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平成22年4月22日 校正すみ

比島残留熊野陸戦隊の最後

元熊野二番砲塔砲員長

河村 清一

 サンタクルーズ湾にて艦を離れ、マニラに移動して帰還を待つ事、数日、戦況は益々悪化し、便船も無くなったので、残存中の約250名の者は、吉田邦雄中尉(71期)を中隊長に戴き、マニラ防衛第31特別根拠地隊に編入になった。中隊長吉田中尉、指揮小隊長梶田兵曹長、第4小隊長岡崎兵曹長で、第1、第3小隊長は、他艦船か、31特根関係の士官で、中隊員は全員熊野の生存者であり、私は中隊付となっていた

 

 中隊の編成も、第1小隊は熊野の1分隊員が主、第2、第3小隊は2分隊員、第4小隊は第5分隊員、その他指揮小隊は3、4分隊員であったように記憶している。

 

 当時31特根は、司令官岩淵三次少将で、我が中隊は第2大隊(大隊長木村大尉)の第4中隊であった。編成と同時にマニラ市内パコ駅近くの小学校を兵舎とし、兵器の調達や陸上戦闘の訓練を行なった。吉田中隊長は編成後数日にして病に伏され、マニラ海軍病院に入院。(病名はマラリヤに何かを併発されたように記憶している。)

 

 その間中隊の指揮は第1小隊長土井輝章中尉(海兵72期、木曽乗組)が執る事になった。梶田兵曹長と私とで時々状況報告やお見舞のため吉田中尉を病院に訪れたが、病状は好転せず、19年暮には中隊長の職をお退きになり、土井中尉が正式に中隊長となった。

 

 パコ小学校にて訓練する事約1カ月、中隊は陸戦隊本部の建物に移動して附近の警備に当るも、この時点では市内にゲリラが出没する程度で、大した戦闘行為もなく、中隊員一同無事であった。

 

 20年1月末頃より米軍は、マニラを包囲してじりじりと攻め込んで来た。第4中隊も陸戦隊本部の建物を出てマニラ女子大横の小さなビルを中隊本部とし、前線に各小隊を配して戦闘態勢を採った。20年2月に入って戦闘は激しくなり、昼間は米比軍との射ち合い、夜はゲリラとの戦いで、中隊は不眠不休の戦闘を続けた。この頃より毎日のように戦死者が出始めた。

 

 確か、紀元節の2〜3日前だったか、夜間ゲリラ討伐に出られた梶田兵曹長は、敵弾を受け重傷、本部に帰着と同時に息を引き取られた。(以後指揮小隊の指揮は私が執る事になった)また同じ頃パコ駅附近に新たに現われた優勢な米軍を討つ可く出撃した第3小隊は甚大な損害を受け、小隊長は重傷、代って指揮を執った喜田上曹(熊野2分隊先任下士官)は数名の隊員と共に壮烈な戦死を遂げられた。

 

 2月111213日と戦闘は激烈を極めた。前線で戦死された方は各小隊で葬り、負傷し中隊本部に収容後死亡された方は女子大学棟の空地に埋葬したがその数は30体を超えている。この2〜3日の戦闘で隊員の半数以上が戦死された。私も10日頃までは戦死者名簿をつけていたが、11日以降は戦務に追われそれも不可能となった。

 

 2月13日午後には大隊本部との連絡も付かなくなり、前線の小隊も小隊長、小隊付の大半が戦死。古参下士官が小隊の指揮を執る状態であった。13日夕刻だったと思うが、土井中隊長は、「これ以上この位置では戦えぬ。中隊本部の位置を変えるから各小隊に連絡して残存者を集めろ。」との命令を出された。

 

 私は直ちに各小隊に伝令を発すると共に、自分も近くの小隊に連絡に行った処、その小隊は秦野上曹が指揮を執り敵陣に突入した直後であった。負傷し現地に残っていた隊員より「秦野上曹が今軍刀を引き抜いて突入されました。」と聞かされたのを記憶している。そして中隊本部に集った者は5060名。土井中隊長は残存隊員を引連れ、マッキンレー(マニラ市南東方の高地)への移動を行なったのであるが、この移動もまた容易なものではなかった。元気な者は戦いながら、負傷している者は杖に縋(すが)って辛うじて、移動したが途中落伍する者も何名かあった。私も元2番砲塔員の梶田安久一水が、足を引き摺りながら付いて来るのに「頑張れよ」と一言言ったのみで、どうしてやる事も出来なかった。(漸塊に堪えません)

 

 マッキンレー到着後は、同地の司令官三宅大佐の指揮下に入り、夜間マニラへの斬り込みが主戦闘であった。斬り込み第1夜は道路上の敵機銃陣地に遭遇、手榴(りゅう)弾戦となり、この戦闘で4、5名の方が戦死している。第2夜は山道を迂回して斬り込もうとしたが、またまた機銃陣地に遭遇、射ち合いの末、敵陣地に突入して敵数名を刺殺するも、隊員も10名以上が戦死した。この夜の戦いで唯一の指揮官土井中隊長が戦死された。

 

 私は夜明けと共に隊員を纏めて、マッキンレーに引き返してみると、同地の部隊は支離滅裂、指揮系統は完全に失われている。やむなく私は山口正美上曹などと計って、河村隊を編成。東方山地へと移動を行なった。(この頃が私にとって一番苦悩の時期であった。「指揮官が欲しい」と密かに1分隊長小林大尉、2分隊長平山大尉のお姿を思い浮かべたものである。)

 

 然し、何時迄も山中の放浪もならず、当時ボソボソ(地名)の山中に在った陸軍部隊の参謀本部に赴き、指示を仰いだ処「海軍は古瀬少将が残存者を集めておられるから、そこへ行くように」との指示を受け、山中を捜し、編成半ばの古瀬部隊本部に辿り着いた。そして北比空関係者を主体に編成中の同隊小川大隊の指揮下に入る事が出来た。この時の隊員(元熊野の乗員)は40名足らずと記憶している。

 

 編成当初は継子的扱いを受け、隊員一同苦労を重ねたが、在艦時より人見艦長以下、艦幹部の御薫陶を戴いた隊員一同は、次第にその本来の優秀性を認められ、東海岸インファンタでの本編成では、隊員の殆んどが小川大隊の大隊指揮班員となった。

 

 この地での任務は、物資の調達と陣地の構築であったが、ここも敵機の攻撃や艦砲射撃が激しくなり、部隊はやむなく1,000米高地と呼ばれる後方の山中に立て籠もって、ゲリラ的戦闘を行なったのである。インファンタ以後は、長谷川兵曹が命令伝達の途中、敵と遭遇して戦死の外、若干の隊員が爆撃等で戦死されたが、その他の隊員には大した被害は無く、食糧には不自由したものの、他部隊にあった如き餓死者等は無かった。これも隊員一同、元熊野の乗員であると言う誇りと自覚の元に一致協力した為と思っている。

 

 そして終戦、部隊は米軍に投降した。マニラにて陸戦隊編成時250余名。その大半はマニラ市街戦にて戦死され、中隊と共にマニラを脱出したもの5〜60名。そし今、終戦を迎え得た者、30数名に過ぎなかった。

 

 また戦後収容所内にて「東海岸に行けば熊野の隊が居る」と井の口兵曹外数名の方が、山中や海岸を捜しておられたと言う事も耳にした。お会い出来なかった事を残念に思っている。

 

 戦後30余年、私の記憶もぼやけ、戦死された方々のお名前も殆んど忘却。生々しい光景も断片的には目に浮かぶのですが、誰方であったか等がはっきり致しません。また、日時や官職、氏名、地名等にも多少の誤りはあると思われます。30年の歳月と我が身の脳の老化に腹立しさを感じて居ます。

(付)河村清一氏の手記について

左近允尚敏

 この手記は、本年11月呉海軍基地に慰霊碑を建立すべく準備を進めている熊野会の事務局から先般送付を受けたもので、コピーを土井君の父君にもお送りした。ご返事の中で一、二の誤りも指摘されたのであるが、生前の土井君を知る諸兄も多いので掲載を提案した次第である。

 若干説明を加えると、熊野(小生は航海士)は7戦隊の旗艦で、栗田艦隊の一艦として比島沖海戦に参加、1025日サマール沖で米駆ジョンマトンの魚雷を艦首に受けて落伍、26日ミンドロ沖で米艦上機の爆弾2発が命中して傷口をひろげ、11月6日ルソン西岸で米潜グイタロ、プリーム、レイトン、レイの4隻から計23本の魚雷を発射され、うちレイの2本が前部と中部に命中して航行不能となり、曳航されてリンガエン南方のダソール湾サンタクルーズ港に入って修復に努めたが、1125日米空母タイカンデロガの艦上機に雷爆撃されて沈没した。

 艦長副長以下400余名が戦死し約600名の生存者は30日マニラに移動したが大部分は陸戦隊に残され、ほとんどが戦死した。その状況の一端はこの手記から窺がわれる。小沢易一君と井ノ山威一君は沈没時戦死し、熊川博君は陸戦隊に残って戦死した。

 私の手記にも次のように土井君の事を書いてある。(12月1日か2日、マニラでのことである。)

「マニラの水交社で土井輝章中尉に会った。木曽に乗り組んでいる。1113日の空襲で沈没したが、大部分の機銃は水面上に出ているので、毎日交代で出掛けて対空警戒に当り、米機が来襲したら射撃しなければならないという。沈むことはないのだから、これでは機銃か乗員が直撃されない限り戦闘を続けることになる。なかなか辛い仕事だと思った。19日の神風特攻隊朱雀隊の一機として、爆装した零戦で突っ込んだクラスの多田圭太中尉の話もしてくれた。彼とは兵学校最上級生の時、同じ分隊で彼の父と私の父もクラス同士である。武蔵で沈んだ一期下の井土守少尉にも会った。」

(なにわ会ニュース39号30頁 昭和53年9月掲載)

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