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平成22年4月23日 校正すみ

回  想

森山 晃

海軍機関学校に入校以来50年、太平洋戦争の渦中で卒業し、我々111名中57名は祖国の為に命を捧げた。現在の社会を見ると感慨無量なるものがある。湾岸戦争に対する首相以下の政府の対応、国民の感情の流れ、これで良いのだろうか、正に国という認識を忘れてしまったのではないかと思わせるものがある。今顧みて戦死した諸兄には、誠に申しわけの無い事をしたと思うし、反面我々は立派に任務を遂行したという満足感もある。

18年9月機関学校を卒業し、山城で一期の候補生を終り、12月飛行機整備学生を命ぜられた。30名のクラスメートと7ケ月間の生活は眞に楽しかった。

19年6月課程終了、姫路航空隊に配置された。7月1日付653海軍航空隊付を命ぜられ大分基地に着任した。3航戦の空母部隊として、鹿児島基地で天山隊の基地訓練に従事することになった。乗艦は瑞鶴に指定された。空母部隊は11月ボルネオの本隊と合流すべく、猛訓練を実施していた。

コレスの木村君が一緒にいたが、二人で休日の為、白子の鈴鹿基地に天山6機を引取りに出張した。丁度零戦を引取りに派遣されていた牧君と一緒になった。鈴鹿基地には大森君がいた。牧君はテストパイロットで、52期の和田さんが整備で同行していた。

 ある日試飛行で和田さんを乗せて和田さんの実家の上を飛び、エンジン不調で大阪に不時着したといっていた。また3人で四日市に行き、Sの置屋を冷かしたりした事もあったが、1010日捷号作戦の発動により、至急原隊復帰の命令があり、牧君も原隊に帰った後、比島に進出し一ケ月後201空の特攻隊として出撃し戦死した。本当に元気で屈託のない快男子だったし、立派な戦闘機乗りだったと思うが、特攻で爆弾を積んでの突入は誠に惜しまれる。小生も96陸攻で急いで、大分経由11日に鹿児島鴨池基地に帰着した。

3航戦も可動全機を台湾に進出させることになり、13日飛行機隊と先発の50期の稲本分隊長以下の整備員はダグラス機で出発した。小生は後発隊の指揮官で整備員の主力と共に、補用部品を持って駆逐艦で台湾に進出を命ぜられたが、駆逐艦が回航中鹿児島港外で被雷し入港せず、小生は夕刻まで鹿児島港で待機していた。

夕刻突然機動艦隊出撃準備の命令があり、そのまま鹿児島駅から大分に列車輸送で移動した。14日、15日と補用品等を母艦に搭載し、私は空母瑞鳳に乗艦した。16日別府湾を出港して飛行機隊を収容し、夕刻豊後水道を出撃した。

本隊比島移動後の緊急出動であったので、飛行機隊、整備員等は653空と601空の残存部隊を合同して編成された。小沢中将率いる機動艦隊は瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田、伊勢、日向、大淀、多摩、五十鈴、駆逐艦6隻で編成された。

豊後水道出撃時小沢司令長官の「生還を期せず」との訓示があり、囮艦隊であることを知らされた。天山の操縦席で薄れゆく夕焼けの九州の山々を見ながらの試運転は何か感傷的な気持を持たせた。

次の日から早朝索敵機を上げる飛行作業を続けながら南下した。

24日敵空母を発見し全機でこれを攻撃若干の戦果を挙げたが、攻撃後飛行機隊は技倆未熟の為フィリッピンの基地に収容された。母艦には全艦隊で8機の護衛戦闘機と若干の索敵機しか残されていなかった。

コレスの木村君も天山で出撃したが、攻撃後フィリッピンの基地に行き、11月クラーク付近で戦死したと聞いている。佐野君が乗っていた瑞鶴と共に飛行機をほとんど持たない空母4隻は囮部隊としてその後も南下を続けた。

25日早朝瑞鳳に不時着した瑞鶴の天山を整備していると、「急いで天山を海中投棄せよ」との命令がきた。続いて「対空戦闘」の号令が掛かった。後甲板から天山を投棄し急いでポケットに入って待機した。後方の伊勢、日向の上空に黒点が見えた。主砲の36糎の三式弾が打上げられた。こうして比島沖の海戦が始まった。

瑞鶴、瑞鳳と千歳、千代田は2隻ずつ併進し、距離が5,000米位離れていたが、先ず後方の千歳、千代田が攻撃を受け、千代田が黒煙をあげながら後方に離れていった。間もなく編隊を組んだ数十機のグラマンが来たが、並んで走る大型の瑞鶴に急降下し、我が瑞鳳はしばし攻撃を免れた。

瑞鶴の周りに盛んに水柱があがるのが見えた。4機編隊のグラマンが上空に来た、ゆっくり編隊を解き、一列になって突込んできた。対空砲火が轟き、噴進砲が火を吹いた。しかし敵機は勇敢だった。翼から2発の爆弾が離れるのが見えた。次の瞬間一番機の爆弾が前部リフトの眞中に命中し、格納庫で爆発した。

甲板は膨れ上り、船体に亀裂が入ったが、火災は起らなかった。 次々と突込んでくる敵機の攻撃で船体は振動し、小生は至近弾でずぶ濡れになった。第1波、第2波と攻撃は続くが、整備員は応急要員で全く仕事がなかった。天山搭載の7.9粍ラインメタルの機銃をハンドレールに取付けて、突込んでくる雷撃機を射ったが、空しい豆鉄砲にすぎなかった。

艦は右に左に魚雷を避けながら全速で走った。午前中の攻撃で右舷前部と後部に魚雷を受け、数発の爆弾が命中したが、我が瑞鳳は健在であった。しかし千歳、千代田の影はなく、瑞鶴はやや左に傾きながら走っていた。

午後になって第3波の攻撃を受けた。2時頃であったろうか、瑞鶴の行足が止まり、大きく左に傾き水中に没するのが視認された。瑞鶴の最後である。

戦闘はまだ続く、右舷1,000米位のところで反航してきた駆逐艦が轟沈するのを見た。3時を過ぎた頃、我が瑞鳳も遂に力尽き行足がなくなり、右舷を海面に接して波間に漂う状態になってしまった。敵機は執拗に反跳爆撃を繰り返していた。「総員上甲板へ」の号令で機関科の人が上ってきた。54期の中村君がいた。お互いに励まし合って別れた。

軍艦旗を下ろし、総員退去の命令が下りた。急坂のようになった飛行甲板を前部の方に向って歩いた。副長が色々と指図をしていた。錨甲板の上に来た時、船体が激しく振動するのを感じた。

思わず我に返り前部錨甲板の上から飛び込んだ。衣服を付けているので、中々水面に上らなかった。やっと水面に顔を出して、艦を振り返ると静かに後方に動き出していた。そして艦首をゆっくりと上げはじめた。

金色の菊の紋章が輝くように見えた。艦首を上げた艦は次の瞬間急速にしかも静かに、さっと波間に消えた。眞に厳しい美しい又悲しい姿であった。柔道畳の上に大の字になって波間に漂った。太平洋のうねりは大きく、頂上では付近の艦が見えるが、底になると全く何も見えなかった。

周りに漂流していた人も段々離れていった。ふと不安になり私室に置いてきた短刀を思い出した。1時間も漂流していた時、1,000米位のところに駆逐艦が止り救助を始めたのが波間に見えた。ちょっと躊躇ったが、決心して負傷者を伴って泳ぎ始めた。衣服を着ての泳ぎはちょっときつかったが、やっと駆逐艦に助けられた。 

T型駆逐艦桑であった。艦は敵機が来ると機械をかけて応戦し、又行足を止めて救助を繰り返していた。ロープに掴まりながら運悪く艦から離れていった多くの人々はどうなったのであろうか。

佐野君は一度瑞鶴から脱出し初月に助けられたが、その初月が沈められ戦死したと聞いている。桑にはコレスの岩佐君と鈴木君が乗っていた。助けられた時、岩佐君から貰った握り飯とラムネの味が記憶に残っている。小生は古仁屋で日向に便乗して帰投したが、桑は古仁屋から大淀と共に比島戦線に引返し、比島沖で沈み鈴木君、岩佐君とも戦死したと聞いている。

日向には村上君が乗っていた。航空部隊は大分で再編する事になり、1031日、杉に便乗して別府に帰着した。

1115日、再編した飛行機隊は比島に進出したが、整備員は不要ということで、搭乗予定のダグラスには零戦の増槽が積まれた。内地に残っていた上田君が先発隊で比島に進出した。そして653空は解隊した。

12月国分基地の701空に着任した。701空はK103、K105の彗星隊で編成され、比島で消粍し、機材補充と練成訓練を国分で開始した時期であった。コレスの坂田君、藤田君、石坂君、渋江君がおり、20年3月までの約3ケ月間同室で生活し、忙しい中にも楽しい毎日を過ごすことが出来た。

3月初旬、5航艦が編成され、天号作戦発動と共に沖縄戦に突入することになった。笠原の戦闘機隊S311の一部が特攻機護衛の為、国分基地に飛来したが、その中に寛応君がいた。

国分基地に近い山間の分散宿舎の暗い電灯の下で一夜ウィスキーを飲みながら談笑したが、彼は極めて元気で闘志満々、士気旺盛であった。次の日3月17日だと思うが、彗星特攻菊水隊の護衛として、電探欺瞞紙を撒く任務を持って出撃したが、敵機と交戦しエルロンに被弾して種子島に不時着した。翌18日国分に帰投した。

17日、18日、19日と九州南方海面の敵機動部隊に対し全力を挙げて攻撃を加えたが、19日にはコレスの坂田君、藤田君が戦死し、20日再度出撃した寛応君は敵機と交戦して還ってこなかった。きっと勇敢に空戦を展開したと思うが残念だった。国分基地の701空は殆んど全滅し、5機の彗星が残ったのみであった。

沖縄作戦が本格化して、3航艦の飛行機隊が次々と移動し、国分基地で爆装して、特攻攻撃を続行した。4月3日には252空の戦爆特攻隊として、本田君が零戦に乗って飛来した。指揮所の横の折椅子で出撃までの数時間を彼と共に過したが、平常と変り無く談笑したことを記憶している。3日の午後だったと思うが、彼は指揮所の前に整列し、命令を受け取ると淡々とした表情で機側に走り去った。

第二国分基地から上田君が来ていたので、彼に出撃する零戦の準備をするよう頼んだ。25番の爆弾を搭載し、零戦は脚をきしませながら離陸し、錦江湾をすれすれに上昇して、櫻島の西側の斜面を南の空に消えていった。

機上から手を振っていた彼の姿は気負いもなく、全く平常心であったと思われた。体は小さいが肝っ玉が大きく剛胆であったのだろう。好漢上田君の冥福を祈る。

その頃51期の国安さんが601空の彗星隊の隊長として特攻機を率いて飛来し、一日国分で待機して、4月7日沖縄周辺の敵艦船の特攻攻撃に出撃していった。兵器分隊長のコレスの渋江君も前進基地の鬼界ケ島で被弾し戦死した。

701空は美保基地に下って再編することになり、4月10日頃、残存機材を持って移動した。搭乗員と機材の補充を行い、練成訓練を実施して、8月頃から大分、国分基地に再度進出し、沖縄戦を続行した。(若干記憶違いがあるようである)

小生は朝鮮空分隊長を命ぜられ、朝鮮の迎日基地に8月8日着任したが、一週間で終戦となり、ちょっと苦労したが、8月25日、博多に民船で帰着した。梅本君が元山基地を燃料車で危うく脱出したことを聞いた。又終戦の翌日、同じ朝鮮空にいたコレスの鈴木君が光州基地で自決した。

終戦後も慌ただしい日が続いた。当時を振り返って見ると、50年たった今もはっきり覚えている。この時代が如何に鮮烈であったかを思わせる。3年間の生徒生活と2年間の部隊勤務の短い生活であったが、我が一生の半分以上の意義が込められているように思う。今の時代、好戦的と云われるかもしれないが、この様に純粋に又強く正しく元気一杯の生活を続けられた事を誇りとする。

戦死された友の冥福をお祈りする。

(機関記念誌96頁)

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