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平成22年4月17日 校正すみ

陸上偵察隊のクラス

加藤 孝二

押本から艦爆隊戦記の続きを頼まれたが、いつも諸兄に原稿依頼の張本人故、モリゴンさん(森田禎介氏の略語)に第1種を、第2種を小生で記して責を免れたい。爆の話が陸偵隊の話になったが不悪。偵4に関しては鈴木保男が詳しく書くことになっている。

141空の偵察第3、第4飛行隊は、19年7月頃は慧星艦爆を改造して使用していた為か、爆の操縦のクラス(川端博和、小山 力(機)、金原)が一緒だった。ヘルダイブ(急降下)が出来ないし、常に、0度宜侯の航法と戦務をやらされ、かつ上品な? 偵察隊の気風に止まっていたようでもあった。(失礼)

偵3付の川端、小山、水野英明、広瀬、小生、偵4付の金原、土屋、江口、鈴木保男の9名は飛行学生卒業後、7月某日名古屋観光ホテルに集合一泊(洋式バスにとまどったり、振袖姿のナイスなドアガールに見とれていないような振りをして見惚れたりして)ワイワイガヤガヤ鈴鹿に着任した。技量は運転免許取り立て程度ながら、誰にも負けない若さと闘魂を唯一の取り柄として。

新任少尉には実戦部隊の塔乗員は皆猛者に見える。隊員は夏の熱さでヘタバッテいた。「技量は下手でも、行き脚でこい。暑気払いに活を入れよう。物事は最初が肝腎」と、着任の翌朝、フライ級の金原からヘビー級の広瀬まで9人で「総員起こし」から、隊内をかけ廻った。朝食後、71期の八島中尉から「少尉総員集合」。何事ならんと集ったら、「今朝は見事だった。一寸タルンドルから大いにやってくれ」

分隊長は温厚な中島宣二大尉(70期)、着任最初の土曜日、士官室に屯していたら、「着任最初の休日だからといって遠慮するな、何、行く処がない? 俺について来い」というわけで鎌田大尉(機51期)とレスへ連行された。だが、旨そうに酒を呑んだのは酒に強い広瀬だけ。翌日三重の海岸を散歩し海水浴をしている人達もいるんだなあと感心しながら早々と帰隊。いやはや、コチコチの少尉さん達でした。

4、5日もすると、隊も編成されたばかりで新鋭機1P(水冷の慧星)の離着陸訓練をやっている段階であると判った。旬日を経ずして中島大尉殉職。当時の1Pは安定してなく、燃料系統、電気系統の故障多く、隊長も火災火傷、整備分隊士小暮新八(機)は真黒になってゴソゴソ、いつ飯を食っているのか分ちない位、いつも煤けた面構えであった。

後任分隊長に70期の森田大尉着任、以後苦楽を共にする。人をコキ使うのが実に旨い人である。

 

金原 薫

名の如くよくガスを放出、隊一番の人気者。鈴鹿で、金原、川端、小山の順に1Pの単独飛行。総員注目の内に彼の離着陸開始。軍医長に「オイ金チャン」俺がここで.(指揮所)御自ら見張っとるから安心してやれよ、毛布まで用意しているからな」 (事故の遺体は毛布に包むのが例)といわれ「ハッ では」と満面笑みをたたえ、彼一流の敬礼をして出発、ドンピシャリの着陸をした時はホッとし、続く二人も同じく。「中々上手いじゃないか」の指揮所の囁きに、密かに喜んだものである。

8月、都城に進出。小学校が仮宿舎、裁縫室にベッドを持ち込んでガンルーム、登校の小学生が「兵隊さんお早う」と挨拶する。

興亜奉公日ともなると勤労奉仕に部屋の掃除に来る。ソレツとケップ岩嶋中尉(71期)以下掃除に来る前に掃除をする。急造の飛行場では今生の思い出に飛行機に触らせてくれというお婆さんが来る。レスで酒が足らない時は分隊長の号令一下、酒の効率増加のため、鼻をつまんで一同輪になり座敷を駈足。どこで仕込んだのか水野のカンチロリンの他は後にも先にも1種2種の軍歌だけ、レスはあってもエスはなし、他愛のない馬鹿騒ぎに終始した。

 

川端 博和

甲板士官を買って出て、猛牛の如く隊内を歩き廻っていた。多忙で上陸はするらしいが隊内にいることが多い。見兼ねて「オイ今日は一緒に出よう、貴様の手が空くまで待っている」と誘ったら、何のかんのと言った揚句、実は車中知り合った局長さんに呼ばれてそこへ伺うのだと答えた。ナイスなコーペル(お嬢さんの意)がいると聞いて「貴様クラスに紹介せぬとはけしからん」と9人で押しかけたことがある。台湾へ行く前に、鹿星から都城へ一寸要務で帰ったら、川端と仲良しの小学生(6年)が飛行場にいた。飛行機(1Pのこと)と兵隊さんがいなくなったので、何時帰って来るかと毎日聞いていたとのこと。すでに戦死した川端の事を彼に告げることは出来なかった。鹿屋へ帰るべく、列線へ向う途中、ふとみるとその子が懸命に手を振り、しゃくり泣きしながら、90機練の横を走っている。夕陽に光った小学生の涙程、闘志を燃えさせたものはない。それは切なくも美しいものであった。

 

広瀬遼太郎

柔道4段の彼が慧星の狭い座席に入ると身動き出来ない。戦闘機がきても後向きの機銃は撃たんことにするといっていたが、19年暮から使用機が彩雲になり、大分楽だと喜んでいた。

 

土屋 睦

沈思黙考、寡黙の土屋の周囲はいつも静かであった。20年4月台湾行の途中、松山へ降りたら、道産子ガニ股の江口正一も戦死し、鈴木保男だけが残っていた。

 

 小山 力

南大東島沖で艦砲射撃をくった時急降下回避しながら「電報は届きましたカー」と叫んだ。後席偵察森田分隊長、ここでお陀仏と覚悟したが、心配したまま、死なせては可愛そう、嘘も方便「届いたゾー」と答えた。小山は欣喜省躍、回避運動を続けた。「当時500米以下の索敵要領の高度では、92号電信機の発信能力では基地へ到達しなかったのである。離脱後、高度をとり垂下空中線を下して始めて空母発見の報は受信せられ、以後台湾沖航空戦となった。「ひでえや分隊長は、土壇場でも人を騙すんだからなあ」といって笑った。

既に、71期の八島、加来、岩嶋、予備11期の本郷、クラスの川端、金原、水野計7名の中尉が小禄発進、初陣で散っていった。

20年3月、偵3解散、小山は偵3の搭乗員と共に偵102へ、小生は陸攻隊に転勤、着任挨拶と同時に転勤希望を申し出たら多田飛行長に「お前みたいな奴は始めてだ」と叱られたが、間もなく偵102へ再転勤、鹿屋で小山にすぐ戻って来るからなと別れたのが最後。

 

その他のクラス

平野 誠

艦攻操縦出身、テニヤン偵察に硫黄島発進、感状を授与された。広瀬、小山と4人で一杯やりながら、彼からこまごま戦訓を聞いた事があるが、台湾進出後まもなく、20年1月戦死。

 

松本 省三

平野 律郎と同じ隊にいた。彼は館山水偵から20年、木更津の陸偵隊に転勤して来た。速力、偵察方法の違う水偵からの転勤で一寸勝手が違うようだったが、すぐ台湾進出、江口、小山が本土から沖縄偵察したのに対し、平野と共に台湾からの偵察を行ない、機動部隊の強行写真偵察に勇名を馳せた。平野が戦死した後、飛行隊士として昼夜頑張っていた。小生台湾への彩雲空輸の折一夜同宿したが、例の落ち着いた態度で終始し、疲労を表に現わす事がなかった。5月5日の黎明索敵に発進、機動部隊発見、任務終了帰途につくとの発信あるも遂に還らず。

 

松浦 繁

20年8月9日台南発、マニラ強行偵察に向い戦死、偵察12飛行隊付であった。

 

堀江太郎

クラスのみならず、偵102飛行隊の人望をかき集めた男。横空より転勤後、初陣で硫黄島作戦に参加、犬吠埼東方海上に出て還らず。特に出撃待機中にも行なった彼の部下搭乗員に対する教育は実に立派な教えを残した。

以上11人が陸偵員のクラス戦死者である。(生存者、府瀬川、鈴木)

 

偵察機の仕事は地味な仕事である。戦死の折は概ね連絡もなく「消息を絶つ未帰還」の数語で終る。

然し、その責務は重い。いかに多くの若人が受持索敵線を唯1機、黙々と飛び、知る人もなく未帰還となったことか、改めてかみ締めたいものである。

(なにわ会ニュース9号5頁 昭和41年9月掲載)

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