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大津島沖の戦艦大和

小灘 利春

平成15年 4月

昭和二十年三月三十日、兵学校を卒業した74期の少尉候補生の内、五十名が第二特攻戦隊附を命ぜられ、三十一日大津島に着任した。その何日か前、大津島の西岸と三田尻の間に挟まれた周防灘の一隅に戦艦大和が新型軽巡洋艦一隻、駆逐艦十隻前後を従えて投錨した。

大津島の魚雷発射場からこの貴重な光景を望む事が出来たが、搭乗員達は訓練に出ると回天操縦者も追躡艇指揮官も、

心もち大和に近寄る様に行動してこの艦隊を観察した。

見張り所が在った大津島の「回天山」からも良く見えた。

戦艦群を率いた昔日の規模は無いが、巨艦の堂々たる偉容に充分な威圧感を覚えた。ある時、大型のランチが一隻、大津島基地の繋船池の入り口に姿を見せ、外界との唯一の接点である浮桟橋に近づいてきた。前後左右四個所の出入口に詰めている士官は帽子の徽章の金色が眩ゆかった。丁度桟橋に立っていた私は「よその短艇が入ってくるのは奇怪しい」と思い、艇指揮に事情を聞いた上で処理しようと繋留を終るのを待っていた時、71期の斉藤高房大尉が岸壁の上から走り降りてきて、「ここはお前達の来る所ではない!すぐ放せ!」と、大声で怒鳴りつけられた。

艇首員が爪竿を浮桟橋に掛けた直後であったが、飛行服を着た海軍大尉の剣幕に恐れをなしたか素直に爪竿を離し、

後進を掛けてランチは出て行った。何処に向かったかは見ていない。四月六日、この艦隊は忽然と姿を消した。

翌日か翌々日「大和沈没」の暗号電報を見た時「大和を退艦した候補生ではなかったか」と私は推理した。それにしてもランチが何故大津島の基地にやって来たのか。指示があっての事か、間違って立ち寄ったのか、とにかく話をしていないので事情が判らない。マントを着ていて服装は良く分からず、特大の人員輸送用「ランチ」は、上面全部が厚いカンバスのカバーで覆われているので、中にどれ程、又誰が乗っているのか見えなかった。艦名も表示がないので判らず終いである。

大和、矢矧の候補生は三田尻沖から、駆逐艦の花月に便乗して徳山の燃料廠に上陸した由であるが、候補生以外にも出撃直前の退艦者が多数あった筈である。何れにしても事情を聞いたとて所詮は時間と手間の無駄に終わったであろう。

その時は内心、斉藤大尉のものの言い方を「無情なのではないか」と感じたが、第一に大津島は秘密基地であり、何びとも寄せつけないのが適切な処置であった。

昭和二十年四月初旬のその頃、大津島にいた回天搭乗員は70期では近江(山地)誠大尉が一人、新しい訓練基地の設営に奔走を続けて居られた。71期は開隊以来の帖佐裕大尉が九州南部へ出撃の準備中、後任には湯浅(大河原)明夫大尉が三月末に大浦崎から着任された。根本克大尉は伊36潜から一月に着任され、一ケ月余り後新しい基地、平生突撃隊に移られていた。斉藤高房大尉は二月に呂59潜から大津島にこられ、四月中旬、新設の大神突撃隊に移られる少し前であった。因に光基地の三谷与司夫大尉は駆逐艦桐から十九年十二月の着任である。

「71期は搭乗員であるが各基地の運営・指導要員、72期以降が突撃要員」と私どもは心得ていた。72期は大津島の大勢力であったが次々と出撃して行き、残っているのは八丈島進出を待つ私一人だけになっていた。 

回天部隊の規模、特殊な任務の性格から見て、艦隊、各基地司令など、部隊の統率、作戦の研究、指導の層が薄すぎた事、それと共に、回天作戦の一貫した指揮、権限を持ち責任を取る上層部がはっきりしない事が、回天が戦力を発揮する面で、大きなマイナスであったと私は考える。

一方、搭乗員自体の熱意と自主的な技術向上、訓練運営充実の努力が大きな推進力であった。斉藤大尉は戦後病没されたが、同大尉を始め回天搭乗員の先頭に立った人達の透徹した思者と果敢な実行力に加えて、快活な日常を者えると、改めて我々搭乗員達の艮き指導者であった事に深い感銘を覚える。

(小灘利春HPより)

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