親の為に一命を捧げんとする心こそ尊きものなり。

 

 偶感その二、西川生土君について

53期生のうち工業学校出身者は、安藤、西川、堀君の3名であり、また、商業学校出身者は石間、麦島君の2名であった。

平成元年5月1日逝去された西川生士君は私と同県人であり、私の出身校である和歌山中学校に隣接する和歌山工業学校出身の秀才であった。工業学校から機関学校と言えば、商業学校出身者と異なり、「工業」から「機関」と縁続きのような感じがあるが、修得課目の関係から、やはり工業学校からの受験合格と言うことは異色であり、大変難関だったと思われる。

西川君と言えば、誰しも血色のよい色白の頬、綺麗な眼、横一文字に見える黒い眉毛、背筋を真っ直ぐ伸した姿勢のよい彼を思い浮べるであろう。何事に対しても、真面目で凡帳面であって、又、努力家であったことは誰しも認める所であった。

この点は、生徒時代、卒業後の部隊における飛行機整備時代、又戦後の職場においても変りなく、丸善石油株式会社における各要職時、また、松山石油の取締役工場長時代にも遺憾なく発揮していたと聞いている。

西川君とは、同県人で、しかも、和歌山市内出身者同士でありながら、4号時代3分隊と5分隊と隣り合った他は、同分隊に配属されることもなかった。

また、卒業後は搭乗員と整備に分かれ、しかも同一基地に勤務する事がなかった。更に、戦後はお互いの職場の関係から今一歩間近に生活する機会に恵まれなかった事は、かえすがえすも残念に思っている。

お互いに、それぞれに定年の波が押し寄せ、これから再びゆっくりと交際する機会を持とうと連絡をとり始めたが、西川君が悠々自適の趣味に生きる生活を始められてから半年目に病に罹られた。それから、闘病生活2年3ケ月目に、惜しい哉、幽冥を異にしてしまった次第である。

癌と知りつつも、常に毅然と対処し、旅立っていかれた彼に感服の念を捧げると共に唯々御冥福を祈る次第である。

 

 霞ケ浦航空隊(練習機操縦教程)時代

昭和18年9月15日、海軍機関学校卒業、艦艇部隊配属の同期生と別れ、飛行学生として一路霞ケ浦海軍航空隊に直行した20名は兵学校出身飛行学生306名と合流、第41期飛行学生としての生活が始まった。一室4名に割り当てられた学生隊舎を中心に、9月17日から早速、九三式陸中練で実施する練習機操縦教程が始まった。

指導官付、操縦教官等に69期、70期の猛者中尉も居り、また、第40期飛行学生の練習機教程も行なわれていたので、当初は四号生徒に逆戻りした観であった。

同室は、小山力君と私、兵科の中西達二君と吉富清君の4名で、毎日仲よく操縦訓練を受けたが、単独飛行が許される前に操縦偵察の分離(操235名・偵91名)が行われ、悔しい哉、私は偵察専修の方に廻され、甚だ不本意であった。

この点は、当初の不慣れに加え、機上で口の五月蝿い教官の注意を聞き流したり、特殊飛行訓練の最中に操縦桿をやり放して、こっぴどく叱り飛ばされたこと等も重なり、操縦不適と判断されたかなと自ら慰めたものだった。 恐らく私と同じ思いで、出ていく同僚が91名も居ることとて、その点、気持がいくらか楽になった。

私にとり、操縦訓練期間は短かったが、数々の思い出もあって、小山君を含む同室の3名を始め、教官達も別れを惜しんで呉れた。

さて、小山力君について述べれば、小山君とは生徒時代、同分隊員はおろか、近くの分隊に居ったこともなく、三号生徒時代に同じ奇数分隊に所属した丈であって、同期生とは言え、お互いに十分知らない者同士であった。

然し、霞空において僅か一ケ月半の短い期間であったが、共に鍛えられ、共に助け合った同期生の間柄に加え、彼が艦爆操縦学生として着隊、同じ百里空で5ケ月間を過したことは、お互いに識り合うのには十分な期間であった。霞空において互に励まし合ったこと、百里空においては、時を論じ、抱負を語りあったこと等は消えない思い出として残っている。

小山君は、外柔にして、内剛と言うべきか、福よかな頬と優しい眼差し、低い含み声に加え、あの顎と挙措動作まで柔らかだったが、内面に計り知れない弾力性と頑張りの精神を持っていた同期生だった。

 

 百里原航空隊(偵学練習機教程)時代

昭和1811月8日、操偵分離により、偵察学生91名は百里原航空隊に移動した。機関学校出身者20名中、阿部順男、岡本操、山下宏君と私の4名は、偵察専修学生として、心気一転、また新しい分野に取り組み、訓練に励むことになった。然しながら、訓練開始早々に、この4名の上に新しい苦労がかぶさって来た。

それは、兵科出身者にとって大した事もない点が、機関科出身者の私達にとっては、一時的にせよ負荷となったことである。飛行科における諸訓練の前提として兵学校の教育が基礎となっており、短期間で、それに追い着くために可なりの努力が要求された。

航法や爆撃理論の前には、エントロピーやエンタルピーは役に立たない。偏流修正や航法図板の使用については、何とか誤魔化しながらついて行けたが、特に通信訓練では誤魔化しは利かない。即ち、モールス信号に対する受信能力の差であった。

偵察教程終了時までに目標として、1分間90字程度の送受信能力を持つことを求められていた。

2週間目毎に、送信速度を5字宛増加して実施する受信査定をこなして行くことは大変であった。音感に鈍いと自分で決めている私などは随分苦労したことを思い出す。毎日課外訓練として、少なくとも1時間は余計に努力しなければ、追いつけない状態であった。同期の3名も随分頑張っていたことを思い出す。

昭和20年1月2日、銀河に搭乗、単機サイパン・アスリート上空で敵状偵察中、壮烈な戦死を遂げた岡本操君もよく私を誘い、2人で電鍵を叩き合ったものである。岡本君は、平素から挙措動作は紳士的であり、比較的に口数の少ない温和で親切な人柄であって、真に頼りになる同期生であった。

私が、後述の墜落事故によって、約2ケ月近く、訓練に空白期間が出来て、受信能力に相当な遅れを取った時、随分助けて貰った記憶がある。また、この時、通信教員で並々ならぬ協力を惜しまないで、常に一対一の特別課外訓練を実施して呉れた人の事は忘れられない。

 

 九〇式機上練習機の墜落事故

偵察学生訓練が開始されてから、丁度40日目、忘れもせぬ昭和181218日午後、飛行作業として変針航法訓練を行なうために、九〇式機上練習機1機、その後席作業室に候補生2名、偵察教官を乗せて離陸した。

当日の訓練は、学生にとっては、初めての変針航法作業であり、訓練主務者として私の順番となって、飛行高度500米、鉾田ー玉造ー小川町の変針コースで飛行する予定であった。練習機は所定高度を取り、鉾田を出た。

玉造上空で、変針を下命した後、次の作業準備に入った直後、機体が急激な右旋回急降下に入った模様、途端に偵察教官が私に落下傘の「フック」を装着、「飛び降りろ」と命じた。瞬間的に「教官、何を慌てているんだ」と思った程、私も状況を飲み込んでいなかった。

同時に、高度計を見た。指度は落ちるばかり、180米、「教官、高度ありません」と言ったまで記憶、瞬間的に私を見上げた北植武男候補生のけげんな顔、教官の横顔、広い湖面がはげしく揺れながら迫って来る感じ、高度計80米位であとの意識が消えている。ふと気が付くと、「誰か偉い人(原中将)が私の顔を見下して、何かを話しているようだった」といった断片的な記憶があった。

「偵察教官即死、北植候補生頭部打傷重傷・2時間後死亡、斉田候補生全身打撲・意識不明、操縦員頭部打傷・重傷」 の状態であって、私は完全に3日間人事不省であり、しかも腰骨まわりの痛みを訴えていたということであった。

原因は、人的ミスによる操縦系統の故障のため、高度500米から略々3旋回で湖面に激突したとのことであった。エンジン脱落、右翼折損、車輪後方に離散の上、機体は霞ケ浦湖に水没の状態のところ、運よく付近操業中の漁師によって水中から救助されたとのことであった。

私は、右旋回降下中、作業室右前方にある作業台右隅に位置し、航空図板を腹部にあてた形で、机と直角に庄着した姿勢で湖面に激突した為、最初の衝撃は緩衝され、反動による打撲は腰部で受けとめたので、幸に命を取り止めた模様であった。

斯くして、昭和19年の新年は百里原航空隊の病室で一人迎えることとなったが、多くの同僚の見舞いや励ましに支えられ、同年2月の中旬頃から再び飛行作業に入ることが出来た。この時の打撲による腰部の鈍痛やしびれ感は、容易にとれないので、長い間、相当に悩まされたが、命と引き換えであったと考えれば、贅沢な事は言えない。

 

 百里原航空隊(実用機教程)時代

飛行機事故による鈍痛もしびれ感も、漸く取れ、(?)再び機上訓練を受けること一ケ月、無事に練習機教程を終了、実用機教程に進むことが出来た。

丁度、この時、霞空練習機操縦教程も終了 (昭和19年2月26日)、艦爆学生 (兵32名・機3名・軍医大尉1名)、艦攻学生 (兵13名) が、草深い百里原航空隊に移って来た。

艦爆操縦学生の中に、近藤寿男、小山 力、園田 勇君の3君が居て、隣の学生舎で、また霞空で同室であった中西達二72期、昭和20年4月12日没、常磐忠華隊) は艦攻操縦学生として同一学生舎で起居を共にすることとなり、余暇を見て、お互いに楽しい交流を持った。

近藤君や小山君については、先に触れたが、ふっくらした丸顔、黒いつぶらな瞳、・童顔そのものの園田君は何時もにこやかだった。年が若かったせいかも知れないが、内に馬力を秘め、外は控えめな快男子であった。飛行作業の往き帰りに逢えば、ニコッと微笑み、片手をあげて会釈する彼であった。その彼も、また、特攻攻撃第一陣であった近藤君に続き、71日目の昭和20年1月6日に、第23金剛隊として、比島イバ沖で艦爆特攻の華と散って行った。彼の面影は、いつまでも消え去るものでない。

飛行場に通ずる道路沿いにある桜並木も、見事に咲いた春4月も過ぎて、艦爆艦攻の両学生は勿論、偵察学生も、それぞれ毎日の課業に追われつつ、実用機教程期間は瞬く間に過ぎて行った。

実用機教程終了の時期も近づき、卒業後の搭乗希望機種を聞かれた時、送受信能力に自信のない私は当然三座機以上、通信員の乗った機種を希望した。

具体的には、銀河搭乗を第一とし、大型機を第二希望としたが、配属機種の発表となり、艦上偵察機3名の中に、私の名前が挙げられたのには、正直な所、全く面喰った。他の2名は、偵察学生の中でも通信技能査定は勿論のこと、総てに優秀な成績を示していた期友であっただけに、よりによって私が艦偵配置に指定されるとは、思いもよらなかった。然しながら、偵察専修者として艦上偵察機の偵察員になるのも本望と思い直し、精進の(はら)を固めたものだった。

斯くして、昭和19年7月29日、実用機教程も終了、卒業式を終えて、漸く実施部隊に配属される日がやって来た。舞鶴を巣立ってから、丁度、10ケ月半日であった。同じ偵察学生であった阿部順男、山下宏、岡本操君と私の4名、また、艦爆操縦学生の小山力、近藤寿男、園田勇君の3名は、お互いに別れを惜しみつつ、元気よく、それぞれの任地に向った。

第1線部隊に赴く人、第2線部隊に廻される人、それぞれの運命を背負って別れたが、阿部順男君を除き、他の4名の彼等とは再び逢うことは出来なかった。

 

十一 厚木基地302空陸偵隊時代

昭和19年7月30日、私達は第302航空隊に着任した。

百里原航空隊から偵察専修3名 (陸偵隊1名、月光夜戦隊2名)、艦爆操縦2名(陸偵隊2名)、艦攻操縦1名(月光夜戦隊)であり、神池航空隊からは確か戦闘機8名(武田、山根、石川、片山、川端(格)、大塩、橋本、塚田)であった。

7月30日着隊の新任少尉14名は4名ずつ一室の同棟宿舎に入り、8月1日から、それぞれの飛行隊において、錬成訓練に入った。

実用機教程を卒業したとはいえ、飛行時間は120130時間、それぞれの技倆と言っても、知れたもので自信などある筈はない。先ず乗る飛行機に慣れることから始まった。

陸偵隊においては、早速配備機である二式艦偵に対する慣熟として、説明と所要の地上教育が行われ、続いて、慣熟飛行と基礎訓練に入って行った。錬成と言っても、今回配属された偵察士官としては私が唯1人であり、必然的に自啓自発の道を歩くほかなかったが、古参隊員の親切な指導を受けたので、大いに助かった。

二式艦偵とは、当時、最も早かった水冷の彗星艦爆を改装して、胴体弾倉内に増槽を装備、尾輪も引込脚に改造した中翼単葉機で、最高速力は零戦より20節早い320節、巡航200節以上であった。兵装は前面に7.7耗固定銃2門と、後席に7.7耗旋回銃1挺のほか、電熱ヒータ付大形航空写真機と電信機であった。また、単発で長時間飛ぶ偵察機として、自動操縦装置が装備してあった。

大体、厚木基地は、勇名を馳せたラポール航空隊が内地に引き揚げ、昭和19年4月から編成された帝都防衛航空隊であったが、陸偵隊が所在するのは、当時、ラポールを基地として、ガダルカナル方面を偵察した陸軍百式司偵使用の偵察隊が引きあげて来たからであった。基幹隊員の中にはガダルガナル撮影の伊藤曹長(後少尉、20年4月殉職)も居り、新着任の私達3名は随分お世話になったものである。

飛行学生出身の私達14名が厚木に着任した時、既に、広田君が整備分隊士として活躍しており、また、同じ宿舎に起居していたので、何に彼と随分お世話になった。血の気の多い連中は、夜の水先案内をお願いして、横須賀方面に繰り出し、魚勝・小松あたりで、馬鹿騒ぎや雑魚寝したのも、この頃のことであった。

然しながら、既に当時の戦局は我に不利であって、サイパン島失陥、グァム島も8月10日に玉砕、勢いを駆った敵はフィリッピンに迫りつつあった頃である。

9月に入り、陸偵隊にも、錬成員や第13期予備学生出身(後期)操縦・偵察士官が配置されて、陸偵隊の錬成訓練も盛んになり、漸く軌道に乗って来た。

10月になり、全般的に、訓練は厳しくなり、それに従って事故機と殉職者が多くなって来た。

 

十二 Bー29の迎撃戦

昭和191124日午後、東京は、Bー29編隊約70機による初空襲を受けた。主目標は、中島飛行機武蔵工場であった。

この日、私は邀撃戦待機搭乗割に組み入れられていたので、警戒警報の発令と同時に三号爆弾の搭載状況を確認の上、二式艦偵に搭乗して、厚木基地を発進した。待機高度10,000米の上空を目指した。当日、上空は偏西風推定120節、流されないように風に向首、占位位置東京湾上空を維持するために、適宜旋回上昇した。

空気の希薄と共に、エンジン効率は低下し、上昇飛行姿勢の抵抗も加わり、高度8,000米まで上昇するのに30分余り、更に、1,500米上昇するのにも大分時間を要した。確か、高度9,700米を維持するのが、精一杯であったと記憶している。

戦闘機と異なり、脚の長い二式艦偵は、4時間ほどの高々度飛行は可能であって、東京湾上、高度9,500米付近に待機することとなった。空気は希薄のため、爆音も低く、静寂な高々度では、地図上の空中の一点に静止しているような気持、また、ゆっくりと風景の動きをみて飛んでいる感じである。西は、白い帽子をかぶった富士山と相模湾、所々に雲があり、東は犬吠崎と房総一望の景色、高度9,500米から見渡す景色は地図そっくりの光景であった。

防寒下着と冬用飛行服の重ね着でも、零下40度近くの気温は、容赦なく、身体を冷し、膝から股にかけて、しびれさせ、足先や指先を襲って来る。座席内で足踏みしながら、「早く来ない哉」と、酸素マスクの中で呟いたものだった。

待つこと1時間余り、富士山方向、高射砲弾幕が下方に散見された。弾幕の3倍程前方はるか上空に、Bー29の「ダイヤモンド」編隊を視認。紺碧の空に、白い飛行雲が流れて行く。東京の西上空を北進中、高度12,000米付近を悠々通過中の模様である。

西方に向首しても、搭乗機は中々追い付けない。誤って、東方に向首すれば、矢のように房稔半島を横切って行く感じである。

敵機よりも、高度を取って、初めて、三号爆弾攻撃の出来る搭乗機では、高度12000米付近を飛ぶBー29編隊に対しては、手も足も出ない状態であった。12,000米の高々度を悠々と飛び、犬吠岬を遥かに迂回して、太平洋上に避退してゆく、いくつかの編隊を見ても、残念ながら為す術はなく、基地に帰投する他はなかった。

1124日の空襲以降、Bー29編隊は2〜3日置きに姿を見せ始めた。Bー29編隊が名古屋方面(当初は三菱名古屋工場目標)を空襲する時は、富士山を目指して北上し、富士山上空を過ぎた付近で迂回して名古屋方面に向うことが多かった。この場合でも、開東地区に警戒警報が発令され、遊撃態勢をとる外なかったので、連日のように待機、遊撃を繰り返えす形となった。

斯くするうち、1126日に雷電操縦の石川綜三君(兵72期)が、12月3日には月光夜戦機偵察の鈴木健治君(兵72期)が散って行った。特に鈴木君とは、同期偵察学生出身であり、相共に着任し、同室で起居していた仲間であっただけに、然もこの日は私も三号爆弾を抱いての上空待機に当たっていた時でもあり、残念で堪らなかった。

当時も、高々度を飛行するBー29に対しては、十分な態勢も取れないで、手も足も出ない形であったが、下方から攻撃可能である斜銃を搭載の月光夜戦機らしい1機が、Bー29が避退する犬吠埼上空方向に向かうのを視認している。

偏西風の強い上空においての長追いは燃料が切れて、洋上に着水する他なく、帰投できなくなることも予想されていた時だけに、未帰還の報に接した時は、やりきれなかった。2〜3日前に 「俺は早く、かあちゃんを貰うんだ」と、張り切っていた彼の顔が今でも浮んで来る。

7月未に、302空着隊の同期14名の内、僅か3ケ月の間に5名を失ってしまい、兵学校69期の髭の藤田大尉に72期集合をかけられ、喝を入れられたのも、丁度この時期であったと思う。

12月も半ばとなり、新たに編成された錬成航空隊210空の基幹要員として、陸偵隊から隊長佐久間武少佐 (兵66期) 以下、10数名が二式艦偵5機と共に明治基地に移ることとなった。 残存の陸偵隊員や錬成員は、それぞれ他隊に転出、或は彗星夜戦隊に編入され、302空から陸偵隊は姿を消すこととなった。

 

十三 明治基地210空における状況

「サイパン」戦の戦訓に基づいて編成されたと聞いて居る210空は、愛知県下明治基地に在って、基地内西地区には零戦隊と艦攻隊、東地区には艦爆隊、夜戦隊 (彗星、月光) と陸偵隊が同居する形となっていた。

明治基地に移った基幹要員は、新たに配員された隊員と共に210空陸偵隊を新編し、錬成訓練を始めると同時に、一応第2線配備であるが、厚木時代の経験にも鑑み、一部はB―29による名古屋空襲の遊撃にも参加することとなった。

明治基地では、既に、梅本和夫、大森憤二郎の両君が、それぞれ各飛行隊の整備分隊士として大いに張り切って居った。昭和19年9月着任、開隊当初からの実績もあって、顔も広く、厚木基地における広田君同様、公私共に大いに助けて貰った。

梅本君は艦攻隊所属であり、また、大森君は月光と彗星の整備担当であって、彗星改造型使用の陸偵隊と直接関係を持つようになり、随分お世話になった。彗星(水冷エンジン)は高速を誇る飛行機であったが、エンジンの故障が多く、その整備に泣かされた飛行機でもあって、それだけに、整備士配置の苦労は並大抵のものでなかった。

朝から晩まで、エンジンの下で汗と油にまみれ、働きどおしであった。独特の作業衣に半長靴姿が忘れられない。昭和19年大晦日の夜、棚尾の常宿で、整備に追われた毎日の憂さを晴らしたのか、小柄で痛飲した梅本君の姿は今でも思い出す。

昭和20年の1月に入り、陸偵隊の必要とする人員や機材が逐次充足されるのと共に、相前後するように艦載水上偵察機出身のベテラン偵察員、特務少尉、中尉、大尉の諸官が続いて陸偵隊に着任して来た。さながら、一つの溜り場のようであった。

歴戦のかずかず、自信の溢れる言動は確に見事であった。幾多の実戦経験を基に、敵の電探回避と戦闘機、電探機ペアの防禦綱を突破するために、超低空索敵の必要性を説く者、或は高々度接敵、緩降下高速離脱を説く者等々色々あった。

この間にあって、陸偵隊搭乗員である学校出の偵察士官は、隊長と私の2人だけであった。私などは、未だ実戦経験もなく、唯々若さと強心臓で動いていたようなものだった。尤もこのような状況下で、索敵に出る時は、初陣即死出の旅になる覚悟だけは持っていたような気持がするが、今にして「真に頼りない、而も危なっかしいものだった。」と思う。(戦後、海上自衛隊航空隊に勤務、偵察専修幹部として、最初から大型哨戒機に関連、殆んど洋上を飛び廻った飛行時間3,500時間余の飛行実務に携った経験を通しての所感である)

また、この頃、座光寺教官と同期の小林大尉が、特修科学生(偵察)を卒業、艦攻隊に着任されていることを聞き、意を強くしたものだった。

(小林平八郎大尉は、210空艦攻隊長として、天山艦攻13機を率いて串良に進出等1月30日》、「菊水作戦」における夜間雷撃を担当、夜戦部隊として、串良、沖縄間の雷撃戦を実施、3月31日、緒戦において戦死されている)

当時の私の配置は、陸偵隊付教官であって、自分の訓練を兼ねつつ、錬成員の教官でもあり、また、着隊早々から航空隊の親甲板士官を引受けて大いに張り切っていた。

昭和20年1月の戦局は、既に敵は比島に上陸し、わが方は特攻作戦に全力をあげていた時であった。明治基地においては、隊員の寄せ集め、機材等の補充が行われ、実戦機による訓練が続けられていた。

1月も半ば過ぎて、戦局の推移は基地全般の雰囲気を引きしめ、各飛行隊の搭乗員の出入りも激しくなり、途中飛来する第一線部隊の飛行機や搭乗員を通じ、事態の逼迫感が、ひしひしと感じられるようになった。

艦攻隊配備機に、天山艦攻が多くなったのも、また、国安大尉 51期) の立寄りを見たのも、恰度この頃であった。国安昇大尉も小林大尉より1週間後の4月7日に同じ南西諸島海面において、神風第一攻撃隊として散華されている。

2月に入り、実戦機錬成部隊として即応態勢が取れるように、操縦偵察固有のペアを組み、訓練を実施して「ペア」練度の向上を図ったが、使用機の度重なる故障に泣かされた。飛行予定に従い、訓練を実施しようと思っても、飛行直前に不具合箇所が発見されたり、また、離陸してもエンジン不調で引き返えすことが多かった。全般的に、優秀な整備員が少なくなって来たのに加え、12月及び1月に発生した大地震による工場被害が、新装機配備の遅れや補用部品の不足と言う形で現われ、困ったものであった。

彗星機整備担当の大森君が、頭を悩ましていたのは、此の頃であった。また、硫黄島分遣隊として、夜間爆撃阻止に出されていた月光夜戦機整備のため、急遽、大森君が八丈島に派遣されたのも、確か、敵の硫黄島攻略開始直前の頃であった。

 

十四 索敵機の発進

2月15日、硫黄島の哨戒機からの敵発見の報告。

2月16日、敵艦上戦闘機、関東東海地方に来襲と言う事態で始まったこの戦いは直ちに連合艦隊司令部から「敵空母撃滅の好機、関東東海方面所在各航空隊発進」 の令が出された。

その当時、実戦機錬成部隊と言っても、210空はBー29邀撃戦に出ている戦闘機隊以外は、戦闘準備即応態勢でなくて、各飛行隊は徹夜で戦闘準備を進める状況であった。

当時、陸偵隊においては、配備機の故障続出に加え、新装機の入手が困難になっていた時期だけに、洋上進出450浬の索敵可能機数は整備中の飛行機を除き、僅かに2機だった。八丈島から潮岬沖合海上をカバーするため、4機進出として艦爆隊1機、夜戦隊1機が加わり索敵を実施することになった。

 

…‥」の記憶が強く残っているが、今にして思えば、陸偵隊として初めての索敵行動であり、2機とも歴戦の艦載水上偵察機出身のベテラン偵察員を配した方がよいとの判断がどこかで働いたのではなかろうか」と考えている。

索敵機は日出3時前発進となり、2機とも離陸したが、1機は離陸途端に落下槽が落下する事故発生、緊急着陸の際に機体を損傷した。他の1機も不具合により引き返したので、大急ぎで次の飛行機を準備、再び離陸して行ったのは日出前であった。

 

索敵線上の情況と代替機の機体発動機に不安を残して離陸した2機の模様は次のとおりであった。

飛行隊士操縦の搭乗機は先端到着後、発動機不調で漸く八丈島に不時着、折から月光夜戦機整備の為に派遣されていた大森君のお世話になった次第である。他の1機は一切無言の侭、、未帰遼機になってしまった。

その飛行機には、私が乗る予定であったし、操縦員は今までの私の「ペア」で、一緒にB―29の邀撃戦に出たこともある上飛曹であった。また、私に代って乗った偵察員は、自他ともに認める通信の神様的存在であった特務中尉であっただけに、何時までも帰らない南の空を見ては、身の引きしまる思いがしたものだった。なお、当日索敵に出た艦爆隊及び夜戦隊の各1機は索敵上敵影を見ないで無事に帰投した。

 

十五 再度の不時着事故

2月17日の索敵実施によって、緊急着陸時の破損機1機、不具合箇所要整備機1機、八丈島不時着機1機、未帰還機1機計4機が欠落したため、陸偵隊では索敵機を出すことが出来なくなり、残存機を大急ぎで整備の上、試飛行を行い、索敵飛行可能機を準備することになった。

18日の午後のこと、飛行指揮所において、佐久間隊長から

「おい、斉田中尉、君が乗ると言えば、此の頃、必ず飛行機が故障するね。一度お払いをして貰わないと心配だね」と冗談口に言われた。縁起をかつぐのではないが、本当にそう思うほど、私が飛行機に乗ると言えば、整備不良機に当り、飛行取止めになることが多かった。

これからの飛行は、私の「ペア」一組のみであった。明日、索敵を命じられた時に使用する整備完了機の試飛行であったので、索敵時の装備を整えたあと、離陸した。

所定の高度に達し、操縦員が脚入れ操作を行なった処、右脚が半分ほど入った状態で、どうしても完全に入らなかった。

引返しを命じ、脚出しの操作を行なった後、すぐさま着陸コースに入り、略々滑走路に正向した時、突然エンジン停止、滑空姿勢で機体が沈み始めた。すかさず「脚入れ」を命じた。その瞬間は右脚が半分入らないために引き返して来たことを忘れていた。

滑走路は丘の上にあって、手前正面は谷間の木立であった。激突を避けるため、操縦員は突嵯に横辿りで谷間の田圃に不時着する他はなかった。私は腰バンドを締め、足を前につっぱる恰好で、左手で額をかばった。

「ハッ」と気づけば、操縦員が、かすかに振りむいて、電源を切ることを要求した。操縦員の眉間に裂傷、顔面は血に染って居り、私の左足は動かせない上、左手首、左顔面が血まみれである。操縦員に「電源は切った。動かないで、じつとして居れ」と言った。瞬間的に「これが敵地だったら……、暗号書は……」

「足は痛いと感じるから、傷は大したことはない」と思ったことが記憶に残る。(前の墜落の時は、痛いと呻り詰めであったらしいが、本人は全然知らなかったと言う記憶が作用した?)

 

丁度、この頃、基地の指揮所では、彗星機1機墜落の報が入っており「とうとう、(斉田が)やったか」と騒いで居たらしい。その時、基地で飛んでいる彗星機は、たまたま私の乗っていた飛行機1機であったから無理はなかった。急いで確かめた所、移動中の第1線部隊所属機である空冷三三型の彗星艦爆であって搭乗員殉職の事故であったと言うことであった。

そのような時に、飛行場に近づいて来る彗星(水冷型・機首がとがって見える)を認めたが、谷間の方向に消えてしまったので、「そら、大変だ」と隊員が直ぐに駆けつけて来たということであった。

横辿りで田圃に接地したが、入りきらなかった右脚のために、機体が廻されて、小川の土手を突きやぶり、プロペラ軸が折れた。そして、そのプロペラがそっくりと、小川に曲がった機体の下にあった。戸板に乗せられて、基地の病室に運び込まれた。

操縦の柴岡上飛曹は、「左額部分骨折、開口困難、眉間部分裂傷」であり、私は「左足舟状骨折、かがと骨単純骨折、内出血、浮腫拡大」 の状況であった。

処置として、内出血、浮腫拡大部分の腫れの引くまで木枠固定の侭として、病室で安静するように言われた。丸太棒のように腫れあがった左足の鈍痛のため、一晩中眠れなかったが、その時は、何事を考えていたことか記憶に残っていない。

 

十六 後日談

2月18日の不時着事故のため、左足首周辺2ヶ所の骨折をした私は、幸に内出血部が化膿する(化膿時、切断と言われた)こともなく、一ケ月有余、基地の病室で治療した。

この間、浮腫の引くのを待って、3週間目にギプス装着、更に1週間あまり松葉杖の使用も上手になった頃の3月21日、敵機跳りょうの間をぬう形で、飛行機で横須賀航空基地まで送られた。到着後、直ちに横須賀海軍病院に行き、横穴式防空壕内の病室に収容され、迫り来る苛烈な戦列から離れてしまった次第である。

硫黄島の戦い、東京大空襲、3月26日慶良問列島に敵上陸開始、天号作戦 (沖縄作戦) 下命、練習航空隊・実戦部隊の現有総兵力投入の沖縄攻防戦と続いていた時期である。

4月中旬、横病熱海分院に転院治療していたある日のこと、沖縄作戦指揮のため移動中機上銃撃を受け、脚部貫通銃創を負い、入院して来た原隊210空の田中司令をお見舞した時に、開口一番

「こんな時に何をボヤボヤしているんだ。大事な時に、お前がいなくて、困ったではないか……」と怒鳴られた事があった。内心仕方がないではないかと思ったが、何も言うわけにいかない。幸に、隣に入院して居た山本栄大佐 (元在比201空司令) が「まあ、いいや。仕方がないよ。よくなってからね……」と言って呉れたので、大いに助かった記憶がある。

 

5月初め、病院船氷川丸に乗船、満船点灯の上、夜の太平洋岸を航行、呉経由舞鶴に向った。1週間あまり、舞病に滞在のあと、山中病院に移る。疎開学童の生活をよく見る。

6月中旬、自宅療養となり、帰郷する。

7月、郷里和歌山の空も敵機跳りょう激しく硫黄島から来襲して来るP・51戦闘機に続き、下津港周辺の東亜燃料及び丸善石油に対して、B-29の夜間爆撃が連続して行われた。その後、7月9日午後9時30分、和歌山市上空にB―29の大編隊来襲、焼夷弾爆撃によって市街地を焼土と化した。燃えあがる炎の上に、くっきりと浮んだ和歌山城を見たのが最後であった。

跛ひきながら、松葉杖がなくても歩けるようになったので、再び部隊に復帰するために、7月末故郷を出た。途中、明治基地及び名古屋基地を経由、敵陸上戦闘機の跳りょうを避けつつ、中央線経由、焼野の東京を通り、横須賀鎮守府に出頭した。

8月3日、横須賀海軍航空隊付兼教官を命じられ、即日、横須賀海軍航空隊に着任した。当時、横空には、山下武男君が居って呉れたので、これまた、大いに助けて貰った。

8月6日「本朝、広島市に新型特殊爆弾が投下され、広島は只1発で壊滅した。このような爆弾が今後投下される恐れがあるの事態」に立ち至った。続いて、9日長崎にも同じような特殊爆弾が投下された。

これ以後、空襲警報が発令されると、一同防空壕に退避して、広い飛行場には殆んど人が居なかったような記憶が残っている。

昭和20年8月15日正午から、天皇陛下の玉音放送が行なわれた。終戦である。玉音放送以後、隊外は勿論のこと、隊内においても色々と雑音もあったが、私の所属飛行隊では、搭乗割をつくり、固有ペアに固有の飛行機を割当てた。

私は、初めて搭乗する二座水上偵察機を割り当てられ、17日と18日の両日、薄暮慣熟訓練飛行を行なったのが最後の飛行であった。

20日すぎ、私達は横須賀航空隊を後にして、築地の海軍経理学校に移り、毎日、焼野の東京築地周辺を見ながら、暮すこと約1ケ月、9月15日復員帰郷となった。

(機関記念誌283頁)

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