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予科練出身搭乗員の出撃者選抜

小灘 利春

平成11年11月

昭和19年11月の或る日、回天の訓練基地である徳山湾の大津烏で、隊内を回り終えて、今は回天記念館が建っている丘の広場から一段下にある士官宿舎の自室に戻ろうとした私は、異様な光景を見た。宿舎二階の自分の部屋から、予科練出身の下士官搭乗員の行列が長く続いて、階段を過ぎ建物の外まで連なっていた。

一瞥して事態を覚った私は、「しまった!」と叫んで思わず駈け出し、自室に飛び込んだ。事の次第は、回天の搭乗員で三回も潜水艦で出撃しながら遂に生き残り、戦後真先に自伝として回天の戦記を書いた、上等飛行兵曹故横田 寛氏が或るものに載せた記事を引用すると、 

『第一陣、菊水隊の出撃直後、夕食をとっていた我々のところに、分隊長小灘中尉が静かに入ってきた。

「食事中ではあるが、大事なことであるから皆聞いてくれ……」と前置きをして、

「我こそは予科練の一番槍だぞ……と早期出撃を熱望する者があったら、後ほど俺のところへ来い。よく考えた上で行動を起こせ。今夜12時まで俺は床に入らない。俺はその時、その理由も聴く」と言ったかと思うと、やはり静かに去って行った。

皆はシューンとしてしまった。夕食が終わった……。私は迷った。どうしようどうしよう、仲間と相談する訳にも行かず、さてどうしよう……。迷いながらも、いつの間にか足はとぼとぼと士官宿舎に向かって歩いていたのである。

気が付いたら分隊長の部屋のドアまで来てしまっていた。既に四人が、口をへの字にして順番を待っている。私が最後であったが……後から誰かが行ったらしいが、それは誰だか判らない。』 

実際はは四人や五人どころではなかったのである。引用を続ける。

『部屋に入って、視線が火花を散らした。暫くして……

「貴様かあ…・・・間違いなく来るとは思っていたよ。理由を言ってみろ……』瞬間私は、彼の期待を裏切らなくてよかった、とは思ったが、理由など考えてはいなかった。ええままよ、と次のように答えた。

『物事は早い者勝ちと言います。先輩たちが次々に出撃して、敵の前線基地を荒し回ったら、大物の空母はいなくなってしまうかも知れません。私は巡洋艦以下のザコなんかと心中したくはないのであります。それに……」

「それに何だ……」

「私は幼少の頃母に死なれて、母の愛情というものを知らないまま大きくなってしまいました。親爺の野郎がパカな奴で……」

「一寸待て。貴様今、何と言った。大事な父上を野郎だの、パカだのとは聞き捨てならんぞ。貴様そんな教育を受けたのか!!」

「受けません。しかし、パカだからパカだと言ったんです。女房に死なれ、三年も経たんうちに、前の女房よりずっと若い女を後添えにして、その言いなりになり、そいつと一緒になって末っ子の私をないがしろにしたような人間が、お利口さんと言えますか。俺は親父が大嫌いだ。

私が兵学校に入学できなかったのも、学科は最後まで行ったのに憲兵に家庭状況を調べられたからなんです。

お袋の命日は12月の末です。どうせ死ぬなら、その前後にお袋のところへ行きたいのです。

分隊長はそんな教育と言われましたが、親孝行親孝行と、カラ念仏を百万遠唱えさせたって、そんなものは兵の教育ではないと思います。その位のことは分隊長にもお判りかと思います。」

小灘分隊長は苦笑しながら、

「もういい、判った、しかしなあ、親爺のパカ野郎は今日限り止めろ……」

「じゃ帰りますが、出撃の方はよろしくお願いいたします。」

山撃前の志願にはこんな経緯があり、親爺についてはその後、心で思ってもロには出さなくなった。』

彼には記憶がこの様に残っていたのであろうが、若干相違点がある。

私は、「懐かしい母の写真を抱いて突撃したい」という彼の希望は確かに聞いた。しかし、あとの方の父の話は全く聞いていない。

彼が兵学校を受験したことなど、戦後まで私は知らなかったし、このような場合に出てくる事柄でもない。また、彼ひとりだけに期待するような言い方は、私はしない。

たしかに、懸命な陳情ではあった。

しかし、ほかの皆は直立不動の姿勢で真剣に話すのに、彼だけは馴れ馴れしく、私の顔をのぞき込んで「だからサー」といった口調で甘えた言い方をするので、私がだんだんとむずかしい顔になってゆくのが自分で判った。 

私は自室の入り口に立った儘、長い列の一人一人から、早く出撃したいという熱情を聞かされて、

「私は今、素晴らしい部隊に居るのだな」と深い感動を覚えた。

19年11月といえば大津島にいる予科練出身搭乗員としては土浦航空隊からの一〇〇名だけの時期であった。

既に第二陣の金剛隊で、予科練出身初の出撃搭乗員として、北海道滝川中学校出身の森  捻、山梨県甲府中学校の三枝 直の二人が決定していた。

その三枝二飛曹もこの列の中に並んでいたので、「判っている。もういい」と私は一応言ったものの、改めて彼が語る、甲府中学の五年生から、国のため、学校のためを思い、先頭を切って予科練を志願した真情を聞いた。

どうしてこんな騒ぎになったか。

私は第一特別基地隊大津島分遣隊指揮官の板倉光馬少佐から、分隊員のなかの出撃適格者を推薦するよう指示を受けていた。

救国の兵器、人間魚雷「回天」は当然、集中的に大量生産される筈である。

兵器が出来次第、士官も下士官も、これからどんどん出撃するであろう。

そうでなければ、この国も民族も破滅であるから、「早いか遅いか、僅かな違いで、いずれ一人残らず出てゆく」ものと、私は信じていた。

第一次出撃の士官搭乗員の選考が行われた際に、板倉指揮官から私自身が

「最初に出撃したいと言うのには、何か特別な理由があるか?」と聞かれてやりとりした経験があったので、たとえ僅かな順番の差であっても、特にその必要がある人間が、もしもいるのであれば、後先させることを考えたほうが親切であろうと、私は思ったのである。

それで、「何か特殊な事情がある者は聞こう」とだけ、皆の前で気軽に言ってしまったが、こんなにも多数の人に、強烈な反応を起こすとまで予想しなかった。自分の軽率さを悔いると共に、搭乗員たちへの信頼感、一体感を一層深める結果となった。

出撃適任者のリストは、分隊士の小林富三雄少尉と協議して作成し、板倉指揮官に提出した。予科練出身者の搭乗訓練割当と、出撃者の指名が、それからは増えていったが、こちらの推薦通りとは限らなかった。次々と訓練に入り、それらの成果の積み重ねから、自ずと適任者が生まれていった感じになって、分隊長として再び推薦者のリストを作成することはなかった。

このとき、「出撃させてほしい」との熱意を真剣に吐露するひとりひとりの眼差しと言葉が、今も眼の前に鮮烈に浮かんで来る。

彼等の清々しい、真摯な至情が、今の世に広く伝えられ、理解されているとは言えない。

寧ろ「日本人の心が判らなくなった日本人のほうが多い」とさえ思われるこの頃である。当時の仲間が記録し、語り継いでゆくことが、戦没した彼等の為にも、この後の日本のためにも意義があると思う次第である。

(小灘利春HPより)

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