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人間魚雷 回天について

平成12年

  今日は「回天」の兵器と作戦の概要と、回天の搭乗員たちが何のために自ら特攻に参加したのか、その心情についてお話したいと思います。

「死にたくて死んだ特攻隊員は一人もいない」と考えます。

「ひとつしかない自分の命よりもっと大切なものがあったからこそ、身を捨ててそれを護った」と私は理解しております。

 特攻で七千人の若人が戦没しました。

 戦艦大和の水上特攻艦隊の乗員を含めると一万人を超えます。

ともかく大量の特攻戦没者があったことは、日本人として無視できない事実です。

しかし、今の若者は全く知らない、聞いても関心がない。気違いと言い捨てる者も少なくありません。一方、最近は外国が特攻に興味を持ち、ドイツのテレビ局が現在日本に来て取材中ですし、米国のテレビ局は近々私どものもとにインタビューに来ます。米国の博物館からも「なぜ特攻をやったのか」について解説文を送ってほしいとの依頼が私に来まして、目下英文で作成中です。

  日本のテレビ局は逆で「アメリカ兵を殺そうとしたのか!」と我々を責めるのです。

米軍が日本本土に上陸して大量殺戮が行われようとする危機だからこそ非常の手段で戦ったのに「日本人はいくら殺されても構わない」という言い方をします。世論を正しくリードすべきマスコミがこの程度かと、がっかりします。

 今に「日本人の心が日本人に判らず、外国人が理解する」という妙なことになりはしないかと気になります。

○回天とは

「人間魚雷」そのものです。実戦に使われた一型は、九三式酸素魚雷に手を加えて人が乗り、操縦して敵艦に体当たりします。「眼のある魚雷」 ですから、入り込んだ敵の泊地に進入して攻撃できますし、大遠距離魚雷として潜水艦では手が出ないような遠い目標も攻撃できます。言葉の意味は「天運挽回」、傾いた勢いを再び元に戻す意味で、維新の志士がよく使いました。 

〇九三式魚雷とは
日本海軍だけが開発に成功した酸素魚雷です。空気の四分の三を占める窒素は燃焼に役立たないので、酸素だけを九九・五%の純度で取出して、二二五気圧に圧縮して魚雷に詰め、燃料の灯油を燃焼させて走ります。これで能力は三・五倍になり、外国の魚雷は速力四六ノット、距離は五千米程度ですが、九三式は五〇ノットで二万米走ります。

速力を三六ノットに落とせば四万米も走り続けます。炸薬量は五百キロで外国魚雷より六割も多く、燃焼で発生する水蒸気と炭酸ガスが海水に溶けるので、雷跡が見えないという利点もあります。

 九三式魚雷には高性能を活かした秘密の使用方法がありました。米国は日露戦争の直後から日本を仮想敵国にして、大艦隊で太平洋を押し渡り日本を海上封鎖、或いは艦隊決戦をする「オレンジ作戦」を立てて、実際にハワイ/比島と同じ距離のハワイ/メルボルンを戦艦部隊を中心とする五六隻の大艦隊で押し渡る実地テストをやっております。 

 日本としては、米国の優勢な主力艦隊を多数の巡洋艦、駆遂艦で周囲を取り巻く「輪型陣」を組んでの渡洋作戦が大きな脅威となっていました。日本海軍が練り上げた対抗策は、潜水艦などで途中で襲撃して敵の勢力を削ってゆく「漸減作戦」であり、いよいよ主力艦同志の決戦に入るときの「公算射法」でした。双方の主力艦隊が太平洋上で近づき、戦艦の砲戦距離の三万五千米になると、日本の重雷装巡洋艦をはじめ全ての巡洋艦、駆逐艦が装備している九三式魚雷を合計二三〇本、一斉に発射します。

  海面下を雷跡のない魚雷が並んで走り、網の目のように縦横に散の艦隊を包みこみます。これが公算射法で、仮に一〇%だけ命中したとしても二十三発の大型魚雷を受けて敵主力艦隊は轟沈、乃至は航行不能となりましょう。こちらは無傷で、圧倒的に有利になった態勢で砲撃を始めて撃滅する、という筋書きです。

この戦術は事前に敵側に知られては駄目なので、酸素魚雷の存在と使用方法は軍機でした。戦後でもこの戦法に触れる人は少ないようです。尤も、後に兵学校の校長をされた井上成美大将が開戦一年前の頃は航空本部長でしたが「米国艦隊の司令長官がよほど愚か者でないかぎり、束になっては来ない。大艦隊同志の決戦はもう起こらない」と予言しておられます。

  米国もオレンジ作戦を島伝いに日本に押し寄せる方式に修正していましたし、結局は山本五十六司令長官が開戦劈頭ハワイを叩いてしまわれたので、そのあと大海戦が成り立たなくなって、九三式酸素魚雷本来の使い方は陽の目を見ないで柊わりました。

○回天の要目、性能

 この高性能魚雷を活かそうとした回天は、九三式魚雷に更に一本分の気蓄器を加えて直径一米の胴体で包み、全長を一四・七五米に収めた大型魚雷です。重量八・三トン。炸薬葦は一・五五トン。普通の魚雷の五本分に当にります。水中最大速力は三〇ノット。航走距離二万三千米。巡航速力の一二ノットでは四十二浬ですから、三時間半走り続けることが出来ます。乗員一名。ハッチは上と下にありますが、開閉するハンドルは内側だけについており、外側にはありません。従って、搭乗員は乗艇してから自分でハッチを閉めます。「外から閉められたら、泣いても叫んでも開けて貰えない」という、多くの本の説明は事実の逆です。

 潜望鏡は長さ一米。上下、旋回、倍率変換ができ、浮上したときこれを通して周囲や敵艦の態勢を観測します。自分操縦で、針路は三六〇度、速力、深度は一定の範囲内で自由に変えられます。最も重要な作業は敵艦の態勢を観測して突撃針路を正確、敏速に決定することですが、浮力の調整も常時気を配る課題です。走るにつれて酸素をどんどん消費して艇が軽くなりますから、その分計算して海水タンクに注水してゆき、運動性能が悪くならないようにします。操縦中は頭と手を動かして結構忙しく、訓練中でも一歩誤れば殉職ですから緊張の連続です。慣れれば艇を手足のように自由自在に操っていた感じでした。

○回天の使い方

 大型潜水艦の後甲板に回天を四基、のちには前部甲板にも二基、合計六基搭載します。 

 輸送潜水艦では五基、中型潜水艦では二基を搭載して出撃しました。

 搭乗員はいよいよ発進する前に潜水艦の中から交通筒を通って回天に乗艇します。敵に接近してゆく速力は泊地攻撃では二一ノット、洋上の航行艦襲撃のときは二〇ノットを使います。敵艦の五百米手前で浮上、観測して針路を修正し、全速三〇ノットで突撃、三〇秒後に命中するのが基本です。

  魚雷と同じ信管で自動的に爆発しますが、さらに搭乗員は突入する際は電気信管のスイッチに手をかけ、命中と同時に間違いなく発火するように操作しておりました。若しも命中しなければ、反航して浮上、観測して再び突撃します。これを繰り返すことができます。のちには陸上の前進基地からも回天を出せるようにして、第一回天隊は同期生が隊長で沖縄に向かい全員戦死、私は第二回天隊で八丈島へ進出しました。九州南部と四国海岸には数多くの回天が配備されております。 

○人間魚雷の着想

 戦局が急迫した昭和十八年以降、何人もの士官が人間魚雷に着想し、多くは血書して採用を請願しました。実現に結びついたラインは特殊潜航艇部隊の機関学校五十一期黒木博司少佐と兵学校七十一期仁科関夫少佐の二人で、周囲の反対にもめげず、申請を何度も却下されながら遂に実現まで漕ぎつけました。

 十九年二月ようやく人間魚雷の試作命令が出て、七月航走試験に成功、八月一日兵器に採用されると同時に百基の緊急生産命令が出ました。

○訓練基地の開設

 九三式魚雷の試験発射場が昭和十二年から山口県徳山市沖合いの大津島にあったので、その設備を活用して回天の訓練部隊が十九年九月一日に創設され、五日から操縦訓練が始まりました。

 最初に集まった回天搭乗員は兵学校七十期の二人とコレスの黒木さんの計三人、七十一期が三人、七十二期がコレスとも十四名。それに水雷学校魚雷艇学生出身の兵科三期予備士官十四名です。合わせて三十四名の陣容でした。訓練基地は十一月に光、そのあと平生、大神と増設され、人員も急速に増えてゆきました。

○回天搭乗員の募集

 兵学校出身の場合、まず人間魚雷を作ってほしいと請願した人は搭乗員を発令されました。この兵器の計画を知って志願した人たちが一部ありますが、相当数は海軍省人事部が選んで転勤命令の形で、またそれに近い状況で搭乗員になりました。

すなわち募集ではなく《自発的な志願と指名》です。七十四期は志願者の中から卒業時に選抜されたようです。予備士官、飛行予科練習生出身者の場合は各訓練部隊毎に「生還を期しがたい新兵器の要員」として志願者の募集があり、多数の応募者の中から選抜されて来ております。

○出撃者の選抜

 回天の搭乗員は兵学校七十期以降ですが、海軍伝統の「指揮官先頭」を実践して兵学校出身者が真先に立ち、上の者から、古い者から、出撃してゆきました。従って兵学校出身者の戦死率は当然高いのですが、この点さえも「兵学校出を温存して、予備士官と予科練ばかりを殺した」と、事実とは逆なことを放言する「知識人?」が多いのは困りものです。

 七十期は創始者の黒木博司少佐と樋口 孝少佐が訓練開始二日昌に殉職され、上別府宜紀少佐は真先に戦死。

 七十一期三名中の二名も戦死、あとの一人は宮崎県南部に多数配備された陸上基地に回天隊を率いて進出、終戦で生還されました。「同期の桜」の作者、帖佐裕大尉です。

私どもは着任直後、この歌を帖佐さんから直接教わりました。ですから、私たちの歌う「同期の桜」は本家直伝です。その時は諸方面から集まった搭乗員は誰も「同期の桜」を知りませんでしたから、その頃から各地で爆発的に広がっていったと思われます。 

 兵学校、後閑学校出身者計二十名は一人残らず出撃し、終戦で生きて還ったのは基地回天隊に出たこの帖佐さんと私の二人だけでした。帖佐さんもその後亡くなられたので、当初からの隊員で生きているのは私一人です。

最古参者の責務ということで私が全国回天会の会長をさせられています。

 予備士官は最初に着任した三期の十四名のうち十名が戦死、二名が出撃中に終戦、あとの二名は他の部隊に転出しました。後から着任した予備士官は遅い組ほど出撃、戦死者が少なくなっています。

 予科練出身では土浦航空隊から選技された百名が最初に着任、そのため三十三名もの戦没者を出しました。回天搭乗員はその後急速に参加者が増加してゆき、七十期では山地 誠(旧姓近江)大尉が着任されて基地増設などの企画的な業務を進められ、あと四国南岸に回天隊を率いて進出されました。

 七十一期はあとから四名着任され、各基地の先任搭乗員として訓練の運営に当たっておられました。

 回天搭乗員は最終的には総数二二七五名になり、その内一〇六名が戦没しました。

 搭乗員の構成、戦死の比率などは別表を参照して下さい。

○回天の戦闘

 作戦、戦闘状況については第六艦隊水雷参謀の鳥巣建之助氏ほかの著作物が多数ありますので詳しいことは省略します。

 最初に菊水隊が昭和十九年十一月八日、潜水艦三隻が回天十二基を搭載して出撃、

次いで十二月、金剛隊の潜水艦六隻が回天二十四基を積んで出撃しました。

 硫黄島に敵が来たときは千早隊の潜水艦三隻が出撃、沖縄戦では多々良隊の潜水艦五隻が出ました。

 このあと天武隊以降の回天戦は敵前進基地の泊地にいる碇泊艦攻撃から洋上の航行艦襲撃に転換して、搭載潜水艦は作戦を終わって内地に帰還すると新しい回天を積んでは次々と出撃してゆきました。轟隊、振武隊、多聞隊と続き、合計十隊、潜水艦十六隻が延べ三十二回の出撃を行い、内八隻が戦没しました。

○回天の戦果

 発進した回天の戦果については今なお調査が終わっておりません。

多数ある戦記が最少限取り上げているのは、菊水隊がウルシー泊地を攻撃したときの艦隊随伴タンカー「ミシシネワ」の爆発、沈没と、多聞隊伊五三潜から発進した七十三期勝山 淳少佐の駆逐艦「アンダーヒル」撃沈です。

 各種の刊行物が回天の戦果として挙げている艦名を拾うと十五隻内外になりますが、どれにも記載されていない戦果がまだ他にあると考えます。

 洋上攻撃の場合、突入を繰り返しても一時間は燃料が持ちますから、一時間以上経っての爆発は或いは自爆かとも考えられますが、私の同期生柿崎 実少佐の場合は輸送船団に向けて母港発進後、二十一分で大爆発しております。これはストレートの敵艦命中に間違いないのに、該当する米側資料は今なお見つかっておりません。他にも短時間で爆発した例が多くあり、我々は調査を続けております。また、回天が命中したときに爆発せず通りすぎてから爆発して、効果が小さかったという例が最低三件はあります。魚雷の信管をそのまま使ったための、思わぬ弱点ではなかったかと考えます。 

 ともかく、実際に挙げた戦果は日本側の発表よりは小さかったと思われ、その理由を兵器、操縦技術、使用方法の各面から分析したいと考えて日下整理中です。

○回天の無形の戦果

 回天は物的戦果よりも無形の戦果が大きかったと米軍自身が評価しております。

私は進出していた八丈島で終戦を迎え、十月末になって重巡洋艦クインシーの艦隊が武装解除にやって来ました。海軍部隊司令の元戦艦大和砲術長、砲術学校教頭であった中川寿雄大佐(兵学校五十期)が大発で交渉に赴くと、上のほうから「近寄るな!」と叫んで舷梯に着けさせず、「回天は今、どうしているか?」と訊きます。司令が機転を利かせて「信管を外して、動けなくしてある」と答えたところ「それなら上がってこい」と漸く乗艦させて貰えました。

 日本三太要塞のひとつという陸海軍二万二千人が守る八丈島の武装解除は回天が真先でしたが、艦長以下多数の米軍士官が回天を参観にやって来て、私どもに大層な尊敬を示してくれました。
 終戦となってマニラのマッカーサー司令部に連絡に赴いた日本側の軍使は、真先に会った参謀長サザーランド中将に
いきなり「回天を搭載した潜水艦は何隻洋上にいるかと訊ねられて「十隻ぐらい」と答えたところ、参謀長は真っ青になって「それは大変だ!一刻も早く帰投させて貰わねばならぬ」と強い口調で言ったそうです。 
 
また、第九五機動部隊司令官のオルデンドルフ少将は「戦いを継続してゆく上で、回天は長大の脅威になっていた。日本本土を基地とする回天が実際に使用されていたならば、連合国側の侵攻部隊に対して甚大な損害を与えていたであろう」とレポートしております。米軍が如何に回天を恐れていたかが、これらで判ると思います。

〇100本の眼のある魚雷

 生き物の本能として、それぞれに一つしかない生命を大事にしない人間はありません。それなのに、何のために自ら進んで死を選んだのか?
特攻隊員が経験したと思われるひとつの型として、私の体験をありのまま申し述べたいと思います。

  私は潜水学校第十二期学生になりました。講義が始まる前の日、学生隊長のヨークタウンを撃沈した名艦長、田辺弥八少佐(五十六期)に七十二期の七名が突然呼び出されて「直ちに第一特別基地隊に行け」と指示されました。それが何処にあって何をするところなのか説明がありません。尋ねながら呉の南の倉橋島大浦崎にある特殊潜航艇の基地「一特基」に到着しますと、「お前たちはここではない。明日便を出してやるから乗っていけ」と言われ、何が何だか分かりませんでしたが、同期生の特潜の艇長が通りがかって「貴様らは人間魚雷だ」と一言いいました。

 私たちの任務をそのひとことで一遍に了解して一同が喜び合い、真っ暗と思われた日本の前途にようやく光明を見いだした嬉しさで一杯になり、その夜は遅くまで気炎をあげました。私は重巡洋艦足柄に乗っていて、第三分隊長の辰野吉久大尉(六十九期)が兵学校の教官に転勤されたあと少尉の分際で発令所長を命ぜられました。主砲二十糎砲十門のコンピューター、コントロール・センタです。すぐにマリアナ沖海戦があり、足柄は横須賀に進出、待機したままでしたが、結果は日本の機動部隊の大敗北でした。その時から「このままでは日本は滅びる」と今後を危惧しました。日本海軍になお戦艦大和、武蔵ほか巨艦多数ありといっても、制空権、制海権があってこその「浮かべる城」であり、無ければ「浮かべる鉄屑」なのです。このまま戦いが続いてゆけば、圧倒的な戦力の量と質の差から我が方の消耗が続き、やがて制空権を失えば日本の艦隊は身動き出来なくなるでしょう。そうなれば敵軍は容易に日本の本土へ上陸ができる。陸上戦闘になれば、我が国の国土、国民、文化など、祖国の全てのものが破滅すると私どもは予想しました。神風が吹くのを当てにしてはならない。我々自身が神風になるほかないであろう。織田信長の桶狭間の大逆転を再現する方法はないか。そのように思い悩む、重苦しい日々でした。

 その海を潜る人間魚雷であれば追い詰められた戦場でも行動できる、強力な武器となるでしょう。新兵器の出現を聞いて皆が眼前に思い描いていたのは、敵の大艦隊が集結する前進基地に一〇〇本の人間魚雷が躍り込んで一挙に撃沈する光景でした。

○何のために死ぬか

 大津島で訓練を開始した翌日、トップの搭乗員二人が一挙に殉職されるという大事故がありました。勇猛果敢な潜水艦長として知られた大津島分遣隊の指揮官板倉光馬少佐(六十一期)は搭乗員全員を士官室に集め「ここにいる者は総員、これより一カ月の後、敵艦隊めがけ突入する」と腹の底に響く大音声で宣言されました。 聞いて我々は「当然であろう。早くしなければこの国がますます追い込まれる」と受け止めました。しかし同時に「自分がこの世に在るのはあと一カ月だけ」ということがはっきり決まったのです。大急ぎで人生の決算書をまとめなければなりません。人は何のために生き何のために死ぬのか。目の前に過去のいろいろな出来事が走馬灯のようにくるくると、とめどもなく廻りました。この頃でも遭難して死に直面した人が同じように走馬灯を見ると言います。

 大津島の丘の上に立って徳山湾の彼方を眺めると、遠く連なる山々は穏やかに霞み優雅でした。「美しき日本の山河。うるわしき日本の人々。これら善きものを破滅から護るためならば、吾が身を弾丸に代えても惜しくはない」との思いが湧きあがってきて、自らの死を納得しました。幸い最も効果的であり、効率もよい強力な武器を与えられた。多くの人の生命、それにうるわしき国土、古い歴史のある誇り得る文化を持つ、かけがえのないこの国を護るには今、人間魚雷が最善であろうとの使命感、満足感に浸りました胸の内がすっきりとまとまって、死がもう気にならなくなり、同時に何でも知りたい、見ておきたいという願望が強くなりました。食事も一口づつ味わって食べ「飯とはこんなに旨いものだったのか」と改めて認識しました。大津島の食事ほどの美味には、物に満ち足りた今でも出会うことがないように思います。「あと何回食事ができるかな」と時々は数えたりしましたが、予備士官のなかには飯が喉を通らなくなったという人もいました。子犬が迷いこんで来て、搭乗員たちは「回天」と名付けて異常なほど可愛がりました。 

 いかつい体つきの板倉指揮官もこの子犬を胸に抱きしめて歩きまわっておられたのが微笑ましい思い出です。
 

○回天隊の雰囲気

 危険な訓練を連日実施する部隊ですから隊内には常に緊張感がありますが、誰もが爽やかで明るい雰囲気でした。同期生たちは和気あいあいとしており、予備士官は皆、いまどき見られないような気品がありました。予科練出身の下士官たちは元気溌剌として充実感に満ち一点の翳りもありません。私は「帝国海軍大なりといぇども、ここほど素靖らしい部隊はあるまい」と、思いがけずこの配置を与えられた幸運を天に感謝しておりました。

 「全員が同じ任務で、間もなく一緒に死ぬ仲間である」との一体感が皆の間に当然ありますから、昨今になって一部の連中が誇張するような人を殴るなどのことは、当時の軍隊ですから皆無とは言いませんが、あまりありません。

 戦争も終末の段階になると、戦の窮迫の焦燥感から回天隊の気風も或いはすさんで来たのか、感心しない人物が入ってきたのか、私は出撃してその頃は見ておりませんが、

少なくとも開隊以来出撃まで私たちが過ごした回天隊は今考えても軍隊として理想の社会であったと思います。

○搭乗員たちの心情

 潜水艦に乗って出撃した搭乗員たちが攻撃地点に向かう艦内で、平素と変わらぬ和やかな日常を過ごし、いよいよ突撃するときも平然として艇に乗り込んでいったことはよく知られておりますが、私も同じく心静かに死ねる心境でした。

 胸を占めていたのは誰も「どんな状況になっても、自分は必ず命中できるか?」の一点でした。特攻は「死ねばよい」のではありません。「任務を達成した瞬間に死がやって来る戦法」です。命中しなければ自分の人生が無駄になります。それこそ「犬死に」です。人々を護るのにも役立ちません。運んでくれる潜水艦乗員の苦労も水の泡にしてしまいます。隊員は国体護持、天皇陛下の御為に死ぬ、と申しました。

 もとより誰も否定しませんが、実際に遺書に書かれていること、また話すことを聞いても、大抵の人が心底から護りたいのが肉親でした。我が身に代えても身近なものをこの世に安泰に置くことが、より直接的な真情ですが、思いはそれに限定されるものではなく故郷の人々、日本人全体、ひいては皇室に繋がっております。それらを全部ひっくるめての「国」です。

 我々が今、神社や寺に詣でたときに祈るのが先ず一家の安全、健康であるように、やはり吾が身に最も強く影響するもの、責任を感ずる対象は肉親の絆であるように思います。

○今も残る反省点

 回天戦における教訓の第一として「先見性と実行力」を欠いたいくつかの事例があります。訓練が開始されたとき、百基揃っていなければならない回天がただの一基も来ていません。試作品の、装備も揃わない三基だけを精一杯やり繰りしてのスタートでした。板倉指揮官が「一カ月後に総員突撃!」と号令されたのに、肝心の兵器が来ないので出撃どころか訓練もままなりません。黒木少佐たちが殉職された艇も、誰も触れておりませんが正規の回天ではなく、試作品の第二号だったのです。戦局を挽回するための奇襲兵器なのですから特に「先制と集中」、一日も早く、しかも大量投入しなければ効果が少ないのに、海軍にその能力があったにもかかわらず、生産の優先と集中がなされたとは言えません。

「これからどうなる」と将来を予見して、しからば「どうあるべきか」を考えて決断し、それを「実現する上のボトルネックが何処にあるか」と予め問題点を探り、解決するシステムの構築が特に必要な緊急課題であったと思います。

 しかし至上命令が出ていた救国の兵器、回天の生産は、肝心な初期において明確な取組み態勢が見られません。我々は当時、はらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えましたが、仁科少佐の遺書にも同じ無念の思いが記されております。また、戦争を継続するかぎりは特攻がいずれは必要になることが予測されながらもその準備、態勢づくりを行わず、追い込まれてからやったのでは、言い訳はその方がしやすいでしょうが、遅れれば遅れるほど折角の特攻隊員の一人一人が捧げる生命の価値が下ってしまうのです。それこそが「人命の軽視」です。漠然と成り行きに任せる日本人の、農耕民族的な思考上の欠陥があるように思われてなりません。企業であれば結果がすぐに響きますから当然先見性と実行を重要視するのに、この国は政治、外交、防衛、教育といった大きな問題では目先を繕うばかりで、昔も今も「先見性と実行力」が無視されていると思います。

「特攻は非人道的、人命軽視」といわれていますが、生命の危険にさらされている多くの人たちを一つの命を捨てて救うのですから、全体からみれば「特攻は命を大切にする人道的な行為」ではありませんか。若い命を散らす特攻隊員個人は悲惨と見えても、人に殺されるのではない、自分の意思で人のために命を捧げるのです。これ以外に外敵と戦う手段がもはやないような状態に日本を陥れた国家指導のほうが無惨です。将来、人間魚雷が出現することはないでしょう。戦争もあってはなりませんが「平和、戦争反対」と唱えるだけで平和が続くわけがなく、周囲の国からの侵略、恫喝に対しては逆効果でしょう。

 将来を予見した的確な対処策をあやまれば、日本の国民が再び存亡の危機に曝されることがないとは言えません。

 多くの若者が、特攻に限らず、生命を捨てても護ろうと考えたほど戦前の日本はよい道徳をもった家族、国民、国家でした。私が申し上げたいことは、将来も万が一、この国が危うくなったときは、皆が何としてでも護り抜きたいと思う良い国にして輝かなければならないということです。

 なお、回天についての書物がこれまで多数出ておりますが、記事がすべて正確とは限りません。中には意図して歪曲した悪書もあります。回天について正確な事実を世に残すことが生き残った者の責務と私どもは考えておりますので、これら記事の不審な点を含め、何事でも私、または全国回天会事務局へ御照会下さい。また御入用の資料も御申越しがあれば提供します。

(小灘利春HPより)

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