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平成22年4月22日 校正すみ

海軍と私

小西 愛明

大阪府立今宮中学で生々溌剌、質実剛健を旨として勉学に励んでいた時、8月に海兵の入試が今中で行はれることを知って受験したら合格.配属将校は教練成績不良のお前がと呆れておられたが、昭和1512月藤田君と一緒に72期生徒として入校。

江田島の環境は抜群だが、鬼の如き上級生と猛訓練で聞えた処.頑健な彼と違い不足する体力と運動神経もやればできると精神力と要領で乗切り鍛えられること3年.18年9月に晴れて少尉候補生となり、初めて頂く祝い酒とご馳走の後.後輩の帽振れとロングサインのマーチに送られて江田島湾を出港。同期625名は海と空約半々に別れて巣立ったが.その間乗艦実習や3週間の飛行実習(岩国航空隊)等全く同じ教育を受け,自分が海か空かを知ったのは卒業の約10日前であった。

歴代校長は新見政一.草鹿任一.井上成美と海軍戦史に載る提督方でその高い見識により英語や一般教養としての普通学も戦前通りに授業が行はれた。指導官はマレー沖海戦で英戦艦2隻を撃沈した航空部隊指揮官入佐中佐.海軍体操の創始者で落下傘部隊長堀口大佐(陸戦)他人材が揃い(後に自衛隊将官が輩出).その薫陶を受けて吾々の人格が形成されていった事は.終戦後幸いであった。

卒業後2ヵ月間の練習航海を終了し、徳山沖で戦艦日向に乗艦した処.彗星艦爆24機を搭載する改装工事の直後で艦長、航海長、甲板士官以外の先輩が未着任の為,翌朝から公試と呉回航の出入港時に前甲板指揮官を代行することになったが,艦長の指示に従って大声で号令を掛けるだけで任務が果せたのは、海軍の組織と優秀な特務士官、下士官兵が乗組んで居るお蔭と早速認識でき.度胸もついてその後の任務遂行に大いに役に立った次第である。

 

日向での徹底したOJT教育で艦隊勤務に馴れた翌19年3月少尉任官、5月に伊号33潜水艦砲術長兼通信長。乗組3週間後の6月13日朝伊予灘で急速潜航訓練中機械室に浸水して沈没.海中の司令塔から脱出して4時間余り泳いで漁船に助けられたが生存者2名のみ。詳細は「なにわ会ニュース」77号や吉村 昭の小説の通り。呉鎮で残務整理の後7月練習潜水艦伊号121航海長。艦長は稲葉通宗元伊36潜艦長で操艦の上手な方であったが、ある日、大竹のブイに前後繋留する時.私に操艦を任せ,ニッチもサッチもゆかなくなったら願いますと言え.後は引受けてやると言はれて慎重に操艦した結果、上手に係留することが出来て自信がついたのは嬉しい思い出である。

 8月潜水学校付となり、9月中尉に昇進、特殊潜航艇要員に選ばれて呉港外の基地隊で艇長講習.同期は2人乗りの海龍にも行ったが.私は翌20年2月 5人乗りの蛟竜と予科練出身の艇付4人を貰って艇長となり、訓練と後輩の指導(張り出しケップガン等)に係るうちに6月大尉、呉大空襲の夜は当直将校で身辺に爆弾が落ちるのを体験した。

 その後102突に配属され、佐伯の101突経由宿毛に進出し、魚雷2本を装填して待機していたが、終戦となり、基地隊に引き揚げる途中.倉橋島の亀ケ首に魚雷をブチ込んで処分し、音戸瀬戸を通って呉に回航、潜水艦ドックに係留して任務を終了した、

 終戦まで2年間で、戦死等で亡くなった同期生は335名、生存者は290名、藤田 昇君共々運の良い方であった。

 結局、海軍では二度と経験できない貴重な体験をさせて貰ったがお役に立てず終った。

 その後、21年末まで復員輸送に従事、海防艦「宇久」、駆逐艦「杉」の航海長としてサイパン、テニアン、グアム、トラック、パラオ、上海等と浦賀、佐世保、鹿児島、沖縄等を往復し、翌22年2月からは試航船栄昌丸航海長として掃海の終った明石海峡と小豆島間を繰返し往復して航路の安全を確認、4月からは賠償艦として外地に回航する旧海防艦、駆逐艦の乗組員を乗せて内地に帰る役目の艦早崎の航海長に転じ、青島港で帝国海軍の最後を見届けて8月に復員した。

その後関学で経済を学び就職して40年に及ぶサラリーマン生活中.海軍での経験が大いに役立ち有難く思っている。今も海や船は好きである。

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