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回天とは何か

海軍大尉 小灘利春

 平成18年 3月10日

 回天が試作に入った昭和19年の2月頃からは戦局の実態は急速に窮迫していったが、軍部にも国民一般にもその頃はまだ、特攻を必然とするほどの危機感は未だ見受けられなかった。しかし我々には、マリアナ沖海戦で大敗北を喫し諸島を奪われたあと、いずれは制海権、制空権を失い、南方物資の供給を絶たれるであろう。日本の国が戦い続けるかぎりは国家、国民を護るに有効な手段が既になく、行く手には圧個的な戦力を持つ米軍の本土上陸、陸上戦闘、国民の殺戮がはっきりと予見されていた。

 回天はその名のとおり戦局の一挙挽回をひたすらに目指した。若人たちの熱誠が遂にこの兵器を終戦の略一年前、日本海軍の一角に出現させた。これこそ敵艦隊が集結した前進墓地に密かに進入できる合理的な構造と性能を備え、大逆転を実現する可能性を秘めた空前絶後の肉弾兵器であった。敵主力の空母、戦艦をたった一人で撃沈できる兵器が、ほかにあり得るであろうか。

 戦術の要諦は先制と集中にある。

「最初の奇襲攻撃に一挙、大量投入」これでこそ、搭乗員たちが生命を捧げてまでも国土、国民を護るに値する大作戦であった。

 生産が軍令部の命令どおり進み、昭和19年8月末までに100基完成していたならば、比島侵攻前に集結した米国艦隊に多数の人間魚雷が一斉に躍り込み、忽ちにして覆滅させたであろう。その一撃があれば、歴史の様相はかなり変ったものとなった筈である。その時期、日本の最高指導層は内々に戦争集結の方法を模索していたというから、戦争終結への転機として活かすことが、或いはできたであろう。たとえ有利な終戦に持ち込めないまでも、日本民族の誇りを堕さない形で決着できたと思われる。しかるに、回天作戦を担当する第六艦隊に先見性も戦略眼もなく、回天の生産状況の実態を見ることすらなく大幅な遅れを放置し、そのため米軍に先手を取られ続けた。加えて不徹底、且つ拙劣な作戦を繰り返したのである。

 回天戦は兵器、搭乗員、用兵の三要素に分析できるが、これまでの回天論議は兵器の可否のみに注目し、用兵、即ち使用方法に言及したものは殆どなかった。しかし用兵にこそ、回天作戦をさしたる効果を生まないままに終わらせた最大の欠陥があった。兵器、それに搭乗員の操縦技術よりも根本的な問題なのである。

 第六麓隊の担当参謀は停泊地に向かう「眼のある魚雷・回天」が狭水道を捜すにも眼が見えない暗闇の時刻の発進を指示した。また潜水艦長も作戦成功のキーポイントである視界を左右する、その場の気象状況を考慮することなく指定時刻を墨守し、且つ自艦位置の確認さえできないまま回天を発進させた例が多々あった。それらの結果として、搭乗員の使命と生命は多くが虚しく消え去ったのである。

「艦長として最も大切なことは、命令に盲目的に従って遂行することではない。命じられた任務を達成することである」とは、潜水艦長であった大津島の指揮官板倉光馬少佐の言葉である。

 航行艦攻撃は、回天本来の使命に反するが可能であり、また他に良策が無いためのやむを得ない戦術の転換であった。しかし、広い洋上を航行する敵輸送船団に目標を切り換えたとて、現実に回天の前に現れた船団の大部分は米軍が輸送に主用した揚陸用艦艇であった。それらは喫水が見掛けよりも浅いのであるが、第六艦隊は敵が何物であるかを知ろうとすることなく、潜水艦側もこれらの性能、喫水の如何に考えが及ばず、かけがえのない献身も殆どが戦果には繋がらなかった。また、無数とも言えるこれら輸送艦船を「一人一艦」で沈めていったとて、数に限りがある回天が戦局に影響を及ぼすものとなる筈もなかった。

 しかし軍人である以上は自己の最善を尽くして戦う責務がある。日本海軍の艦船のなかで、回天を搭載した潜水艦だけが昭和二十年春を過ぎてなお、洋上に敵を求めて行動し、終戦の直前まで健闘を続けたのである。

 神風特攻が始まるかなり前の時期に於いて、人の生命を代償とすることを明確な前握として出発した回天戦であったが、これを企画し、実施する権限と責任を持つ指捧系統は一体どうなっていたのか。画期的な戦略兵器であって用法に前例がなく、また国運を左右できるほどの大作戦であるのに係わらず、専任の上層部組織が確立していたとは到底思えない。さらに、担当する人の層に適材が乏しかった。平時の縦割り組織のまま、片手間に処理したとしか見えないのである。 

 第六艦隊の回天作戦担当参謀は「俺は単なる中間管理糠。回天戦には責任がない。悪いのは大本営」と常々語り、テレビでも公言していた。多くの人命を投入した回天作戦は今なお責任の所在が不明である。平時ならまだしも、戦時には戦時の、目的に応じて効果的に機能できる、年功序列を超えた組織を確立できないようでは、「日本人は戦争と政治の資質を欠く、農耕民族」と言われても仕方がないのではないか。

(小灘利春HPより)

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