TOPへ     戦記目次

平成22年4月22日 校正すみ

皇統護持作戦の回顧

加藤 種男

  2000年時代が終わり21世紀に入るに当り、天皇誕生日の今日、20世紀を振り返った時、我が国最大の事件は太平洋戦争であり、敗戦により日本が未曾有の危機に直面したことである。日本民族総てが日本国体の将来を案じ、国民の安寧と、未来への幸福を祈らぬ者は無かったと思う。
 終戦時軍令部より我が343空に発令された、皇統護持作戦の一員として、末席を汚したことも過去の事と静かに記憶の棚に格納して置くつもりであった。ところが去る8月18TBS2,000年の証言と称し、テレビ放映のため「スタッフ」5名が来宅約5時間の「インタビュー」を受ける破目になり、やむを得ず大村君の応援を得て其の責めを果たしほっとした時、押本君より突然「なにわ」会誌への寄稿の依頼があった。


 時代の変遷は人の心を動かし時代の出来事を徐々に風化させて行くものである。寝ている子を起こされたの感無きにしも非ず。55年、半世紀前の出来事であり、記憶の曖昧な点は御容赦願う事として、昭和5617日東郷神社での解散式に至るまでの経過や出来事を、記録を辿りつつ纏めた次第である。

 当時、各地の激戦地で命を賭して戦って居られた諸君は既に御承知のことながら、海戦に於いても、航空戦に於いても、戦力に於いて、又物量に於いて、我に利あらざる悲報が19年末頃には次々と、報じられた。

 終戦近き昭和1912月編制された源田部隊について634航空隊所属の小生は戦艦日向出港間際に呼び返され、343空編制要員として、昭和191220日松山基地への着任を命ぜられた。
 松山基地にて343空の編制先発隊として、直ちに兵員20名を引率新明和(鳴尾)に向い、紫電(j2M2)の55機の領収を命ぜられ、木崎少佐の指示を仰ぐべく出発、鳴尾飛行場にて完成機の点検及びテストに当る。
 2015日紫電 J2M2 30機を空輸、帰着の日に、源田司令松山基地に着任されるのを出迎えた。既に戦闘301隊長、701隊長、菅野・鴛淵両隊長は着任され、毎日続々と隊員は着任し士気大いに昂る。

翌日6日全員戦闘指揮所に集合、訓示として源田司令より「松山基地を関西最強の制空基地とし、戦闘3017014073飛行隊に偵察隊を加え、早速猛訓練を実施する」 の旨を示達さる。翌日より新着任の隊員の慣熟飛行、午後は各隊の編制と訓練計画が志賀飛行長より通達され各隊別に列線に即時待機の上、次々と猛訓練が実施さる。

343
空の初陣と其の成果
 米国グラマンF6Fの対抗機として火器はこれに勝る J2M2 は速度において、又研究の成果による空戦「フラップ」の旋回性能は、搭乗員の誇りとして、空戦性能抜群の感触を隊員に与えた様であった。編隊空戦の訓練は予想以上に成果を挙げた頃、20年3月19日西日本来襲の米艦載機60機を迎え、3ケ飛行隊の54機全機発進、八幡浜上空にて52幾を撃墜し、鴛淵・林・菅野3飛行隊長及び343航空隊に聯合艦隊豊田長官より感状が下された。我が方損害は16機、菅野隊長は火災の機を操って3機を撃墜、顔中包帯で帰隊された姿が今も目に浮かぶ。
 沖縄決戦には鹿屋に次いで大村に基地を移動し、制空隊の中核として特攻隊の援護、防空戦闘に戦果を重ねた。其の後有名なる3人の飛行隊長も全員戦死。

終戦の頃の状況について
 8月6日広島に原爆投下、8月9日大村基地隣接の長崎に原爆投下、佐賀関上空の迎撃に虚を突かれた343空としては、切歯の感深く、更なる戦闘準備に隊員一同昼夜の活動に明け暮れて居た。

8月14日午後輸送機1機到着、軍属服装の人物は山田分隊長を経て、司令に面会を求め面接後、長崎に帰る。人物は川南造船川南豊作社長であった。彼は直近の中央情勢につき、内報を届けた様子で、司令とは面識のある将官待遇の軍属である。

8月15日戦闘作業なく、正午戦闘指揮所前にて総員集合、玉音放送にて戦闘終結を発表される。終了後司令壇上に立ち、「わが343空は断じて降伏しない。最後の一兵に至る迄戦う決意である。終戦は陛下の御真意でなく君側の奸の仕業と考える。」 との発言にて解散す。
 司令は直ちに大分の5航艦司令部に出発したが、大分空は宇垣長官の特攻出撃で要領を得ず、夕刻帰投され、343空は徹底抗戦で沸き返り紫電30機は即時待機の命令下る。
 「厚木空より小園司令以下決起」の報を1名のパイロットが伝達に来る。我が3飛行隊30機は戦闘体制にて大村湾・済州島付近の哨戒飛行を続行する。8月17日、軍令部より司令上京の命あり、松村分隊長随行紫電にて司令出発、軍令部にて富岡少将に面談さる。少将は直近の御前会議の様相と陛下の要旨、海外の動向、連合軍の情報を説明最後にお言葉として、「わが身はどうあっても国民を救いたい」との本旨を涙と共に説明された。

最後に死所を求めて軍令部を去った司令の心境に対して、敢えて皇統護持作戦の意義と源田部隊へ発令の意義を述べられ源田司令の決意は固まる。具体策その他付帯事項は司令に一任され、軍令部副官有田大佐を招き援助に万全を期す様指示あり。
 8月18日司令は松山基地副長相生少佐に対し、直ちに電話にて部隊即刻解散、復員の命令を指示し軍令部に其の旨報告を済まさる。


 8月19日午後大村基地に帰投されたが、隊内の様相は1,000名近い隊員の中で寸時も見放せない絶望と、自棄の気運を察知された。志賀飛行長、古賀整備長を通じ全員集合が命じられた。
 全隊員を前に司令は、「盡忠の誠足らず、事は是に至った。自ら軍令部に入り今回の放送は、陛下御自らの大御心であることが充分納得出来て今帰って来た。之以上戦を続けるとは不忠の臣となる。諸君は直ちに帰郷して祖国再建に立ち上がって欲しい。恐らくこの世の中で諸君と再び会うことはないと思う、皆元気で自分の志に進んで欲しい。」と結ばれた。

 志賀飛行長は、全員解散但し搭乗員、準士官以上は残る様との指示が出された。再び、司令が立たれ「今述べた様に私はどうしても、祖国の土を敵の軍靴に踏まれるのを見るに忍びない。今夜8時健民道場にて自決する覚悟である。行を共にする者があれば、自決の用意をして集まれ」、と述べ其の場を去られた。
 飛行長よりは、「只今の司令のお言葉は個人としてのお言葉であり付和雷同する事はかえって司令の心を汚し、重荷を負わせる事になるので、よく考えて行動を決めて貰いたい。」と述べられた。

健民道場での様相
 殺気立っていた吾々は拳銃の試射、軍刀の素振り等夫々の思いを行動に部下への名残りを述べ、健民道場に集合、入口の飛行長に敬礼の上入室、司令を囲み辞世を書き、署名を済ますのに可成りの時間が掛った。飛行長からは 「自決は司令が先頭だ、其れまでは早まってはならぬ」 の指示が出た。総員23名、軍刀・拳銃を片側に全員着席した時、要務士より恩賜の酒が盃に廻り、談笑と緊張の中に夜は更けた頃、飛行長より司令に合図が送られた。司令は開口一番、「私は今命も名もいらぬ同志が欲しかった。試す様な形になった事をお詫びする。我々はある命令により死以上に勇気のある困難な重大任務に入る。此の任務は生易しい事ではない。達成に何年を要するか配置によっては土地の職業人に成りきり自活覚悟を求める。作戦は今夜直ちに発動する。隊員からは明日逃亡の誹りを受けることも覚悟し、勿論他言無用と心得て、作戦命令の成功迄肉親友人にも絶対秘密を洩らさぬ誓いを求める。」と結ばれた。

 全員興奮の中に自決の場所は一転して作戦会議の場となった。直ちに配置は決定された。
 山口班・広島班・鹿児島班・熊本班・東京班の5班の本隊が決定された。山田・村中は明日上京し連判状を富岡少将に届けること。本隊は只今より熊本班を含め熊本県砥用に出発す。熊本地区担当の小生は本隊先発隊として深夜熊本に向け物資を満載して砥用健民道場に直行して、途中久留米・大牟田の陸軍バリケードを突破、昼前現地に到着、物資を洞窟に格納、当分の宿泊地として健民道場の設備に取り掛る。
 20年8月26日本隊到着、計画に基づき、直ちに行動開始、早朝司令を含む8名は砥用より千段とどろの滝を通り五箇荘 (平家隠棲の地) に向い出発、道路らしきものを探しつつ、二本杉峠 (標高1,800米) を目指した。  

峠茶屋に一泊す。此の地は熊本・宮崎の県境にて椎葉村・樅木・椎原等五村で平家落人子孫緒方氏が上屋敷の主と記録にある。此の地域は物資の運搬は馬の背を頼りとし、食料は粟・ひえ・山いもを主とし山肌の各所から水が湧き出ている僻地にて隣家との距離は一里と云う。

峠の楠氏 (茶星主人)の言では晴天なれば熊本平野・天草灘が一望に見下ろせるとのこと。司令は足を痛められ、足の痛みは自然の姿と思って歩いていると、荷物も肩に喰い込み源平の頃の落人の気持は如何ばかりと思ったものである。

峻嶺、重畳、蜿蜒と続く人も通わぬ処と云うは斯かる所か。然し五箇荘も孤立した秘境でなく高千穂・椎葉・米良に通ずる路は何れ開発される可能性が感じられた。

 南九州は天皇家発祥の地、南朝の遺臣の子孫も或は隠棲しているか等との司令の期待もあった様であるが、適地無く樅木に入った頃、月が暮れ五木川支流の深い谷が散在し、家から家へはかづらで結ばれた吊り橋が道路であり、全く隔絶された地域と感じられ皇族方や女官の住める場所ではないとの感を深くした。

 司令の意向として、椎葉峠・月見岳・水上峠を調査し、椎葉方面を次の調査地とする意向であった。食料自給の困難と村民を掌握出来る人物が無いこと、国家の情勢には無関心な素朴が取柄の人々の集合である点、五ケ荘も適地とは言い難い感を抱かれた様である。

隊員村中氏は5航艦横井参謀長紹介の江藤氏と共に阿蘇の馬見原から高千穂を検討す。岩戸村村長甲斐氏と面接、国学の熱心な研究家で、信頼の置ける人物と判断したので、更に岩戸川に沿った祖母山は入植した場合椎茸の栽培可能との報告を受けた。

其の頃別動隊は並行して行在所適地を求め南九州に潜行していたが、行在所適地の条件に合致する場所の調査は困難を極めたと報告が続いた。

 連絡をとり中央情報を把握の為、宮内省に古賀整備長と中西君を又同盟通信社に黒蔦原君(東大出身)を送りこみ、特に東京の情報の確保の指令を出された。10月頃GHQは源田司令を探して居り、残務整理中の中島中佐が米軍担当官に会い司令の代弁を行い、熊本でば砥用警察が情報を「キャッチ」して行動を始めたとの情報が入る。我々は緊張感で心を締め付けられた。

要務士の中島君は10月末日神雷部隊岡村大佐の新しい情報で、大分県佐賀関へ行動し情報が送られて来た。期待した高千穂の家産買収は不調に終わったとの情報入り、窮地に立った本隊は宮崎地区潜行の渡辺要務士より有望なる適地ありとの報に接し、之と並行して隣地妻の奥地杉安を調査に入ることに決す。

 杉安部落の有力老後ノロ茂氏に面接、経歴地区活動の状況及び思想風評を聞き、其の出身は和歌山で、兄弟が山林関係事業に精通沈着冷静、九州有数の木材商にて人格高潔、高い見識の持ち主であることが判明す。司令直接面談の結果「一身を投げ打って協力を引き受ける」 との確約をとり、当地を第一の行在所建設の用地と決定され、小生及び大村兄、掘飛曹長を当地開拓の主務者又渡辺要務士を連絡係として行動に入ることとなった。時に昭和2011月初旬であった。

 本隊は九州各地派遣中の別動隊の調査状況を集約され、重要度に応じて今後の推進対策を決定されることになり、本部を佐賀関に決定、主力を集結された。佐賀関は、瀬戸内海司令は中央と打合せの上、宮内省大金次官とて陸上交通の要所であり、中央との連絡も好適との判断であった。
 杉安は其の後の調査で万一の場合の奥地移動も、又新しい第二行在所の用地買収にも可能性を秘めた適地との結論を得て、我々は杉安班として和田旅館二階の2室 (山師の出入りする田舎宿) を根拠地とすることに決定した。

杉安活動の概況
 杉安班は和田旅館を根拠地として、即刻行在所建設の諸準備に入った。尚3名は今後本部との直接の報告連絡を行い、行動はすべて司令よりの指示を仰ぎ、建設作業に集中し一日も早い完成に努力することになった。

食事は自炊を原則とし、3名交代で炊事当番に当り、終戦時に受け取った、3,800円程度の手当も大切に活用、特別費は請求により本部支給とし、当分外部との接触を断ち、和田旅館の家族、後口家の一族及び使用人が交際の範囲となった。

森林の開墾、畑地の農作業と全く晴耕雨読其のものの日々が過ぎ、後口家を介して時には町内会への協力にも努めた。(杉安入植のふれ込みで) 農耕は大村君の意見を重視し、肥料は早朝近隣の汲取り肥料が主であり、俄か百姓の苦労を思い知らされる毎日であった。

物価も食料品を中心に高騰を続け、一日一合の一人分の配給米に陸軍の残品(高梁の粉末)と、甘藷(7円/4K)秋刀魚(1匹14円) が唯一の蛋白源で時々卵入りの雑炊の有様、野菜は後口家の差し入れと近所の労役による雑収で賄った。一の瀬川の鰻も堀君の獲物として食膳に上がったことがあったが、目的を前にした我々には左程の苦痛も感ぜず、ただ用地の整備、建築資材の搬入には右足負傷の大村君には大変な苦労があったと思い出される。

土地の青年男女の中に巧みに浸透しつつある左翼思想は 「サークル」活動の男女交際を「グループ」活動に発展させ山林業者従業員の中に、労働組合結成に結び付けた例が報道される様になった。民主化運動はG・H・Qの政策で其の効果は目覚ましいものが感じられた。

 21年1月にはG・H・Qより公職追放が発令され、財産税や戦時利得税の徴収、新日本婦人会の結成、幣原内閣の退陣、野坂参三の出獄と党の結成等、占領政策も徐々に末端に浸透の度が深まりつつある事が感じ取られた。 和田旅館についても「特攻くずれ」の集団等と白眼視する人もあり、我々も積極的に大衆に接する道を考慮する要ありと感じて、対策に腐心した頃であった。
 本部は当地の窮状を察せられ、4月には大西中将の未亡人淑恵様が、家財道具御持参の上で我々の活動の応援に駆け付けて下され、苦労を共にして頂いた時は地獄で仏の思いにて、我々は母親と称してお仕えし、毎日が明るい雰囲気に包まれ得たことは今も尊い思い出である。

其の上、夫人の御来着を機に地元の子供達の出入りも増し、雨の日等は学校の帰途宿題を持込み、寺子屋の様相が生まれ子供達の両親より差し入れがあり、交際の輪は広がり温厚なる大村君、軽快な堀君は子供達の人気の的となり、ともすればいら立ちを感じ勝な我々の心を和まして呉れた思い出も懐かしい。

 当地は農業林業中心の僻地だけに娯楽としては少なく、村の青年団主催の素人芝居が各所で催され其の「リーダー」 には後口家の幹部が指導者として、我々は役者として狩り出され芝居の 〔父帰る〕 〔破れた鏡〕 寸劇の 〔平林〕等随分恥を忍んで努力したが、之が土地の人々の好感と親密感を生み出してくれた思い出がある。

5月には東條大将以下28名のA級戦犯の起訴が発表されたが、初期心配された連合国の日本分割統治の案は変更に傾き、米ソ間の関係悪化の気運は我等の心に一つの光明を感じさせてくれた事は忘れられない。

 行在所建設の土地の整理も建築用材の搬入も人夫を傭う余裕なく、大村君、堀君との3人にて家の五寸角元柱25本に二寸角材27本・十三尺の角材27本等々不馴れな我々には厳しい鍛錬との闘いは続き雨の日は平泉澄(東大教授)の「皇統」杉本五郎著の「大義」等、頭と心の引き締めになった読書も大きい思い出である。

 G・H・Q承認の新憲法草案で天皇制は認め、陛下戦犯の危機も去り、象徴天皇制についての論議が続き、吉田内閣の金森国務大臣の天皇「あこがれ」論が新聞に発表される情勢に更に安堵の胸を撫で下ろした思い出が蘇る。

 杉安地区の人々の我々に対する理解も急速に深まり、あとは残された建設作業に全力傾注することが当面の任務となり、後口家の人々や杉安の人々とも気軽に挨拶を交す様になり、誰かを村会議員に推薦してはと言う様な話が真面目に話された事が耳に入る様になり、第二の故郷の様な親しみを感じる思いをしたことも記憶に残って居る。

其の頃本部の指示により客観情勢分析の結果、九州地区杉安の活動は大村君、渡辺君に委任し、私は関西に帰り、自活の道を選び緊急事態の連絡は京都の自宅を充て、新しい使命に入ることとなる。

其の旨を大西夫人に報告申し上げ、私は杉安をあとにする時は、数多くの村民の温かい見送りを頂き、平和な日本と確乎たる天皇家の御安泰を見た秋には再び此の地を訪れたいとの思いが今も思い出される。時に5月下旬であった

大西中将一周忌
 8月10日大西夫人の御連絡に接し市川市の夫人御生家にお伺いし、8月16日大西閣下自刃の一周忌法要のお手伝いを行い、鶴見総持寺の盛大なる法要に参列の栄を賜り、8月18日一旦帰宅。云わば私の復員の日となる。

 9月21日某社の職工として入社、多くの復員工員に交り、戦後庶民の生活を共に味わい36年の生活では労働組合役員・工場管理職・技術課長・工場長・東京支店長・会社役員等と一通りの職務も経験し、本部司令よりの連絡、志賀飛行長よりの諸情報も頂き産業界の当時の労働政策・地労委の役員としてのスト対策にも関与し、社会勉強も人並みに経験することが出来た。

 源田司令は航空幕僚長を経験されたあと、元防衛庁長官の赤城宗徳先生の御推薦により参議院議員選挙に出馬が内定した時は呼出しを受け、お前の出番だと関西地区選対責任者を命ぜられた。

 当時営業部長の職にあった私は時至れりと、一時職を辞して馳せ参じ、能登川帰郷中の中西君の協力を求め大阪桜橋に選挙事務所を確保して、事務所に軍艦旗を配し復員下士官兵諸君の協力を求め、開票日には70万票のトップ当選の一役を果たす事が出来たことは望外の喜びであった。

 以後25年間に43年・49年・55年と6年毎の選挙には関西地区の選対責任者として司令の防衛作戦の活動に御協力申し上げた事を心の誇りとして来たのである。

皇統護持工作の終結・解散
 昭和56年1月7日東郷神社和楽殿に招集を受け、司令より同志生存者17名を前に皇統護持工作の終結を正式に伝達される迄、司令の御存念を体し活動出来たことを誇りとして諸兄にお伝え申し上げる。

(なにわ会ニュース84号13頁 平成13年3月掲載)

TOPへ     戦記目次