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平成22年4月22日 校正すみ

静の死線

佐原 進

伊号第36潜水艦における体験、それは昭和19年の暮から20年の夏にかけての短い期間ではありましたが、死と対面した密度の濃いものでした。

その中で特に強烈なのが、ウルシー島作戦とマリアナ海域作戦です。ウルシーを「静の死線」と名付ければ、マリアナは「動の死線」と言えるでしょう。

勿論、「動の死線」の方が更に強烈ですが、ここでは「静の死線」について、40数年前を想い起こしながら、その概略を綴ってみたいと思います。

太平洋戟争も末期になりますと、回天特攻作戦が採用され、その魁(さきがけ)となった「菊水隊」に続いて「金剛隊」が編成され、伊36潜はその一艦としてウルシー島攻撃に参加しました。

太平洋戟争も末期になりますと、回天特攻作戦が採用され、その魁(さきがけ)となった「菊水隊」に続いて「金剛隊」が編成され、伊36潜はその一艦としてウルシー島攻撃に参加しました。

ウルシー島は、東京の真南 1,500浬で、比島、台湾、沖縄への扇の要の位置にあり、環礁の大きさは、南北約40粁、東西1020粁、270平方粁あり、水深2040米で、700隻の艦船が収容可能とされていました。

当時ハルゼー提督の率いる機動部隊の前進根拠地で、常時100200隻の艦船が修理、補給、休養の為在泊していました。

私は、昭和1912月大津島で、回天搭乗員との協同訓練中の洋上で伊36潜に着任し、年の瀬も押し詰まった1230日に回天4隻を搭載して、大津島を出撃しました。

制空権と制海権を敵に握られてしまった下での行動は苦難を極め、豊後水道を出た途端、敵の潜水艦による哨戒綱にひっかかりました。

しかも、敵は編隊による縦深網を敷いて互いに連携を密にしています。既に数の少なくなった我が方は単艦行動です。我が方の企図を秘匿するため、わざと航路を変えつつ深夜の洋上を全速力で哨戒網を突破して行きます。兎に角目的地に定められた期限までに秘かに辿り付くのさえ、容易なことではありませんでした。

ところが1月11日、ウルシーの近くで、とうとう敵に捕まってしまいました。夜明けと共に敵の航空機と哨戒艇による攻撃を受ける羽目となりました。

「感3」、時には「感3強」(被探知要警戒範囲)……聴音手が次から次へと的確な通報をします。我が目標はウルシー環礁内にいる敵艦船です。何とかしてこの敵を晦ますべく、無音潜航で巧みな韜晦(とうかい)運動に精根を傾けています。

艦内はシーンと静まりかえって、歩く足音さえ気を配っています。みんな無言で、ピーンと張りつめた緊張感が漂っています。時々爆雷の不気味な爆発音がします。海の中では間近なように聞こえます。

循環通風の止められた艦内の温度は、ぐんぐん上昇してきます。特に私の指揮していた電動機室は、電気機械の発熱で5253度Cと正に焦熱地獄さながらです。衣服を身につけておることも出来ません。湿度も高く、流れ出る汗をタオルで拭いていましたが、もう顔の皮膚がふやけてしまい、タオルで拭くのは痛いので、したたる汗を襟の端でそっと受け止めています。

相当な時間がたちました。………とその途端、ズシン、ズシンと物凄い衝撃と共に艦が動かなくなってしまいました。一瞬何が起ったのか、分かりませんでした。全く思いがけ無い出来事です。座礁してしまったのです。罠にかかった獣のようなものです。自由がききません。

今まで「感3」から精々「感3強」であった聴音手の通報が、「感4になります。「感4強、敵は段々近づいてきます」………「感5、直上通過′」………またしても「感4強」、「感5」、「敵は直上で止りました′・」………座礁深度は26メートル、アップ13度、従って艦首は水面から僅か10数メートルであると推測される。サンゴ礁では30メートルの透明度があるという。

今や(まないた)の上の鯉だ。どのように料理されるかは、すべてあなた任せだ。正に死との対決の時である。ジーと耳を澄ます。上甲板で音がしている。「潜水夫が潜って来たらしい」……ハッチのあたりでコツコツ音がする。「ハッチを叩いているようです」

艦内では急いで秘密文書が集められ、自爆の用意を整える。駈けよる者もいる。船体が大きくゆっくり揺れだした。「敵は我が艦にワイヤーをかけているらしい」……緊張の連続である。いくらの時間がたったであろうか。それにしても、えらく手間どる。まさか生け捕りにして博物館にでも飾ろうとするのでもあるまいに、爆雷で処理すればいとも簡単に済むものを。

若しかしたら、そうだ、若しかだ。船体に聴音棒をあてて、何とかして外界の手掛りを少しでも得ようとする。ザッー、ザッーという音がする。これはサンゴ礁に打ちよせる波の音だ。

返す波の関係で浮遊物が当たったりして、上甲板に音がするのではないだろうか。船体とサンゴ礁と軋み合う音もする。船体が揺れるのは打ちよせる波のせいだ。そうだ、それに違いない。

それにしても外は明るい。今、浮上するわけにはいかない。敵の攻撃を受け始めてから既に一昼夜を過ぎている。とても永く感じた時間だった。艦内は高温な上に多湿、しかも空気が汚れて呼吸が苦しい。一杯に息を吸い込んでも、胸中の1/3しか空気が入ってこない感じだ。長期の潜水艦勤務で体力の低下している人の中には、起きているのさえ苦しく、横になってしまう者もいる。

空気清浄装置を使用し炭酸ガス吸収の粉をまいても、汚染の進行をいくらか少なくする程度で、とてもよくなるところまではいかない。みんなの様子を心配している上司に、艦内を見廻っては状況を報告する。一寸歩いても肩で息をしている。落盤事故で坑内に閉じ込められた坑夫さながらの苦痛に耐えなければならない。

日もとっぷりと暮れた。頃やよし。いよいよ座礁からの離脱作業の開始だ。後進一杯をかけてみたがピタともしない。浮力を変えたり、ツリムを変えたりして後進をかけても駄目だ。あれやこれやと苦心惨憺………。

片舷後進で船体をひねってみたりしている裡に、何のはずみかフワリと動いた。やれしめたと思った途端、又のし上げてしまった。「一度座礁から離れて再度のし上げたら、もう離脱は不可能だという戦訓がある」と、古参の人が深刻な顔をして言っている。

更に悪戦苦闘あの手この手と手段の限りを尽くす。そして何遍となく繰り返している裡に、執念だ。やっとの思いで艦が動き出し離脱成功、艦内に歓声が湧き上る。

浮上してみると、これがなんと環礁の入口ではないか。目前を通過していく敵船の明りに我が艦が照らし出されはしないかと思われる位の近さだ。聴音手が通報していた「感5、直上通過」といったのは、間違いなかったのだ。何隻かの船が行き来したのであろう。

新鮮な空気が何よりも有難い。通風路で外の空気を吸いながらの煙草の味はまた格別だ。生きている実感をしみじみと味わう。仲間との会話も弾む。しかし、こんなところで浮き上ってはおられない。すぐさま潜航して、出来るだけ遠く離れていった。さあ、これから深夜の洋上航走をしながら、電池の充電と圧縮空気の充填だ。

今にして思えば、思いがけぬ座礁は天佑であった。あのまま韜晦運動を果てしなく続けていたら、電池も消耗し非常手段に訴えざるを得なかったかも知れない。

敵もまさか我が艦が座礁したとは、思いもよらなかったのだろう。とうとう見失ってしまった。急に停って静かになり、まるで神隠しにでも会ったようなものだ。しかも座礁した場所が環礁の入口だ。我が艦の位置も確認できた。明日が定められた襲撃の決行日だ。

準備万端整えて、夜明けと共に最適の襲撃地点に着いた。予定通り回天の発進だ。ところが、前夜の航走充電時から、既に敵は我が艦をレーダーで捕捉していたのであろう。回天の最後の1基を発進する直前に、敵航空機からの爆撃を受けた。が我が方被害なし。

無事回天全基 (4基) 発進。我が潜水艦は深く静かに潜航して、乗組一同懸命に回天全基の命中と回天勇士の冥福を、心からお祈りしました。ウルシー島攻撃は成功しました。

回天勇士は立派に使命を果たしました。

特攻勇士の成功ということは、肉弾として散ったことなのか。私も回天特攻隊を熱望した一人です。母艦である潜水艦乗員も必要なのだと、あれこれ説得されて断念させられました。

今回最期まで行動を共にした回天勇士は、加賀谷武大尉(海兵71期)、都所静世中尉 (海機53期)、本井文哉少尉(海機54期)、福本百合満上曹(予科練) の4人で、都所君とは、卒業後も同じ潜水艦要員として寝食を共にして釆ました。

本井君は私の1期下ですが、機関学校時代同じ分隊で生活した事もありました。戦後も回天で散っていった戦友のことは、折にふれて思い出され、私の心の強い襞となっています。

たまたま、昭和62年1月にウルシー環礁慰霊の旅が計画され、関係者15名と共に、グァム、パラオ、ヤップ経由でウルシー環礁を訪れ、15日にモグモグ島及び洋上において、厳かに回天勇士の慰霊祭を行ないました。

現在は立派な観光船が就航していますが、当時はヤップ島からウルシー環礁までは、8.5トンのオンポロ漁船しか無く、途中エンジンがストップしたりして、5〜6時間の予定が倍以上もかかり、150200にやっと辿りついた始末でした。足を伸ばして渡るのも難しい狭い船内で、波浪にもまれ、波飛沫を浴びての艱難辛苦でした。それだけに現地での慰霊祭は、一入(ひとしお)感激深いものでした。

あの時座礁して「静の死線」とまで緊迫感を覚えさせられたのは、この島であったのか。船の上から、つくづくと眺めました。そして自分の現在までの生きざまを振り返りました。ヤウ島という名の小さな島でした。

昭和15年の12月に、満16才で海軍機関学校に入校して今日まで50年の歳月が流れ、現在は66才になりました。一年があっという間に経ってしまいます。

それにつけても、昭和18年9月卒業まで僅か2年10か月の海軍機閑学校の教育は毎日々々が充実した、素晴らしいものであったとつくづく思います。

(機関記念誌271頁)

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