TOPへ     戦記目次

平成22年4月20日 校正すみ

海     竜

大谷 友之

大谷 友之 海  竜

蛟竜・回天は、特殊潜航艇・人間魚雷などと呼ばれて一般に有名であり、海軍部内においては、甲標的、Eなどと呼ばれ知らぬ人はないと思う。

これら二つの水中特攻兵器に較べ、海竜については、ごく限られた人にしか知られていないようであるので、まず海竜とはどんなものであったのかをご紹介する。

一口でいうと小型の有翼潜水艇であって、昭和19年も半ばを過ぎてから試作にかかり、昭和20年4月から量産が始められたものである。これが終戦時には200隻以上となり、各地の突撃隊に展開され、蛟竜・回天・震洋などと共に本土決戦に備えたのである。然しながら遂に実戦に参加する機会もなく終戦となり、幻の特攻兵器のまま、その運命を閉じたのである。

海竜の生い立ちについては、福井静夫氏著「日本の軍艦」に説明されているのでこれを引用する。

『特攻兵器海竜は昭和18年初頭に、工作学校教官であった機関中佐浅野卯一郎氏(後、大佐)が着想したもので、前例のない有翼潜水艇である。小型で量産に適し、局地防備に使用する水中高速艇で、その着想は飛行機に基づく。

即ち従来の潜水艦又は甲標的の思想を一(てき)し、恰も飛行機の如く軽快に水中を行動し、潜航、浮上を瞬間的に行なわんとするものである。この採用には幾多の紆余曲折があったが、航空技術廠の水槽試験によって成算あることを確かめ、昭和19年に入って横浜工専の製図室で生徒の手によって設計に掛かった。之と同時に呉工廠大浦崎分工場で甲標的の一艇に翼を附し(本艇はS金物と呼称された)性能試験を行なった。着想、設計、製作、実験共に同一人の手になる艦艇兵器としては恐らく唯一のものであろう。

昭和19年5月に設計を終り、久里浜の工作学校で試作に着手して名称をSS金物と称した。このSS金物の量産は翌20年4月に発令され、同時に海竜と命名し、蛟竜の不足を補うため多数の建造所で全力を挙げて急造し、本土決戦に備えたのである。小型で構造及び機構共に比較的簡単のため、早くも4月未には横須賀工廠は工作学校と協力して20隻を完成した。終戦までには200余隻が完成し、なお多数が建造中であった。

量産艇の要目は次に示す通りである。魚雷製造能力の関係で一部の艇は魚雷射出を断念し、艇首に炸薬を装備する純然たる特攻艇となった。海竜の量産はある程度成功したが、その実際性能は当初の期待より可なり低いものだった。

年度・設計 昭和19年 備考
年度・完成 昭和20年
全没排水量(トン) 19.3
全  長(米) 17.28
最大幅(米) 1.30 除く鰭(ひれ)
深  さ(米) 1.30
内穀直径(米) 1.30
安全潜航深度(米) 200
魚 雷(数) 45糎
速力・水上(節) 7.5
速力・水中(節) 10.0
航続距離・水上 7.5
航続距離・水中 10.0
馬力。水上 100
馬力・水中 100
主機械 デーゼル
乗員数

なにわ会々員で初期から海竜に関係した者は、小沢尚介・小松崎正道・中井末一・小田博之・北川博幸である。

三浦半島油壷にあった東大臨海実験所に数隻の海竜をもった「篠倉部隊」と称する海竜部隊が発足したのは昭和19年末のことであった。小沢・小松崎・中井の3名は、20年の初めより搭乗関係を、小田は艇の製作、整備関係を、北川は補給関係を担当した。

隊の充実、艇の増加により、昭和20年3月1日付をもって篠倉部隊は第11突撃隊となり、4月になると隊員は続々と集められた。なにわ会々員では乗る艦を失った磯山醇美・大谷友之・山元 奮・伊達利夫(以上搭乗)、村上義長・蕪木正信(以上整備)が集って来た。

11突撃隊は急激に膨脹し、昭和20年5月5日には横須賀突撃隊となり専ら海竜の搭乗員養成に当り、甚だ活気に溢れていた。

航海学校の一部に間借りのような形で発足した横突はみるみるうちに大部隊となり、航海学校の大部分を占め、一部は砲術学校へもはみ出すようになって行った。

隊の充実と共に海竜は各地の基地に展開をはじめ、終戦直前には北は荻浜、小名浜より房総、三浦、伊豆、紀伊半島、更には瀬戸内海、九州方面にまで展開をしていたのである。

これらの展開基地において整備の任に当ったのは、阿部 達、上野三郎(機)、詫間一郎の諸君である。

蕪木は昭和20年5月30日、あと2日で桜3つになる日、横須賀港において殉職した。蕪木と同時に横突に配属された村上は当時の模様を次のように回想している。

蕪木も村上と同じく乗る艦がなくなり、昭和20年4月、第11突撃隊服務を命ぜられ、同5月5日横須賀突撃隊に配属された。彼等2名が来た頃はコレスの磯山、小沢、大谷、小松崎、中井等の諸兄が海竜の突撃隊長として搭乗の猛訓練をやっていたが、彼等は後から来たこともあって整備の方に回された。

当時の戦局としては例え整備要員であっても一旦緩急の時には出撃の機会ある事必須なりと考え、彼等2人は上司黒磯少佐(修補長)を通じて海竜の搭乗訓練を申し出で司令(大石大佐)の許可を得た。

2人は欣喜雀躍、翌日から搭乗訓練に入ることになった。しかし彼等のために練習艇の割当ては1艇しかなく、蕪木に先番を越され村上は整備の方で1週間後の彼を待ったのである。蕪木搭乗の最終日であったと思うが不運にもエンジンの故障で彼は帰らざる人となったのである。

あれから20数星霜経った今でも当時弱冠20才で散った蕪木の童顔が浮んで来る。それからもう一つ、海竜の潜望鏡から望む東京湾の景色の素晴らしかった事も忘れられない。

海竜は、戦争末期忽然と現われ、何の戦果も挙げることなく消滅してしまった。今僅かにその面影を残すものは、江田島教育参考館の前庭に略原型を保って保存されている海竜一艇のみである。

見方によっては、海竜は日本海軍の最期に狂い咲いた特攻兵器であったかも知れない。しかし、我々海竜経験者にとっては、かけがえのない青春の記念碑である。

(なにわ会ニュース19号30頁 昭和45年2月掲載)

TOPへ     戦記目次