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平成22年4月16日 校正すみ

戦後に想う

北村 卓也

昭和1512月、海軍機関学校に入校、それ以来早くも、或いは長かったかもしれないが、50年の歳月が経過した。昭和18年に卒業、練習艦隊終了後は、それぞれ水上艦艇に、潜水艦に、航空に、整備にと分かれ、実施部隊に、或いは術科学生へと任地に散っていった。これが今生の別れとなったクラスメイトもあった。

入校時119名のクラスの半数が戦死し、その後病死された方を加えると、現在の生存者は44名になっている。考えてみると我々は何時死んでも可笑しくない時代に青春を過ごし、今は平均寿命が伸びたとはいえ、何時死んでも可笑しくない年代になった。よく生きて来たなと思い、そして変化の激しい人生であったなと考えるのが実感である。

私は整備学生終了後直ちに北海道の千歳 (艦爆) に向かい、その後は千島の天寧(艦爆)、台中(艦爆)、最後は比島のクラーク・フィルド(艦攻)と転戦をした。千歳、天寧をのぞいては総て消耗の作戦であった。

クラーク・フィルドでは多くのクラスメイトが戦死されたが、不思議と誰とも会ったことがなかった。当時米軍が比島を目ぎし、次第に北上をはじめ、マニラの南西部バタンガス或いはマニラの北部リンガエンに上陸するのではないかと、色々情報があった。

その頃当隊の艦攻「天山」の1機が、作戦の帰途バタンガスに不時着した連絡が入った。1機でも必要な時期であり、これの修理救援に向った。クラーク、マニラ、バタンガスの順で行く計画をして出発した。当時クラーク、マニラ間は多少ゲリラの出没があり、危険であったが、トラックに機銃を積み、少数の下士官と共にマニラに向い、なんとか無事マニラに着くことが出来た。

さてバタンガスに行こうとした時、米軍のバタンガス上陸が今日か明日と云う情報で、北比空からバタンガス行きは中止させられた。やれやれと思った気の緩みか、クラーク・フィルドに於ける連日連夜の整備で睡眠不足が続いた為か、或いはクラーク・フィルドでは食糧不足のため毎日毎日芋ばかり食べていて、マニラに来て急に多少なりともまともな食事をした為か、猛烈な下痢になってしまった。そして約1週間仮設の海軍病院に入院してしまった。

この間に米軍はバタンガスを素通りし、リンガエンに上陸を開始していた。退院後マニラ、クラーク・フィルド間はゲリラで通行不能になり、遂にマニラに釘付けになってしまった。大村航空隊で流星編成のため帰国の知らせもあったが、結局は北比空に残ることになった。

北比空の基地はマニラのニコラス・フィルドであり、そこには50期の宮本大尉が勤務していた。(宮本さんは数年前に他界された。) その頃現役の若い士官は宮本さんと私のみであり、専ら特攻機整備と夜間内地からの連絡と帰国者を運ぶために来る一式陸攻の整備に当たった。

52期の国崎さんが陸攻の機長でニコラスに来られたのもこの時であった。お互いに元気を確認し合うのみの短い出会いであった。

制空権は盗られ、米軍はリンガエンからマニラに向けて南下を始め、又周辺はゲリラが蜂起し、何処にも行くことは出来ず、夜間の内地との連絡便が唯一の移動手段であった。毎夜在留邦人、新聞記者、軍関係者等何十名の方々が帰国していった。

帰国者の順番は北比空司令部で決めていたが、こうなってくると一刻も早くマニラを離れたいと思うのが人情であると思うが、何とか早く乗せろと、大人しく順番を待てない人が多くなってきた。特に新聞記者は我々に対しても、早く乗せろ等々いろいろと注文が多くなってきた。

この様な時でも、少数ではあったが我々に感謝こそすれ、慌てず急がず立派な方もいた。私は一人の新聞記者に両親宛の写真と手紙を託した。終戦後知ったが、この手紙も写真も家には着いていなかった。それから数年後してから知ったのだが、その人が大新聞の役員になっていた。

これが世の中かと思い知らされた気がした。しかし戦後の社会へ再出発するに当たって、或る面でのよい教訓になったと思っている。

此の度の戦いで、比島のみしか知らないが、植民地としての歴史のある国民は、為政者に対してそれなりの生きる知恵を持っている。日本軍が南方海上に於いて、又南方の諸島に於いて苦戦、敗戦となり、今又リンガエンに米軍が上陸して来た時、今迄の協力者は次第にゲリラになっていった。

当時のマニラ市街の様子は、昼間は割合治安が保たれていたが、夜は危険であった。又燈火管制下であったが、バー、レストラン等は盛んであった。フィリピンとスペイン、フィリピンと中国の混血の女性は大変美しく、容姿端麗であり、何処のバーにもレストランにも屯しており、我々の目を楽しませてくれた。

外出する時、紙袋一杯の紙幣を持っていってもバーで飲むと、レストランで食べる事も出来ない。価値のあるのは何万ペソの紙幣より、煙草の「ひかり」2箇である。これで何でもOKであった。インフレの恐ろしさをつくづく経験させられた。

又戦いの合間に見たマニラ湾の夕景は正に絶景であった。当時、将校はいくら、下士官兵はいくら、特に航空隊の者には高い賞金が賭けられ命を狙われた。それでも拳銃2丁を腰につけ、仕事のため、又若さもあって、内地からの往復便の合間をみて、夜間でも街に出掛けたものである。何処からともなく拳銃の発射音がしてくるが、実際に狙われたことはなかった。

毎夜の内地からの往復便もなくなった。特攻に出る機もなくなった。それ以後は米軍との陸上戦闘である。マニラの空爆、周辺の戦闘は熾烈を極め、我々の守備範囲であったニコラスフィルド、マッキンレイ (マニラ市内にある小高い丘) 周辺の戦闘も次第に敗色濃く、私もこの時腕に傷を負った。

我々海軍航空隊は、ルソン島の東海岸へと移動した。充分な弾薬も食糧もなく、そこでは小規模な戦闘が行われたのみで、その地に於いて終戦を迎えた。8月中旬内地からの玉音放送を現地で聞いた。

来るべきものが来たと言うのが実感であった。敗戦でも生きていれば何とかなると思った。しかし敗戦という状況のもとに戦死された方の無念たるや計りしれないものがあり、つくづく頭を下げたのである。

いよいよ降伏の時が来た。どの様にして米軍と連絡を取ろうか、白旗を持って出て行くしかない。しかし誰が行くのか、一番若い私にお鉢が廻って来た。白旗を持って敵に降伏するために海軍にいるのではない、と云っても誰かが行かなければならない。

意を決して、下士官2名を連れて対峙(たいじ)している米軍の陣地に出ていった。米軍は我々を見つけるや、歓迎の様子を示し、出迎えてくれた。軍楽隊は軍艦マーチや愛国行進曲を演奏し、一緒に行進し、町内を通り彼等の本部に到着した。歓迎されたのか、町内の住民にPRするためかは不明であったが、長い戦いが終って彼等も心からほっとしたのも事実であると思った。

そして約10日後には武装解除となり、捕虜としてマニラの近くにあるカランバンの捕虜収容所に送られ、頭からDDTをかけられ、P・W(PRISONER OF WAR)とペンキで大きく書かれた米軍の服装に着替えさせられた。

しかし私は幸運であった。昭和20年の11月初めと思うが、一番始めの復員船で帰国した。横須賀の富岡に上陸、復員手当を貰って家に帰ったのである。家は東京品川区の大井町であり、両親も健在であった。幸い家は焼かれていなかった。

さて帰ったはよいが、羅針盤のない船が大海に出て行く様なものであり、今後何をして食って行くかが早速問題になってきた。世の中は騒然としており、復員軍人の立場も益々難しい時代であったことは諸兄とて同じであったと思う。

今一度やり直すために大学に行こうか、しかし両親も年だし、まず食う手だてを考えなければいけなかった。海軍では短期間ではあるが、船と航空機をやった。今度は陸で自動車をと思い、日産自動車の工員として同年12月に入社した。同時に入社した仲間には海軍の技術士官、陸士出身者もいた。皆な油だらけになって、エンジン、ミッション等の組立を行った。

明けて昭和21年の正月、会社へ家から知らせがあった。

マッカーサー司令部から戦犯容疑者として逮捕すると云うことであった。すぐに家に帰ると警官2名が待機していた。そのまま連行しょうとする。用意のため少し待ってくれと言っても、まるで殺人犯でも扱う様にして連行しょうとする。両親が用意してくれた着替えと日用品を持って彼等に従った。手錠をしないだけでも恩情であると彼等が言ったことを覚えている。そのまま巣鴨拘置所に入所した。3畳と手洗所のついた独房である。

気を落ち着かせる為、まず壁に向って倒立をした。毎日3度の食事、午後30分の散歩、無味乾燥の生活であった。独房には一カ月いた。この間に2、3回の取調べがあったが、その後大部屋に移された。

大部屋のある棟は3階になっており、廊下をはさんで南北両側に5、6室あった。廊下の中央は3階から1階迄見通せる空間があり、そこは棚で覆ってあった。私のいた部屋は南側の中央付近であった。

同居人はA級戟犯容疑者としての寺島健元海軍中将(出所後早く他界された。)元鉄道大臣、商工大臣をやられた方である。B級は陸軍の大佐の方であった。

そしてC級として私の計3名であった。

寺島さんから毎夜その当時に至る迄の政界夜話を聞かせてもらった。私の部屋の右隣りは岸信介、又その右隣りは東條英機、反対の左隣りは児玉誉士夫、又反対側の部屋には賀屋輿宣元大蔵大臣等錚々(そうそう)たる人が住人であった。1階、2階も同様な住人であり、従って雑房ではあったが、戦争当時の重要人物が一堂に会した観であった。

食事の時になると1、2、3階同時に配食になり、我々は米軍の使用していたアルミ製の配食板を持って並んだ。その様な時に下の階から奇声が聞こえてくる。聞くと、それは大川周明の奇声であるとのことであった。雑房に於ける生活も独房の時と同じ様なものであったが、他人と話しが出来るのは大きな違いであった。午後の散歩の時などは度々A級の方と話しながら歩いたものである。若かったせいか色々とアドバイスも貰った。

入浴は2、3の部屋の者が一緒に入浴、戦時中はとても近寄る事も出来なかった東條さんもこの様な所にあっては、一人の物分かりのよい、親爺にしか感じられなかった。入浴中、自殺した時の弾の跡を見せてくれて説明してくれた。又中々見ることの出来ない東條さんの股間の一物もじっくり見ることが出来た。

岸信介は出歯の親爺、児玉誉士夫はいがぐり頭のずんぐり形、これが政界で活躍している人とか、満洲に於ける児玉機関の親玉であったとか、当時の私はよく知らなかった。

そのため余り深入りした話もしなかった。今少しお互いが理解し合える迄になっていたら、私の人生も今とは変っていたかもしれないと思うこともある。

その様にして6カ月が過ぎた頃、又マニラに戻されることになった。3階の方々をはじめ多くの人に見送りを受けて巣鴨拘置所を後にして、元海軍の厚木飛行場にジープで向った。途中東京、横浜の街並を見るのも6カ月振りであったが、何の変化もなかった。

マニラ行の便B29は既に待っていた。早速搭乗離陸、丁度夕方であり、真っ赤な夕焼けの空の中に真っ黒な富士の姿が浮かび、素晴らしい眺めであったが、私には富士がさよならと言っているようであった。

途中何個所か中継地によった為、マニラの思い出のニコラスフィルドに着いたのは翌日の朝であった。早速又ジープに乗せられて着いた所は、旧日本大使館の隣に急造した簡単を収容所であった。その大使館は当時米軍将校のクラブになっていた。毎夜ダンスミュージックと女性の矯声が聞こえてくる。勝者と敗者、まさに天国と地獄、天と地の差であった。

それから間もなく又カランバンの収容所に送られた。以前は捕虜収容所であったが、今度は戦犯容疑者収容所になっていた。海軍部隊の仲間が迎えてくれた。皆元気そのもので一安心した。

これで北比空の海軍部隊は司令以下全月揃ってしまった。私を除いて他の者は帰国していないので、私を加えて戦争当時の組織そのものの全員が集合してしまったことになった。これから2年半の収容所生活が始まったのである。

戦犯容疑は、マニラから東部海岸地区に移動してからのその土地に於ける住民とのトラブルであった。当時は陸軍部隊もいたし、敗戦のため通過部隊も多く、内容については納得出来ないものであり、不明のものであった。米軍側は一つの事件に対して犠牲者を求めてくる。我々は取調べを長びかせ、講和条約が出来るまで裁判に持込ませない作戦で臨むことにした。取調べが進むに従って米軍も理解を示し、結局帰国時期の相違はあったが、全員無事帰国することが出来た。

米軍は容疑者に対して使役を求めて来た。最初は国際法を盾にとり、将校は働かなかった。しかし若者が働かないほど辛いことはなかった。朝から晩迄自分達で作った囲碁、将棋、麻雀をしていることも出来ず、高齢の方を除き、遂に全員働くことにした。

職種は色々あった。軍隊組織解体後の人々の集りは、この様な収容所暮らしの中にあっても人間社会そのものであり、世渡りのうまい者、下手な者、明日をも知れない中にあっても生活に差が出てくる。それは働くことによる、何がしかの役得であったのかもしれない。余りにも色々な事柄があるので書くことは困難である。

この様な状況の内にも裁判は進み、すでにデス・バイ・ハングで処刑された方もいる。裁判中の方もいる。個人間の問題、部隊間の問題等々複雑な問題で困っている方もいる。我々海軍部隊は少数であったこともあり、最後迄大変纏まりはよく、皆で協力することが出来た。

勝者が敗者を一方的に裁く、この裁判のやり方、内容に疑問を持っていた。そこで容疑者からデス・バイ・ハングを出さないために裁判の刑を少しでも軽くする方法は無いか、そうすれば講和条約後必ず釈放されると考え、その方法を相談したのである。

その頃の検事は米軍から比島軍に交代していた。多くの人の集りの中には大工、手芸、工芸に優れた人が何人かいた。それ等の人々に家具や、軍艦の模型や、薬莢から灰皿等を作ってもらい米軍、比島軍に売り、又必要な時には贈った。材料、工具類はきれいな言葉で言えば使役先から調達したのである。米軍は余り細かいことは言わず、従ってこの様な活動が出来たのは幸いであった。

我々は専ら商事会社の営業で注文と販売を行った。そしてマージンを高く取って稼いだのである。この金を基金として出来る限りのことをした。魚心あれば何とやらではないが、一人でも多くの日本人を助ける為にこの金を裁判に使った。

収容所の内も暗いことばかりではなかった。芝居の好きな連中はメリケン袋やドンゴロスで着物を作り、紅、白粉も何処からとなく調達し女形も誕生した。週末には小屋を作り我々を楽しませてくれた。酒も乾燥果物とイースト菌で作り、飲みながら観劇と洒落たこともあった。

こうなってくると寂しいのは日本の女性がいないことと自由のないことである。在る収容所の一角に有刺鉄線が張られ、小さな天幕が一つ出来た。何事ぞやと聞いてみると、日本の漁船が比島の近くで遭難し、その乗組員の内に一名女性がいるので、その女性が来るとのことであった。全員期待を持って見守っていたが、実際に来たのはお婆さんであった。 

収容所内の食事は当時非常に悪かった。次第に改善されてきたが充分と言えなかった。食事の向上の交渉はしたが、効果は現れなかった。この様な中にあって米軍の食堂に使役に出ている連中は色々と苦心をし活躍した。

勤務が終って夕闇迫る頃収容所に帰って来る。背中には大きなベーコンをまるごと背負い、腰周りにはソーセージをぶら下げて戻って来た。又服装は米軍の軍服スタイルであり、靴もズボンの裾を押さえるタイプであったため、そこにゆで卵や果物を入れて帰って来る。

途中で余りの重さのため卵や果物が飛び出して大騒ぎをしたこともある。米軍は知ってか知らずか、持てる国の襟度であったかもしれない。この様な補給が全員に配られるわけにはいかなかったが、仝員のスープの味付け、病人等の食事の一部になったのは確かである。

次第に帰国する人も増え、裁判の進展もあり収容所の人間も次第に減少してきた。一、二のトピックス的なことを書いたが、明日をも知れない命であっても、この様なことをしていないと気が落着かなくなる。然しこの様なことを何時迄続ければよいのかと、考えることもしばしばあった。皆も同じ気持ちであったと思う。

昭和23年の秋の在る日、突然私に帰国の知らせがあった。部隊の仲間に先がけ部隊からは一人のみの帰国では後ろ髪を引かれる思いであった。いずれ講和条約締結後は皆帰国、釈放になるとは思いながらも辛かった。

当時我々の部隊の調査は全然なかった。私が帰国して間もなく、収容所はモンテンルパに移動した。今度も船で横須賀の富岡に上陸した。

服装は大きなP・Wのマークかついたまま、電車賃も支給されず、復員局の人に上陸早々借金をして大井の家に向った。父は私の留守中に亡くなっていた。母は間借りをして一人で住んでいた。母は本当に心から喜んでくれた。一人息子の私が、今やっと終戦後3年にして帰って来た。然しこの戦争で多くの方々が戦死され、又比島には一緒に戦った仲間が未だ残っていることを思うと私の気持は複雑であった。

最初復員した時は今一度大学に行くか、就職するかと考えたが、今度は母一人子一人、母は売り食いで生活をしていたので、何の躊躇もなく、食うために日産自動車に再就職した。日産も暖かく迎えてくれた。

帰国後知ったのであるが、復員後一度日産に入社して約1カ月一緒に働いた陸、海軍の方々が、マッカーサー司令部に嘆願書を出してくれていた。短い期間一緒に働いたのみであったが、その気持ちに打たれた。

又私の留守中、クラスメイトの二谷、小暮、金枝等の諸兄が何度となく母のところを訪ねてくれていた。今更ながらクラスメイトの心の繋がりを感謝する次第である。母との生活は決して楽なものではなかった。

年老いた母に楽をさせたい一心から或る時、金枝に借金を頼んだことがある。彼は借金するより今一度考え、安易な方法より頑張る様に考え直したらと言ってくれた。その後の私の精神的支えになったことを今でも感謝している。

今迄書いたことは昭和23年に帰国した時迄の経過を記したのに過ぎない。これは氷山の一角であり、詳しく真実を伝えることは出来ない。

比島にあって敗戦の色は濃く、食糧は不足し、次第に組織が弱くなっていく時、又明日をも知れぬ命を思いつつ、収容所に於ける生活、人間も極限状態になると人間の素晴らしさと同時に醜さ、長所と短所が一度に出て来るものである。それは学歴でもなければ学閥でもない。又家系でもなければ育ちでもない。

人間としての本当の姿であった。色々と反省をし、考えさせられた経験をしたと思っている。しかしこの経験がプラスであったのか、マイナスであったか。終戦後3年間の時間を考えればマイナスであったが、人間性の一部をあの様な状態で経験出来たことはプラスであったかもしれない。

比島は気候的には大変恵まれていた。大変気候の悪い所におられた方もいるし、又もっともっと苦労の多い悲惨な状態を経験された方も多いと思う。事実は小説より奇なりと言うが、その通りであって、真実は中々表面に出ないし、語り継がれないのであると思う。戦死された方はもっともっと過酷な状況のもとで亡くなられたと思うが、しかし誰も真実を語ることは出来ないのではないか。

帰国後日産自動車に再入社し、今度は実験部であった。その頃の自動車業界は、終戦後トラックの生産のみであった。昭和22年中頃乗用車生産がマッカーサー司令部より許可され、乗用車の生産がやっと立上ったばかりの時であった。欧米の車と比較をすれば到底太刀打ち出来るものではなかった。

しかし戦時中に航空機、造船等で活躍した人々も多数入社して来た。従って次第に車の性能も上がり、モータリゼーションが始まっていったのである。そして戦後の揺藍期から成長期、現在の成熟期へと繋がっている。

その間性能向上と共に輸出が開始されたが、同時に自由化の波が押し寄せてきた。又石油問題から省エネルギー、環境問題からは排気、安全、最近ではリサイクルへ次から次へと問題が提起され、大変忙しい時代であった。

それは現在も続いている。私は実験部から中央研究所へ、次に設計部へと一貫して開発部門を歩いて現在に至っている。実験部時代、追浜にテストコースが建設された。これは横須賀航空隊の滑走路跡である。

又中央研究所は迫浜航空隊(整備学生時代)の本館及びその付近の建屋であった。本館は現在もそのまま使用している。昔の士官室食堂は今研究所の総務部が入っている。一時壊して再建築の計画もあったが、余りにも頑丈に出来ているので、壊すのに多くの費用が掛かるため中止された。

内装、外装は大変綺麗になって使い心地のよい所である。又輸出が全世界に及んでくると、相手先の運輸省との交渉が多くなってくる。ドイツの運輸省はドイツ北部のフレンスブルグにあった。度々訪問したが、そこには元ドイツ海軍のUボートの艦長がいた。大変親しくなりフレンスブルグにある戦後のドイツ海軍兵学校を見学に連れていってくれたこともあった。

日産自動車で仕事をしたため、欧米に行く機会が多かった。

これ等の諸国は長い歴史があり、民族の問題、宗教の問題、征服者になったり被征服者になったり、非常に多くの困難を乗り超えた歴史を持っている。島国の内から自国を見、島国の外から自国を見たことが少なく、外敵の侵入の経験もない我が国民に比べて、全ての問題に対して事実を冷静な目で見、将来のことを考えている。

国外の敵に対しては防衛力と他国との条約又は友好関係を築き、バランスのもとに国益を保っている。我が国は幸運にも第二次世界大戦後、平和を享受し、経済の成長を果たした。口ではグローバルと言うが、時代の変化を読みとれず、荒天準備も、狭水道通過の備えもなく、不毛の論理が先行している様に感じる。これも歴史の相違による結果であると思う。

 

意図した事を全部書くことは出来ない。簡単に書こうと思ったが大分長くなってしまった。考えて見ると、運命と言ってよいか、節目節目と言ってよいか何か分らないが、その時その時、両親が、親戚が、先輩が、クラスメイトが、友が常に見守り応援してくれている様に感じた。

その期待に応えなければと思って頑張ってきた。お互いに終戦後から今迄フルスロットルで余りにも忙しすぎる歳月を送ったと思う。今はお互いに時間のゆとりが出来る年代になってきた。今から又旧交を暖めていきたいと思っている。今後の人生を皆と共に大切にし、悔いのないものにしていきたい。

(機関記念誌299頁)

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