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平成22年4月21日 校正すみ

隼鷹・羽黒・楓

伊藤 正敬

 

卒業から隼鷹まで

太平洋戦争が始まった昭和1612月8日、私は海軍兵学校の2学年に進級し後輩の73期生を迎えやっと最下級生の雑務から解放されたばかりであった。それから1年9ケ月後の18年9月15日、2年9ケ月半の江田島生活を終えて卒業し、海軍少尉候補生として山城乗組を命ぜられた。当日卒業した同期生は625名で、飛行関係者は即日霞ケ浦航空隊へ行き飛行学生となり、その他の者は一部を除いて艦務実習のため山城、伊勢、八雲、龍田の4隻に配乗された。

戦艦 山城 戦艦 伊勢
巡洋艦 八雲 巡洋艦 龍田

当日江田内には山城と八雲が我々候補生を迎えにきていた。海軍軍楽隊の演奏する「蛍の光・海行かば」のもと教官、下級生に見送られ、山城に乗艦し実習が始まった。

 

まもなく戦局の要請により陸軍部隊の緊急輸送のため実習を続けながら1014日宇品を出港してトラックへ向かうことになり、1020日無事トラックに入港した。

そして1030日トラックを出港して呉への帰途についたが、11月4日豊後水道入口で、同航中の航空母艦隼鷹は後部に敵潜水艦の雷撃を受けて航行の自由を失い、同艦は巡洋艦利根に曳航されて呉に帰投した。     

航空母艦 隼鷹

 初めて目の前で被害を受ける現実を見て戦争の恐ろしさを実感したのである。

 

1112日呉に入港し、実習終了後の配属先が発表されたが、私はなんと先日魚雷を受けて修理中の隼鷹乗組となっていた。

 

15日山城を退艦して臨時列車で上京し、18日天皇陛下に拝謁を賜り決意を新たにした。

 

20日呉で修理中の隼鷹に着任し、上甲板士官兼副長付として勤務することとなった。この時一緒に着任したのが赤尾正長、今井政司、斉藤五郎、守家友義、小島丈夫、畠中和夫と小生の7名であった。

隼鷹は修理中であり、甲板士官の私の仕事は毎日各分隊から派出された作業員を指揮してのペンキの剥し方であった。隼鷹は商船改造の航空母艦であり、艦内のペンキは可燃性の塗料であったので、今後の被害を受けた時のことを考えての処置であった。

夜8時の巡検を終わると上陸してグリンへ行き、夜12時頃まで楽しむ毎晩であった。候補生の間はレス(料理屋、エス(芸者)もいる)は立入禁止、また、外泊も禁止されていたので殆どの候補生はグリンに集まった。隼鷹にはトラックを搭載しておりそのトラックで深夜帰艦したこともあった。昔の日記を見るとグリンのメイドと広島へ映画を見に行ったことが記されている。当時紅顔の美少年であった候補生はとてももてたらしい。

しかし、修理中の艦では候補生の勉強にならないというわけか、僅か半月で12月5日付斉藤、小島と小生は羽黒乗組となり守家、畠中、赤尾、今井の4名は妙高乗組となった。

畠中は妙高から潜水艦学生を経て101突撃隊付となり終戦後の8月18日蛟竜で自決している。このことは父上の手記がニュース1938頁に、また当時の部下の藤田正視氏の投稿がニュース3840頁にそれぞれ掲載されている。

 

隼鷹から羽黒へ

巡洋艦 羽黒

我々は12月8日隼鷹を退艦し、翌9日佐世保で修理完了間際の羽黒に着任した。この時着任したのは前記3名と小松崎の4名であった。小生は4分隊士 (2月1日からは2分隊士)小松崎は通信士、斉藤は航海士、小島は砲術士を拝命した。羽黒にはコレスの土屋が拝謁後直ちに着任して機関長付として勤務していた。また副長は大野格大佐、通信長は元良大尉で共に元兵学校教官であった。

佐世保は私が中学2年及び3年の2年間過ごした土地であり懐かしい軍港であったが、16日に佐世保を出港し瀬戸内海に向かったので佐世保での楽しい思い出はない。羽黒は僚艦妙高とともに瀬戸内海で訓練をして22日呉に入港、陸軍部隊を搭載して24日呉を出発して29日トラックに入港した。

 

トラックからカビエン、そしてリンガまで

昭和19年の正月はトラックで迎えた。元旦の夜、分隊員に迎えられて分隊居住区に行き前後不覚に酔っ払った思い出がある。1月3日トラックを出港してカビエンに向かった。5日早朝カビエンに到着。2時間で陸軍部隊の揚陸を完了。最大戦速でトラックに帰った。この時我々の対潜警戒に来てくれた22駆逐隊が空襲にあって大きな被害を受けたのは気の毒であった。関根利彦が1月4日皐月で戦死しているが、この時ではなかろうか。彼は72期の戦死第一号であった。

 

暫くトラックで碇泊並びに出動訓練に従事した。28日にはトラック地区にも敵機が来襲し、同地も安全な泊地でなくなった。2月8日トラックを出港。12日パラオに入港した。我々が後にしたトラックには2月17日敵の大空襲があり多数の在泊艦艇が被害を受けた。

 

この時、香取乗組の有村信義、池内好員、池田誠治、石川忠雄、那珂乗組の大淵立身、小林 恵、舞風乗組の片山誠郎の7名が戦死している。

3月9日パラオを出港して12日石油豊富なボルネオのパリックパパンに入港した。同地は石油の産地であり特務艦鶴見が在泊していた。

 

父との会合

当時父(兵42期)は鶴見の艦長をしていた。父は昭和1711月5日鶴見艦長を拝命、19年6月10日までの1年7ケ月の間、東はラバウル、西はシンガポールまでの潜水艦潜在海域を僅か8ノットの低速の艦で行動した。この鶴見は父退艦の2か月後の19年8月5日にダパオ南方で米潜水艦の攻撃を受けて沈没している。

入港すると父が羽黒に来艦し、午後2時半私は鶴見に行き、6時過ぎまで懇談した。まさか戦地で父と会えるとは思えず、お互いの無事を確認し、非常に嬉しかった。

 父の聖戦日記(昭和17年11月鶴見艦長着任から終戦までの日記)には「図らずも正敬に会えたのは何よりも嬉しい。随分太っていた。」と書かれていた。

 

13日最大戦速にてタラカンに向かい、14日タラカンに入港した。同地も石油の産地であった。3月15日わずか半年で海軍少尉に進級した。17日パラオに帰投。24日、また鶴見がパラオに入港してきて父が羽黒に来艦した。この頃は陸上の水交社で玉突きをして楽しんだと日記に書いている。

3月25日副長付甲板士官運用士兼八分隊士となり、直接大野副長のご指導を受けることになった。

 

28日敵機動部隊の来襲の算が大きいので急遽パラオを出港し、4月2日ダパオに入港した。この時連合艦隊司令長官が航空機事故で戦死された。ダパオでは訓練が出来ないので訓練が出来て、しかも石油の産地に近いリンガに回航することになり、8日同地を出港し、12日リンガに入港した。リンガはシンガポールの南にある赤道直下の艦隊泊地でありレイテ作戦までの連合艦隊の泊地となった。当時リンガには連合艦隊の精鋭が殆ど集結しており連日訓練に励んでいた。作業地での乗員の慰安は艦内映画であり、甲板士官としてはフイルムの捜索確保が士気高揚のためにも重要な仕事であった。

2艦隊旗艦愛宕には司令部保管のフイルムがあり、よく借りに行ったものであった。また、艦内のゴミ処理も甲板士官の仕事であり、カッターにゴミを山積して陸上にもっていき燃やしたものである。

 

リンガ出撃 渾作戦そしてア号作戦

やがて次の作戦に備えて5月12日リンガを出撃し、15日タウイタウイに入港した。同地には鶴見が在泊していたが、甲板士官の仕事が忙しくて父を訪問出来なかった。18日、父から来艦を待つ旨信号があったので午後7時半頃鶴見に行き10時まで懇談した。父は15日付横鎮付の転勤発令があり近く退艦すると言っていた。退艦までの無事を祈った。

 父の日記には「多忙のためか少し痩せていたが元気なるは嬉しい」と記載されている。

 

27日ダパオへ進出。渾作戦のため6月2日マノクワリに向けダパオを出撃したが、3日敵機の接触を受け、ビアク奇襲の見込みがなくなり中途から引き返した。

7日再びダパオ発。ハルマへラに進出。9日バチャン着。この時同航の駆逐艦が潜水艦の攻撃を受けて沈没、多数の生存者を救助したが殆どのものが爆雷破裂の衝撃を受けて内臓をやられ、気の毒にも次々と死亡していった。

死亡者の処置も甲板士官の仕事である。作業員を連れて陸上へ行き、持って行った油で遺体を焼却した覚えがある。

11日バチャン発、サンハギ着。敵の比島奪回を迎撃することになった。13日夜出撃前の酒保開けで艦内の士気は大いに高まっていた時、夜10時過、ア号作戦が発動されこの旨副長から下達された。そして直ちに中部太平洋に向け出撃した。羽黒は旗艦の航空母艦大鳳の直衛として行動した。

 

翔鶴・大鳳沈没 太平洋に放り出される

大鳳は19日午前8時頃、潜水艦の攻撃を受けて右舷前方に魚雷が1本命中したが何事もなかったように航行していた。午前11時頃翔鶴に米潜水艦からの魚雷3本が命中し、同艦は午後2時10分爆発沈没した。 この時小尾清彰と野村 繁の2名が戦死している。午後2時半頃至近距離を航行中の大鳳が突然目のくらむような大爆発を起こして多数の乗員が海中に放り出された。私はこの時カッターの艇指揮として生存者の救助にあたった。小松崎も同様艇指揮として救助にあたった。カッター一杯に生存者を収容していると盛んに羽黒からカッターに向け発光信号をしていたが意味が分からない。小松崎は羽黒に招艇旗(短艇は直ちに帰投せよの意味)が上がったのを見てすぐ帰艦したと言っていたが、当方からは招艇旗は見えなかった。小生もとにかく帰ることとし、艦に着いて生存者を積んだままカッターの揚収が行われた。この時、どうしたことか途中でカッターが落ちて総員海中に放り出された。やっとのことで投げられたローブに掴まり艦に上がることが出来た。

この間に小沢長官は羽黒に移乗され、羽黒は機動部隊の旗艦となっていた。

参謀長は乗艦してくるとすぐ艦長に「航進を起こすように」と指示されたが、艦長は「短艇が帰る迄待ってくれ」といい、参謀長は「すぐ航行を開始せよ。ぐずぐずしているとこの艦もやられるぞ」と言われたとか。危なく太平洋に放置されるところであった。

この時大鳳にはクラスが5名勤務していたが、高木滋男と髱雌c 功が戦死している。この大鳳については当時大鳳に乗っており平成6年に亡くなった藤井伸之が執筆し、死後藤井夫人により出版された「空母大鳳の回想」に詳述されている。

通信力の弱い巡洋艦では機動部隊の指揮に支障があり、翌19日将旗は瑞鶴に移揚された。

 

20日午後敵機動部隊の大空襲を受けた。甲板士官の戦闘配置は中部応急班指揮官で中甲板の中部で外は見えず、ただ物凄い砲声を聞くばかりで戦闘状況は分からなかった。しかしこの時羽黒は対空砲火で敵機を5機撃墜している。この空襲で飛鷹は雷撃を受け航行不能となり味方駆逐艦が処分、その他空母瑞鶴、隼鷹、千代田、戦艦榛名、巡洋艦摩耶が直撃弾を受けたが航行に支障はなかった。同夜、2艦隊、10戦隊、最上で遊撃部隊が編成され、明朝基地航空部隊と呼応して敵機動部隊に突入することになり、24節で東進を開始したが、敵の動静が掴めず、また航空機の行動も期待出来ないことが分かり、午後10時この行動は中止と決定されて反転、西方に向かった。そして燃料不足のため作戦は中止されて、22日沖縄の中城湾に入港した。

さきの対空戦闘で羽黒でも若干の戦死者がいたので、この遺体を処理するため、機動艇に積んで中城湾で火葬した覚えがある。これも甲板士官の仕事であった。

 

中城湾から呉へ、そしてシンガポールへ

23日中城湾発、柱島経由26日に呉に入港した。7か月振りの内地帰投であったがのんびりはさせて貰えなかった。当時ビルマ方面で苦戦が続いており、その増援の陸軍部隊と補給品を輸送する任務が待っていた。これらの搭載物件の搭載の計画、搭載場所確保のための受持分隊との調整、搭載作業の監督、甲板士官大忙しであった。

ガンルームの他の士官は久し振りの内地を楽しむため喜んで上陸して行ったが、甲板士官の小生、僅か一晩だけ巡検後に上陸出来ただけであった。任官しており大威張りで、レスでエス(芸者)をあげることも出来たが、その幸運には恵まれなかった。

 

陸軍部隊を便乗させ、30日呉を出港してマニラ経由7月11日シンガポールに入港した。シンガポールでは入渠修理を実施し、電探なるもの(レーダー)を装備した。入渠中も甲板士官は忙しい。(かわや)番を指揮して各厠のパイプの清掃等大変であった。

 

再びリンガへ

その後31日リンガに進出して碇泊並びに出動訓練を実施した。9月15日僅か半年で海軍中尉に進級した。これより前、8月中旬小松崎は潜水艦の学生として転勤し、斉藤五郎も駆逐艦橘の艤装員として転出した。

 

羽黒退艦 楓へ転勤 羽黒のその後

小生も10月1日付横須賀で建造中の駆逐艦楓の艤装員を拝命し、7日に羽黒を退艦した。羽黒に残ったのは小島丈夫とコレスの土屋賢一の2名であった。羽黒はレイテ海戦では2番砲塔大破、機銃弾約600発を受け戦死者55名、戦傷者75名を出したが、幸運にも生還し、20年にはシンガポールを基地として足柄とともに行動した。20年5月インド洋に点在するアンダマン諸島の守備隊への救援物資の緊急輸送のため、駆逐艦神風(兄治義〈70期〉が水雷長として勤務)とともにセレターを出港、15日、英艦隊と至近距離で会敵、水上砲戦となり敵1番艦に命中弾を与えながら左舷前部に魚雷命中、さらに左舷中部にも魚雷命中、航行不能となった羽黒に敵は接近し、旋回しながら命中弾を浴びせかけた。羽黒は16日午前3時25分ペナンの南南西45哩の地点で沈没した。1055名の乗員中751名が戦死し、残り304名はその日の夕方浮遊しているところを僚艦神風により救助された。士官で救助されたのは、通信長の元良少佐(65期、元兵学校教官)と甲板士官長谷川少尉(小生の後任者で73期)の2名のみであった。この時小島丈夫とコレスの土屋賢一は戦死した。

小島は1912月から、土屋は拝謁後直ちに乗艦し、ア号作戦、レイテ作戦を戦い抜いて1年半羽黒とその人生を共にしたのである。小島は誠心誠意職務にあたる真面目な青年士官であり、砲術士として活躍していた。土屋は機関長付として活躍しており、私が中学2年まで在学していた横須賀中学の2年先輩であった。

 

さて、リンガで羽黒を退艦した小生は駆逐艦に便乗してシンガポールに戻り、1010日、日本航空の飛行機でシンガポールを出発し、当時の仏印ハノイで一泊。同じく飛行機で12日、ハノイ発台北着の予定のところ、台湾空襲中との情報が入り香港に緊急着陸した。当時は捷一号作戦の直前であり、台湾も緊急事態で何時帰れるか分からなくなった。飛行機を諦め内地に帰投する艦を捜したがこれも見つらず、何時帰れるか案じていた。同地待機も5日になったところ、台北まで行く海軍機がありこれに便乗することになり、17日香港発、同日台北に到着することができた。2晩台北にいて、鹿屋まで飛ぶ海軍機を見つけ、それで19日台北発鹿屋に到着した。鹿屋からは汽車で、2日かかって21日横須賀に着き、駆逐艦楓に着任した。

 

この時、列車中でも駅でも食べるものは殆ど売っておらず、僅かに門司で黒パンを買っただけで日本は大変なことになっていると思った。

駆逐艦 楓

 

楓就役 就役訓練

1031日楓の艤装が完成し引き渡し式があり同艦航海長となった。楓は戦時急造の丁型駆逐艦で最大速力28節の一等駆遂艦である。同型駆逐艦は19年春頃から完成し始め、その航海長は殆ど72期であった。成行 剛が松で19年8月4日、鈴木敏且が桑で12月2日、宮林久夫が杉で12月7日、杉山充彦が桃で1215日、斉藤勝延が樅で20年1月5日、諏訪欣吾が檜で同年1月8日に戦死している。

楓は11水戦に編入されて11月6日横須賀を出港し、内海西部に向かい、安下庄を基地として12月末まで就役訓練に従事した。この間回天の目標艦としても行動し、また、呉海軍工廠で後甲板に回天の搭載施設も設置した。

 

台湾 比島へ作戦行動 そして対空戦闘

就役訓練の終わった楓は31戦隊に編入されていよいよ作戦部隊として活躍することになった。昭和20年1月20日呉を出撃し、船団を護衛して27日基隆に入港した。翌28日高雄に進出。パタリオナ輸送作戦<比島への人員輸送)のため、31日午前9時高雄を出撃し、僚艦汐風(艦長安元至誠元指導官)梅とともにフィリッピンに向かった。午前10時頃敵機1機が水平線の彼方に触接してきた。午後2時までの当直を終わり、士官室で、高雄で仕入れたバナナを食べて休んでいる時、即ち午後3時過ぎ配置につけの号令がかかった。直ちに艦橋に上がるとB‐25とP‐38の編隊が当方目がけて突っ込んで来る。対空戦闘でこれの迎撃に当たったが、敵弾が艦橋前部にあたり1番砲がふっとび艦橋付近は大火災となった。1期先輩の松崎砲術長ほか45名が戦死した。同航の駆逐艦梅は沈投じ、汐風は無傷であった。楓は乗員の懸命の努力により火災は鎮火したが、舵取装置が故障し、人力操舵で翌2月1日午前2時やっとの思いで高雄に帰投した。高雄で応急修理の後、基隆に回航することになった。

しかし、ジャイロコンパスは故障、レーダーもソーナーも故障しており磁気コンパスの自差修正は行ったが直撃を受けているのでなかなか自差は少なくならなかった。

さて出港すると北東の向かい風が極めて強く、艦橋は波で水浸し、艦橋の前部ガラスが全部割れているので海水がもろに艦橋にかかってくる。艦橋勤務者は総員水浸しになっていた。しかも視界が極めて悪く、前方が全然見えない。夜3時までの当直を終わり電探室(士官室は直撃を受けて使用不能)で仮眠していると突然大きな震動を感じた。敵潜の攻撃を受けたかと思って艦橋に上がってみると座礁していた。幸いに後進全速をかけ、自力で離礁することが出来た。いろいろと苦労しながら翌7日夕刻何とか基隆に入港出来た。同地で入渠し、応急修理を実施した。

 

兄との会合

基隆在泊中、第1駆逐隊の神風(兄治義乗艦)と野風(72期の南口喬乗艦)が入港してきた。兄とは卒業後初めての会合であった。高雄でやられたことを聞いて衣類を一式貰って助かった。兄はこれから船団を護衛してシンガポール方面へ行くと言っていた。南口には会った記憶はない。その後基隆を出港した野風は2月20日夜3時頃、敵潜水艦の攻撃を受けて瞬時に轟沈した。乗員は僚艦神風により約30名が救助されたが、南口はこの時戦死した。

神風はその後シンガポールを基地としインド洋方面で終戦まで活躍した。前述の羽黒の生存者を救助したのは神風であり、先年死去した小河美津彦の足柄乗員を救助したのも神風であった。神風は大正年間に建造された老齢駆逐艦であったが、終戦まで北はアリユウシャンから南はインド洋まで働き続けた駆逐艦で、雪風とともに武運目出度い艦であった。

 

台湾から呉へ そして修理

応急修理を終えた楓は19日基隆を出港、台湾海峡を渡り支那東岸を北上して呉に向かった。この時夜の午前2時頃物凄い音に驚き艦橋にあがってみると突然の爆撃、本当の暗夜の攻撃で敵の威力にびっくりした。幸い被害はなく、無事2月23日呉に入港した。

この時楓は、艦橋前部大破、前部の一番砲全壊、レーダー、ソーナーと、前部電信室の通信機器は壊滅していた。それで呉で本格的修理に当たることになった。今度は久しぶりで長期の内地滞在となった。

3月上旬、呉でクラス会があり樋口 直に会っている。この時樋口は51戦隊に勤務しており、同隊の先任指導官をしていた父に砂糖を渡すよう依頼した。この砂糖を受け取った事が父の日記に書いてあった。恐らく高雄で入手した砂糖であろう。当時内地で砂糖は貴重品であった。

 

3月10日呉発上京し、半年ぶりで自宅に帰った。15日東京発、大阪付近で空襲に会い、線路両側は大火災、汽車は随分遅れたがなんとか無事帰艦できた。

 

呉の空襲 そして倉橋島へ

19日午後、呉に敵機の来襲があり、相当の被害が発生したが、楓は緊急出港し、回避運動をして無事であった。この空襲で空母葛城が被害を受けて向坂 清が戦死した。

呉での修理完成後、4月26日から徳山方面で訓練に従事した。6月1日に8ケ月半で海軍大尉に進級した。当時の瀬戸内海は敵の投下した機雷のため極めて危険であり、最後の本土防衛作戦まで兵力を温存するため、7月3日呉南方の倉橋島の木浦で偽装することになった。陸岸に横づけして陸上からワイヤーを張り、綱をかぶせてその上を木で覆い、敵機の発見から隠れたのである。その後、7月28日敵機に発見されて被爆し、戦死者6名を出した。この時艦内にいたものは無事であったが、陸上の防空壕に避難しようとしたものが途中で戦死している。そして同地で8月15日の終戦を迎えたのである。

 

戦争中の回顧

兵学校を卒業してから終戦まで1年11ケ月、終始第一線の艦艇勤務であり、敵機の爆撃を3回受けたが幸いに沈没することも、泳ぐことも、負傷することもなく生き残ることが出来たのは全く運が良かったというほかはない。前述したように私の父は海軍大佐で特務艦鶴見(油送艦)の艦長を勤め、最大速力8節の艦で東はラバウルから西はシンガポールまであの敵潜伏海域を走り回り、1年半の間一度も被害を受けることなく活躍した。また、兄は70期であるが、戦艦霧島、駆逐艦涼風、駆逐艦神風で勤務して、これまた一度も被害を受けることなく無事生還した。父の鶴見は父退艦1ヶ月後に、敵潜の攻撃を受けて沈没、兄の涼風は兄退艦の次の出撃の時、ソロモン海域で沈没している。兄の後任で着任したのが波利貞三であり着任直後の19年1月25日に戦死している。

わが家は三人とも本当に運がよかったと言うほかはない。

 

 海防艦150で復員輸送

終戦後楓で21年2月まで、海防艦150号で22年2月まで復員輸送に従事した。この間、母島、石垣島(2回)、宮古島、基隆、花蓮港、上海(3回)、コロ島からの輸送を実施した。

 

屋代艦長から輸送艦110号航海長

22年3月から横須賀の保管艦となっていた海防艦倉橋兼屋代の航海長となり、第3回引き渡しの時は屋代の艦長として中国まで行った。この時期クラスで一番初めに艦長になったのが先年亡くなった藤井伸之である。

更に輸送艦110号航海長としてシンガポールまで行ってきた。帰りは白崎に便乗して帰ってきたが、この時白崎の航海長は47年に亡くなった斉藤五郎で、羽黒で一緒に勤務した仲でもあり、懐かしくお互いに将来を語り合った。その時、斉藤は熱心に進学を考えており、英語を一生懸命勉強していた。その後斉藤は、25年東大経済学部に進み将来を嘱望されていたが、不慮の事故で亡くなられたのはまことに遺憾である。

1026日佐世保に帰投し、復員事務官を2212月で退職した。

 

(なにわ会ニュース74号8頁 平成8年3月掲載)

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