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平成22年4月19日 校正すみ

天隊のある日

 小灘 利春

 昭和19年の9月5日に開隊して、まだ4、5日目の回天部隊、そのころは第一特別基地隊大津島分遣隊という名前だった。

 われわれクラスとコレス14名はいきなり上級の搭乗員から集合をかけられた。

 70期の3名(コレスを含む)をはじめとして、71期3名、われわれが14名、そして予備士官各階級20名ほど、これが軍機兵器″○六金物″が訓練を開始したときの搭乗員全部である。

 士官宿舎は丘の中腹にある急造のバラックで、その畳敷きの広い一室に整列したわれわれは、いきなり猛烈な鉄拳制裁を喰った。繰返して襲う修正″を浴びてひっくり返った。

 一体何ごとか合点がゆかぬ、また艦隊勤務を経てきた少壮士官を3号扱いするのかと不満も湧く。だが、71期仁科関夫中尉(当時階級。以下同じ)の怒号を聞くにおよんで唖然とした。石川誠三が宿舎の二階から身を乗り出して、下を通る女子挺身隊員と大声で笑い話をしたと言うのである。われわれは遂に出現した人間魚雷をまのあたりに見、更に全員一カ月後に敵泊地に突入すると言い渡されたばかりである。これだけの数の回天が敵艦の群に躍り込めば、押され続けの戦局といえども一挙に逆転できるだろう。一同は崇高な使命感に酔っていた。また、救国の兵器は同時に鉄の棺でもある。心身は生への訣別に自ら引締まる。そしてまた、回天の創案者黒木博司大尉(機51期、70期コレス)が樋口孝大尉(70期)の操縦する魚雷に同乗して訓練中、海底に突入したのは実に開隊の翌日だった。壮烈な殉職であった。指導的人物の二人を一挙に襲った直後だから隊内も痛恨に沈んでいる。どんなに考えたって何一つ朗らかな要素のないときに、彼、石川誠三は平然として、最も俗世間的なことをやってのけたのである。典型的な水戸ッポ、石川の面目躍如たるものがある。そのあと一寸は神妙だったが、奔放自在、自ら信ずるとおり振舞い、直言する彼は、今の世で一層役に立つ人間であったと思う。

 大津島の基地内には九三魚雷試射場以来の調整工場があって、女子事務員が二、三人村から通っていた。ちょっとした美人がいたようだ。しかし大津島の日々は女ッ気どころではない。激しい訓練の連続であったが、隊内の日常も凄まじかった。

 猛烈艦長で音に聞えた板倉光馬少佐が指揮官として全員を引っ張り、海軍部内でも最も烈しい気塊に満ちた部隊であったと今も思っている。指揮官が肩を怒らせて基地内を駈け廻り、士官、予科練、基地員の別なく鉄拳を振舞っていたためばかりではなく、国家の危急を自分達が救うのだとの意気込みがあったからだろう。上陸は勿論、日曜日もなかった。ただ誰かが出撃する前夜、追躡用の機動艇に分乗して10粁離れた対岸の徳山に押し渡り、松政旅館で短時間ながらワーッと威勢よく壮行会をやり、女傑の女中頭おしげさんの「男なら」を聞いて帰るだけである。隊員は大抵髪を伸ばし放題蓬髪だった。

 仁科中尉は『身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せぜるは孝の始めなり』と称して、とうとう切らずに出撃された。

 開隊後長い間散髪屋がいなかったので、つい習慣になったものだが、下着だけは綺麗にしていた。俗界と断たれたのほ軍機部隊だから当然のこと。

  田中宏謨がなにわ会ニュースの連載記事に

「海風の吹きさらすバラック建の木造兵舎は……決して住み心地のよい環境ではありませんでした……」と憐れんでくれて、御同情有難いけれども別段不自由とも思わず不満も聞かなかった。

 国難〃をいつも意識する環境では、贅沢を求める気は起らない。苛烈なムードの基地だったが、一歩宿舎のタクミ部星に入れば春風放蕩たるクラスのくつろぎの場である。

 潜水艦側の人々が非常な感銘を受けたのほ、回天搭乗員が平静で、吾が身の爆砕を十数分後に控えて再び還ることのない交通筒を通って回天に乗り込むまで、全くふだんと変らなかったことといわれている。

 先日12チャンネルの「私の昭和史」で、陥落後のグァム島からドラム缶の筏にのって脱出し、漂流32日ののち奇蹟的に伊47潜に救助された8名の海軍将兵の一人も、「搭乗員が『乗艇します。艦長、いろいろ御世話になりました』と別れを告げる静かな声が今でも耳の内にいきいきと聞えてきます」と話していた。

 折田善次艦長も 「自分達の死を全然気にしないで、8名の生還を心から喜んでいた」と付け加えられた。そのときの搭乗員は川久保輝夫たちの4人である。さきの会誌にも平常と変らぬ回天搭乗員の訣別が記載されていた。出撃の前夜、前々夜、出てゆくクラスの連中はおそくまで遺書を書いていた。残る者とは別離の感傷は無かった。互に僅かな日数の差で散ってゆく筈であったから。もしも自分が生残る身であったらクラスとのこうした静かな訣別には到底耐えられなかっただろう。

 石川誠三も還らぬ首途の前夜、壮行会のあとでどこかに消え、翌朝、事こまかに実に愉しそうに小生たちに語り残して南溟の海へ発って行った。 

なにわ会ニュース20号  昭和45年5月 掲載)

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