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平成22年4月20日 校正すみ

機関科の責務

斎藤 義衛

斎藤 義衛 海軍機関学校校舎

 昭和18年9月15日卒業の海軍機関学校53期生は、江田島の海軍兵学校72期、東京築地の海軍経理学校33期と同年の卒業で.かれらはお互いを「コレス」と呼ぶ。それぞれクラス会をもっているが、コレスは三校で、「なにわ会」という会をつくり、毎年6月には 遺族を加えて國神社での参拝クラス会、そして、年末には忘年クラス会を開いて連帯を強めている。

 

 舞鶴の市内循環バス「自衛隊桟橋前」という停留所で降りると、道路をはさんだ向かい側の高台に、もと 「海軍機閏学校」今の海上自衛隊の総監部がある。

 

  海軍機関学校は、最初は江田島にあったが、明治34年(1901年)に、横須賀白浜の地に移転し、そして、関東大震災のあと、一時江田島に仮移転した後、大正14年(1925年)に舞鶴の地に移された。 昔と変わらぬ、たたずまいで、当時の講堂なども、今海軍記念館となって残っている。

 

 機関科というのは、艦の心臓部である機械・缶・タービン・電機を担当する部署です。 ご存じのように、艦の底で、汗と油にまみれて真っ黒になって働く場所です。戦闘になっても、外の戦況は、艦の振動とゲージの動きによってのみ判断するのみです。だから、敵の攻撃を受けて、そこから脱出するのは、奇跡といっていいのです。パイプから噴き出す三〇〇度、三〇気圧の蒸気、被弾によりパイプが破れれば、全員、即死です。

 われわれ機関学校53期の卒業111名のうち、艦船に配属されたのは56名ですが、翌年には25名が潜水艦に転じ、水上艦艇で戦ったのは31名で、そのうち18名は艦底の機関部で沈没、戦死しました。そして、最後まで生き残ったのは、13名でした。そのうち、5名は沈没経験者で、4名は軽巡クラスの乗組みでした。

軍艦の機関部は、建物でいえば、駆逐艦が地下一階、軽巡は地下二階、重巡とか戦艦は地下三階以上といった感じです。

 

 私は、レイテ海戦のとき、軽巡の「能代」に乗っていましたが、これも栗田艦隊がレイテ突入を断念して反転し、26日ブルネイへの帰途、シブヤン海で沈没しました。私の乗っていた「能代」は軽巡でしたから、何とか脱出できたと思います。しかし、どうやって脱出したのか、まったく覚えていません。

 

 例のミッドウェーのとき、空母「飛龍」の機関部にいた萬代久男さんは私の先輩で、よく話をしますが、あの方は「総員退去」を知らなかったそうです。総員退去した「飛龍」を沈めようと味方の駆逐艦が魚雷を発射して命中するのだが、それすら、まだ交戦中で、敵の魚雷が命中したのではないか、と思っていたそうです。艦底にいると、そこの機械室のことしか分からないことが多いのです。

 艦船に配属された我々の戦死は、同じ死でも、艦上ではなばなしく戦っての死ではないのです。レイテ海戦のとき、191022日に、ボルネオのブルネイを出港し、1023日早朝、栗田艦隊はパラワン水道を進撃中でした。めざすレイテ湾はまだはるか彼方の先です。

 

 私はその時丁度、当直交代で「能代」の飛行甲板で一服していました。後方で、ドドーン、という音がしたので右を振り返りますと、旗艦「愛宕」に魚雷が命中し、何本か水柱が上がっているところでした。「愛宕」はたちまち沈んだのです。この艦には同期の重森光明が乗っていました。

 

 翌24日、「武蔵」もシブヤンで集中攻撃を浴びて沈みました。これにもクラスの村山 隆が乗っていましたが、「武蔵」は何時までも沈まずにいたので、彼は救助されました。

 武蔵と同型の「大和」は、20年4月の沖縄水上特攻に出撃しましたが、弾薬庫誘爆のまさに轟沈で、クラスの高脇圭三は艦と運命をともにしました。このとき、機関部が最後まで働き続けた証明として、沈むまでスクリューがまわりつづけているのが視認できた、という目撃談が残っています。

 

 機関学校53期、卒業111名ですが、艦船には31名が配属され、他は航空機とか、潜水艦とか、整備とか、また特攻隊で逝ったものもいますし 内訳は次のとおりです。

 

53期の回天の烈士は

昭和191126

パラオ・コツソル水道に突入の村上克巳(菊水隊)、

ウルシー海域に突入の福田 斉(菊水隊)、

20年1月13

ウルシー海域に突入の都所静世(金剛隊)

1月21

ウルシー海域に突入の豊住和寿(金剛隊)、

2月26

硫貫島海域に突入の川崎順二(千早隊)

の五名です。 私はこのうち、福田とは四号の時、豊住とは二号の時、都所とは一号の時、それぞれ同じ分隊でした。福田は福岡出身、豊住は熊本、都所は群馬の出身でしたが、いずれも家族、縁者をこよなく愛し、また、故郷を思う心が人一倍強い純粋な友でした。川崎は鹿児島出身で勇猛果敢で知られた男、村上は山口出身で古武士のような風格をもっていました。村上は、はじめ戦艦「伊勢」に乗っていましたが、このとき同期の佐丸幹男がやはり「伊勢」に乗組んでいました。のち、佐丸は潜水艦へ、村上は回天へと行ったのです。当時の村上について、「伊勢」機関部の上等機関兵だった出曇 博氏の書いたものがあります。(「わたしの出会った、大切な人」参照〕

 

引揚船となった「長鯨」

 私は終戦後、残務整理を終えたあと、故郷の長野でぶらぶらしていましたが、1020日、2度目のお呼びがかかりました。

「長鯨分隊長に補す」という海軍公報の辞令を受け取ったのです。

自分にとっては、もう無縁の存在と思っていた海軍から、再びお呼びがかかったのです。天が与えた沈思の時間と、最後のご奉公と考え、ためらうこともなく、赴任先の舞鶴へと旅立ちました。

 「長鯨」というのは、私が生れた大正13年に建造された潜水母艦で、丁度私と同じ年です。潜水母艦というのは、潜水部隊に随伴して潜水艦の各種補給や、潜水艦乗租員の休養などを行うものですから、居住区は広く、復員船としては格好の船でした。 これを動かして、釜山、コロ島、台湾、ラバウルと、それこそ万里の波濤を乗り越えて、復員輸送業務をやったのです。

 ところが、乗員です。「士官と特務士官、下士官は残っている人もいたのですが、兵隊は終職で故郷に帰ってしまっていないのです。そこで、機関部員として集ってきたのが、「神雷」というロケット噴射の特攻兵器で「死ぬための訓練」ばかりしてきたという「神雷特攻隊」の残党中心のズプの素人ばかりなのです。これが20名ばかり集った。もう昔の艦内規律は失われて、何でもかでも「民主化」 の風潮。体制など残っていない。そんな物騒なときに加えて、船の機関部のことなど何も知らない者が集った。しかし、素人でもやらなければならないとしたら、「率先垂範」自分からやって見せるよりないと私は思いました。そうしないと、誰もついて来ないのですから。

 今思えば、よく運転出来たなあ、と思いました。でも、結果的には、彼らと心と心が通じ合い、戦時中とはまた違った艦内秩序が出来て、それがよかったですね。ところが、敗戦国の引揚船、そんな内部の問題だけではなかった。<

 

敗戦日本の引揚船

 昭和21年1月12日に、朝鮮の人、800人を乗せて西舞鶴から出港して、14日に釜山で降ろしました。そうしたら、兵隊が銃を構えて部屋に闖入(ちんにゅう)してきて、手を上げろ。私は戦時中からカメラを持っていましたが、そのカメラを持っていかれました。そんな事件は、朝鮮だけじゃない。4月にラバウルへ行った時もあった。豪州兵が上半身裸体で蘭入してきた。敗戦の悲哀をつくづく味わったものです。

 

 それ以外にもこんな事もあった。コロ島から邦人1900名を乗せて、博多まで来た7月の航海の時、妊娠中のご婦人が乗船しており、船内で出産されました。しかし、無事男子出産。このお子さん、『長鯨』にあやかった名前をつけられたようです。

 こんないろんなことがあって、21年8月15日、終戦1年後の日に、「長鯨」の復員輸送の任務が解除になりました。その後、「長鯨」は、岡山の玉野造船所に回航されて解体されました。

 私が海軍にいた期間、機関学校2年10カ月、連合艦隊2年、復員輸送8カ月。この5年6カ月は、全人生の中では短い年月なのですが、いずれも精一杯生きた時期だったと思います。特に、復員輸送は、海軍の中で一番短いものでしたが、9回の航海で一万三百名の人々を故郷へ運んだという、あの8カ月は、極めて密度の濃い私の青春の時間だと思います。

 上海で乗船してきた陸軍部隊が私の「ふるさとの部隊」で、その中に中学の同級生を見出した時の感激、長躯ラバウルへの航海の途次、台風の圏内に突入し、戦闘以上に必死の運転を一致協力してやり遂げた感動。すべて、戦いの日々とはまったく別の貴重な人生経験であったわけです。そして、解散に際し、「長鯨」機関部は、神雷特攻隊の諸君が中心になって、「怒涛」 「微笑」 という二つの思い出集をまとめ、日本再建を誓って艦を去ったのです。

(なにわ会ニュース88号57頁 平成15年3月掲載)

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