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平成22年4月23日 校正すみ

榧は生きている

濱田 秋朗

駆逐艦 

 

駆逐艦榧が完成して就役したのは、戦局が俄かに険しくなった昭和19年9月末であった。9月15日付で榧艤装員の辞令を受け舞鶴工廠で艤装工事のため足の踏み場所もないような榧に着任したのは9月20日頃だったと記憶している。

思えば、私はその直前は、同じく舞鶴艦籍の軽巡名取乗組で、航海士として比島を中心に行動していた。その年7月にサイパン失陥の後、米軍の比島進攻に備えてパラオの防禦を固めるべく、航空魚雷・爆弾、陸兵をマニラから緊急輸送の任に就き、マニラ・パラオ間を数次にわたって往復していたが、第4次輸送で東に向って航行中比島とパラオのちょうど中間、レイテの東方約300浬の洋上で、夜半敵潜の雷撃を受け、8月18日未明、名取は日本海溝の奥深く沈没した。艦と運命を共にされた艦長(久保田智氏)が、艦橋で最後に残された言葉に従って、生き還って仇を討つべく航海長以下約190名が3隻のカッターで、13日かかってミンダナオ北端スリガオに漂着したのは8月末であった。(編者注参照)

その後マニラで舞鎮付の辞令を受けて9月上旬舞鶴に帰着、間もなく前述の如く榧の辞令を頂いた次第である。従って皆さんより一足先に着任出来たように思う。

話は前後するが、江田島を卒業したのは18年9月、ついで戦艦山城での2カ月の実務訓練(トラック島往復)を終えて、軽巡球磨乗組を命ぜられ航海士として始めてポストを与えられて張り切っていたのも、束の間、翌年1月にマレー半島ペナン沖で航空隊との合同演習中、英潜の雷撃を受けて数分にして沈没した。

その後内地に帰還、横須賀海兵団付を経て前記名取乗組となった。

このように榧に着任した時は、短いながらそれまでの海上勤務の経験から、いくらか艦の事が分かって来たような気がしていたのと、中尉に進級したばかりで大いに張り切っていたので、身に余る重責に緊張しながらも胸を膨らませて着任したものであった。

しかし、相前後して次々と着任された岩渕艦長、菊地先任将校(砲術長)、与田水雷長、小川機関長、勝田軍医長を始めとする諸先輩は申すに及ばず、多くの皆さんが私の如きとは比較にならぬ歴戦の猛者揃いであった。

色々話を伺うほどに、次第に心細くもなったが、若さとファイトで精一杯勉強して皆さんにご述惑をかけないようにしようと、密かに決意したのであった。

9月末、榧は目出度く完工、公試運転の成績も上々で、内海西部に向けて舞鶴を後に出港した。経ケ岬を通過、西へ最初の変針をした時は、いよいよ3度目の正直、最後のご奉公の秋至れりと、身の引締まるのを覚えた。

内海西部における11水戦の猛訓練を卒業して11月には艦長を中心に、素晴らしい団結を誇る精強な駆逐艦榧となって南方へ出撃した。

数えあげれば想い出は尽きないが、19122627日の、ミンドロ島サンホセ突入(礼号作戦)とその前後の活躍は、榧にとって花々しいと云うより苦しい、厳しい戦いで、榧がその本領を発揮した時であり、私の心に強く残る出来事であった。

 この戦闘で4名の戦死者と多くの戦傷者を出したことは今も心が痛む。また後檣が倒れて無線アンテナも13号電探も失い、一缶室火災により出し得る最大速力20節と云う状態で、応急修理の上、時化の東支那海を単艦で内地に帰った時の苦しさも忘れることが出来ない。

森本艦長が着任された頃から戦局は、益々困難さを加え、20年4月戦艦大和を先頭に沖縄へ出撃した水上特攻部隊を豊後水道に見送った翌日、大和を始め多くの艦の沈没の電報に悔し涙を流された第43駆逐隊作間司令の無念のご様子は今も眼に浮ぶようである。

その後呉で改装の上、大島の日見海岸で隠忍自重の末、辛い終戦を迎えたこと。呉に入港、兵器・弾薬を降ろした後、第43駆逐隊の第1次復員者の帰郷輸送を仰せつかり、広島で特別列車といっても貨物列車を編成して貰って、焼け落ちた呉駅頭から、どうにか皆さんを送り出した時の事も忘れ難い。

かくして、私の海軍生活は江田島の3年弱、戦後復員輸送の1年弱を併せても、昭和1512月から21年7月までの僅か5年8ヵ月の短期間に過ぎないが、その内、榧には復員輸送を含めて2年近い期間お世話になったわけである。その間いちいち名前は挙げないが皆様に並々ならぬ厄介になった。

 

さて、戦後40年を経過した今日、なお私の日々の生活の中に、また仕事の面に海軍が顔を出して来る。他人様にはあまり気づかれていないと思うが、私の体の中には何時も海軍が、そして榧が強く生きている。

このような海軍の良さは一体何であったろうか。それは、全ての人が「真心(まごころ)」を持ってお互いに接し、また「礼儀を重んじ」、そして一人一人が与えられた「任務に全力を尽くしてぶっつかった」、あの海軍魂そのものであろう。

その素晴しさを私は何の躊躇い(ためらい)もなく称えたい。

今日の世相を見るにつけ、物申したいことも多いが、敢えて言挙げせず、海軍を、榧を、そして榧で一緒に働いた皆さんの恩情を私の心の中で生かし続けたい。

(なにわ会ニュース5111頁 昭和59年9月掲載)

(編者注、名取短艇隊については「先任将校」(松永市郎著 59年5月 光人社)に詳しく述べられているが、星野(濱田の旧姓)少尉が、航海士としての職責を十二分に発揮した様子が伺われる好著である。

会員諸兄のご一読をおすすめするとともに、ご本人から「先任将校」に書かれていない裏話を、わがなにわ会ニュースにも投稿されることを期待している。なお、本稿は「駆逐艦「榧)」の戦友会報からの転載である。)

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