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平成22年4月18日 校正すみ

流星初陣記

(「丸」47年1月号から転載) 

冨士 榮一

ウワサにきく流星との初対面

私と流星の最初の出合いは、昭和19年の末だった。同年10月ごろ、私は台南航空隊の教官として、台湾にいた。ある日、全搭乗員が一室に集められ、司令から神風特別攻撃隊の趣旨及び希望を募る旨の達示があり、希望者は各々の上司へ申し出るように言われた。

この達示の前に、妻帯者及び一人息子は退場するように云われたが、退席した者は、1人もいなかった。勿論私も、早速飛行長に特攻の希望を申し出た。この時、飛行長室の前で出会ったのが、神風特別攻撃隊の第1号となった関行男大尉であった。関大尉は、1か月くらい前、霞ケ浦の教官から転任され、以来我々は、台南の町をよく2人で飲んで歩いた仲だったが、この時ニヤリと笑った顔を、私は今でもハッキリ覚えている。

その後、1025日、関大尉は、神風特攻の先駈けとして散華し、軍神として二階級特進した。

その頃、私はまだ台南で毎日を送っていたが、突然、横須賀海軍航空隊勤務を命ぜられた。着任そうそう飛行長に挨拶にいったところ、「君には特別の任務をやって貰うから横空の大分分隊へ行き、高橋定隊長の指揮下に入れ」との命を受け、私はすぐさま大分に飛んだ。

大分空に着陸すると、彗星や銀河などの新鋭機の他に、見なれない逆ガル型のオレンジ色に塗られた飛行機が、目についた。

横須賀航空隊、通称横空は、天下に名高い実験航空隊なので、新型機があるのは当然だが、この時初めて、ああこれが噂の16試雷兼爆だなと思った。これが私と流星との初対面だった。

高橋隊長に面会すると、「よく来たね。君には流星に乗ってもらう。15人の優秀な部下をつけるから、8機の流星隊を編成して、試験飛行と訓練が終り次第、ラバウルへ行って南太平洋の敵輸送船団の撃滅に当ってくれ」といわれ、私は身が引き締まる思いだった。

尤も、27年も前も話なので、最近でも生き残りの仲間が集って昔話をすると、この時の任務は、前述のラバウルの進出であったり、空母信濃の基幹搭乗員の養成であったり、パナマ運河を、潜水艦を利用して爆撃するとかであったり、まちまちである。

兎も角、特殊任務(私は未だにラバウル行きを信じているが)であったことは確かである。

任務は任務として、その日以来私は流星に惚れ込んでしまった。

性能は既に紹介されているが、ここで、もう一度確認しておこう。全幅14.4メートル、全長11.4メートル、全高4.07メートル、全備荷重6.075トン、発動機は誉改1,850馬力、18気筒空冷式四翅ペラ、最高時速560キロ、(6,000メートル)巡航360キロ(4,000メートル)航続1,600キロ、兵装20ミリ固定機銃2門、13ミリ旋回銃1門、自動爆撃照準装置OPLを備えている。

特に、当機の特徴である雷撃兼爆撃について述べると、急降下爆撃は、当時の単発機では世界にも類のなかったものと思われる。

1トン爆弾を胴体内に収納する事が出来、雷撃の時は800キロ魚雷を体外に吊し、戦況に応じて両面の攻撃をすることが出来た。ミッドウェー海戦の頃、この飛行機があったらどんなにか役立ったことだろう。

 

わが国初の流星部隊誕生す

私の着任と相前後して、大分へ来た流星搭乗員達の顔触れは、また私を驚喜させた。まさに歴戦の勇士の生き残りが、南から北からこの大分へ集まってきた。我々は弱冠20才のパイロットを長として、生死を共にすることになった。そしてこの日から、流星の性能をフルに利用すべきテストや、猛訓練が昼夜の別なく始まった。

流星の製作は、愛知航空機の挙母(ころも)工場で行われたが、初春の瀬戸内海を、大分から挙母まで新機を受け取りに行くのにも、胸を躍らせた若き日の私だった。

戦局は次第に悪化し、前述の諸計画は不可能になり、わが流星隊もいよいよ内地防衛の任務に着くことになった。

昭和20年4月、私は攻撃第5飛行隊に入り、流星によるわが国初の戦闘部隊として、千葉県香取基地に赴任する事になった。攻撃第5飛行隊、略称K5の隊長は、私の艦爆飛行学生時代の教官で、横空でも何かと指導してもらっていた薬師寺一男少佐であり、私は高橋定氏と共に大変お世話になった。

こうして流星は、正式に実戦機として、以後8月15日午前まで猛訓練を重ね、わが海軍航空隊最後の攻撃機、及び特攻機としての新しい一歩を踏み出すことになった。

この間、流星は試作機以来111機生産され、約80機がK5に配属された。その中私が受け取り飛行ならびに試験飛行をしたのは、6機にのぼると記憶している。     

 

流星が辿った数かずの勇ましい、或いは悲惨なエピソードを、順を追って話してみよう。

偉大な人物には、時として大きな欠陥があるといわれる。流星は確かに素晴らしい飛行機だった。離着陸時の視野の広さ、米戦闘機にも劣らぬ速力、また艦爆と艦攻の特性を同時に生かした特異な性能、戦闘機並みの重武装など、他の飛行機にはない、素晴らしい点が沢山あった。

私も海軍の種々の機種、9699、彗星の各艦爆、零戦、月光など幾多の機種に乗ったが、確かに艦爆の操縦は一般に重く、その為に艦爆野郎どもは体格優れ、腕力もある、瞬間的な反射神経を持った者だけが選ばれた。

突如として来た対決の一瞬、流星は優れた飛行機であったが、中には妙なクセのあるものが何機かあった。急降下爆撃は、普通3〜4千メートル位から45度位で降下し、600メートル位で爆弾を投下して、直ちに引き起こし回避するのであるが、この瞬間、3G〜5G(Gは物体が地球に引っぱられる重力)くらいの重力がかかる。流星のなかには、この時右に「トーク」がかかり、反転してそのまま地面に激突する防ぎようのない事故の要素を持った何機かがあった。降爆の普通訓練は、指揮所の傍らに白いT字形の板を置き、それに向かって急降下をし、高度600メートルくらいで引き起こす。

香取航空隊の或る日、私が指揮所にいると突然物凄い破裂音がした。飛び出して見ると、前述の事故である。地下10メートルぐらいの大穴があき、機体はメチャメチヤになっている。

不思議にも火災の発生はなかったが、星型のエンジンにのめり込んだ2人のパイロットの姿は見るに忍びなかった。その後も、この種の事故が2つ3つと重なり、安心して降爆訓練が出来なくなった為、我々は根本的な対策を検討しなければならなくなった。

元来、急降下して急激に引き起こす作業はガソリンの流通に影響する。降爆の投下訓練は、普通飛行場の近くにあるコンクリートの仮設標的に、1キロ発煙練習弾を落として引き起こし、成果を見た上で飛行場に帰る。

だが、古い練習機で行なうとエンジンストップが多く、プロペラの止まった飛行機をグライドでだましだまし、着陸させた事が、私だけでも14回もあった。それでも、私は飛行機を壊したことはない。飛行生活中、一度も機体を壊さなかったのは、今でも、誇りに思っている。

流星の欠陥を直すために、横須賀空技廠の山名技術中佐(戦後東大教授になり、727ジェット機の羽田沖墜落事故の際、原因の究明に当った人)に後席へ乗って頂き、私が操縦して、あらゆる降下角度と速力で、テストを繰り返した。そして遂にエルロンの改造によって欠陥箇所を直し、全機の不安を無くすことが出来た。山名中佐は、平然として苛酷な条件を次々と出したが、一番クセの強い機を使ったので、操縦する方は馬鹿力によるフル回転の連続で命懸けだった。こうして唯一の欠陥も解決し、我々は、敵がいつ攻撃して来てもいいように態勢を整えて、敵を待つことになった。

また、こんな事もあった。B-29による空襲の他に、米艦上機が帝都の上空までやって来た20年6月の事である。編隊降爆訓練に出て間もなく空襲になった為、急いで木更津基地に帰投する途中、米のP-51ムスタングの編隊と出くわしてしまった。艦爆と戦闘機では先ず勝目はない。バンクをふって列機はすぐ逃げたが、隊長機の私は、そうとう執拗に追い掛けられた。映画やテレビでは、どこから射っても飛行機は、撃墜されるが、対単発機では、敵の後上方から迫り、軸線の合った瞬間が一番命中率がよい。

二人乗りの艦爆の場合、後部搭乗者の使命の一つは、この一瞬を前席の操縦者に伝える事である。戦闘機は、右に左にバンクを切り換えながら軸線に入る。この時が発射のチャンスだ。追われる方としては「ヨーイテッー」の合図で、操縦桿を右に倒してフットバーの左を蹴飛ばすと、機は右に大きく滑る。後追の機は海面に乗込むので、大きく右または左に急反転をする。

この時敵機がこっちを向いてニヤリとし、こっちもこヤリと笑い、お互いにそのまま分かれるという信じられない場面もあった。いずれにしても、自分の生まれ故郷である関東平野を逃げ廻る気持ちは、誠に情けないのだが、戦争中の愛矯とでも言おうか、今になるとあの野郎今頃何をしているんだろうとお互いに思ったり、思われたりしているかもしれない。

 

ただ一人の急降下爆撃

ここで攻撃第5飛行隊の最後の奮戦を、是非書き止めて置きたいと思う。

 K5は、終戦時には木更津にいた。紀伊半島沖から、房総半島沖の敵機動部隊に対して、夜間、昼間の別なく攻撃をかけ、太平洋戦争の最終日である8月15日まで戦い続けた。

態勢を整えて待っていた7月25日、米の機動部隊が悠々と紀伊半島の南60マイルを北上しているとの情報が入った。

わがK5に攻撃命令が下った。攻撃は2隊に別れ、1隊は隊長森大尉(70期)以下4機、もう1隊は私以下3機である。共に基地を5時に発進し、攻撃に向かった。

この時は普通攻撃、帰還したのは3機だった。その後5機が雷撃に出たが、接敵できず、1機不時着を除き4機が帰還した。

途中私は敵機の攻撃を交わしながら飛んでいる中に味方機とはぐれてしまい、月明りの中で敵の機動部隊を発見したのは、午後の8時頃だった。

米機動部隊は原則として、中央に空母4隻、その前後に戦艦2隻、周囲に巡洋艦8隻、駆逐艦32隻をもって輪形陣を構成していた。

私が降爆に入ると、射ってくるわ、その凄まじい事といったらなかった。私はふと子供の時戦前の国技館(今の日大講堂)で、夕刻になると豆電球が一斉についた瞬間を思い出した。

銀紙を幅3センチ、長さ30センチくらいに切った束を、撒き散らしながら、右左に機体を滑らして電探射撃を避けながら降下する。

この方法は、敵さんから学んだものである。米機がこの飛行場を攻撃する際、何故かゆらりゆらりと進入して来て攻撃をする。米機の帰った後には、大量の銀紙が残っていた。考えて見ると、敵さんは日本が、電探射撃をしていると思ったらしい。しかし我々は、電探射撃などしてはいなかった。お陰で、この方法を逆に使えば、アメリカの電探射撃が避けられるということが分かった。

私は降下中爆弾を落とす迄は敵弾に当らないようにと必死に祈った。普通爆弾は、600メートルぐらいで落とすのだが、私は命中率をよくするために350メートルまで降下して爆弾を投下した。相手は大型空母だ。私はそのまま敵艦の真上を通過した。

数紗後強烈な爆普と共に機体がガタガタと揺れた。海面スレスレの超低空で避退したので敵も打ってこない。私は直ちに攻撃の完了と、敵の位置を本隊に知らせ、夜の海を一路木更津へと帰った。

私は、午後11時頃に辿り着いた。残りの燃料を調べると、僅か10リットル(約3分しか飛べない量)だった。今考えても、何故あの弾幕に当らなかったのか不思議に思う。

幸か不幸か生き永らえて、私が流星の手記を書くようになるとは夢にも思わなかった。

その後我々は、7月25日の夜間、8月9日、13日、それに15日の午前と攻撃を繰り返し、敵の大型空母1、巡洋艦2隻を炎上させた。

その功績は、昭和20年8月15日、即ち終戦の日を以って、連合艦隊司令長官小沢治三郎中将の名により全軍に布告されたのだった。

(なにわ会ニュース2518頁 昭和47年2月掲載)
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