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伊58潜(多聞隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成17年 9月28日

 (第一部:ジョニー・ハッチンズとの戦闘)

 回天特別攻撃隊「多聞隊」は潜水艦六隻で編成され、昭和二十年七月中旬から逐次出撃していった。伊号第五八潜水艦の出撃は金剛隊、神武隊、多々艮隊に続く第四回目である。同艦は多々良隊作戦から帰ったあと、呉工廠で前甲板の飛行機格納筒とカタパルト(飛行機射出装置)を撤去して回天二基を搭載する装置を新設し、交通筒も計六基の回天全部に整備した。潜航中に海面上から空気を取り入れる昇降式の「シュノーケル装置」も新設され、ディーゼル機関の主機や補助発電機を運転して、潜没したまま充電、航走ができるようになった。 

 伊五八潜は七月一六日、呉を出発して平生基地に向かった。呉軍港はかって大小多数の日本海軍の艦艇で満ちていたが、この頃すでに相次ぐ喪失と米機動部隊の空襲によって佗しい姿となり、残る艦船も燃料が枯渇して、最後の一戦に備えるのみの苦境にあった。この時期、太平洋上を広く敵艦船を求めて活動する日本海軍の艦船は、もはや回天を搭載した潜水艦だけである。

 「出港用意」の号令とともに、マストに掲揚した「非理法権天」と「宇佐八幡大菩薩」の二旒の旗が翻った。乗員たちは防暑服に宇佐八幡宮の神印を押した白鉢巻きを締めて上甲板に整列し、陸の工員たちは桟橋と岸壁の上に集まって、度々の爆撃で鉄骨の残骸を曝す海軍工廠を背景に、万歳と歓呼の声で見送った。平生基地は昭和二十年三月一日の開隊であり、多聞隊の伊五八潜が同基地からの初めての出撃であった。七月十七日朝、出撃搭乗員を送る荘厳な壮行式が挙行されたあと、錨を揚げて戦場を目指した。途中、豊後水道入り口の深い場所で試験潜航を行ったところ、回天一基の特眼鏡に水滴が発生したので交換のため平生基地に引き返し、翌十八日改めて出発した。

艦長は橋本以行少佐。

回天搭乗員は平生基地配属の次の六名が選ばれた。

中尉     伴 修二 兵科三期予備士官 麻布厳医学校    岡山県

少尉     水井淑夫 兵科四期予備士官 九州大学法学部   東京都

一等飛行兵曹 林 義明 第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官 新潟県

  同    小森一之    同               富山県

  同    中井 昭    同               京都府

  同    白木一郎    同               福岡県

 

 伊五八潜の任務は「フィリピン」東方海面に於いて敵艦船を攻撃することであり、艦長は敵の重要拠点である沖縄、レイテ湾、サイパン、グアム、ウルシー、パラオのそれぞれを結ぶ線の交差点付近が敵に会う確率が高いと考えた。猟場を次々と移動して七月二七日にグアム/レイテの航路上に着き、西へ行動した。二八日早朝、敵機をレーダーで探知して潜航し、一四〇〇敵機と敵艦がいないことを確認したのち浮上して、潜望鏡を高く上げて見回したところ、水平線上にマストを発見、やがて駆逐艦を伴った大型油送船が近づいてきたので潜航し「回天戦用意、魚雷戦用意」に入った。

 魚雷攻撃には距離が遠いので、艦長は回天の使用を決意し、一四〇七回天二基に乗艇を命じた。伴中尉の一号艇が発進作業に手間取ったために二号艇の小森一飛曹が先に一四三一、「有り難うございました」の言葉を残して発進していった。続いて伴中尉が「天皇陛下、万歳!」と高らかに唱え、艦を離れて突進した。両艇のスクリュー音が順調に聞こえて遠ざかった。

 南方特有の「スコール」が海面上ところどころで降り注いでいたが、それが移動してきて母潜からは目標が見えなくなった。そのうち、発進から約五十分後の一五二〇頃、続いて一五三〇頃に爆発音が聞こえてきたので伊五八潜は直ぐに浮上したが、激しい雨で何も見えなかった。この攻撃の戦果として大型駆逐艦「ロウリィ」の撃破を、信無性の高い戦記も記載している。同艦はたしかにこの水域を通り、レイテ湾に入港して負傷した兵員を入院させた。しかしその到着は前日、二七日の朝であった。残念ながら誤認である。ほかの該当する米軍艦船の損害は未だ分かっていない。

 伊五八潜はレイテ/グアム、パラオ/沖縄の両航路の交差点付近に移動した。七月二九日、月出時刻は二二〇〇頃なので、伊五八潜は月が利用できる二三〇〇に浮上したところ、左舷正横の半月に近い月光に映える水平線上に小さな敵影を発見、直ちに潜航して左に転舵し、艦首を向けて観測を続けた。艦首の六本の魚雷発射管に注水が終わって何時でも発射できる用意ができ、回天は前甲板の六号艇白木一飛曹、予備として五号艇の中井一飛曹を乗艇、待機させた。周囲には他の艦船は見えなかった。その艦影は真っ直ぐに伊五八潜に向かってきたが、やがて少し右に向き、魚雷攻撃に最適の態勢になってきた。方位角右六〇度、速力十二ノット、距糠一五〇〇米で九五式魚雷六本を二秒間隔で、少しずつ角度をつけて扇形に発射、潜望鏡で観ていた橋本艦長は、一分足らず後の二三三五、艦首一番砲塔の右に命中、続いてその後の一番砲塔の真横に、三つ目が艦橋の前に、合わせて三本の水柱と火柱が水に映えて艦橋よりも高く、並んで上がる光景を見た。艦長は一本ごとに「命中!命中!」と叫んで艦内に知らせ、しばらくして魚雷の爆発音が三つ、等間隔で轟き、誘爆音も多数聞こえてきた。

 回天で待機したままの白木兵曹は「敵は何か。どうして出さないのか」としきりに発進を要請していたが、魚雷命中を聞いて「敵が沈まないなら出してくれ」と重ねて催促してきた。艦長はこの程度の月明かりでは回天の攻撃に確信が持てず、魚雷で仕留めたら使用しない胆であったが、沈められない場合には回天を発進させることになるので用意した。しかし魚雷三発の命中を目撃したので、撃沈は確実と判断して回天の使用は取り止めた。しかし敵艦がなかなか沈まないと思った艦長は、深く潜航して魚雷二本の次発装填を急ぎ、準備できて観測したときは敵艦の姿は消えていた。伊五八潜が浮上して海面を捜索したが、漂流物も何も発見できなかった。九三式魚雷一発で米巡洋艦が轟沈したと聞くのに、三乗命中しても沈没までに相当長い時間がかかったこと、また艦長が観測した艦影から判定して「アイダホ型戦艦撃沈」と第六艦隊司令部に打電報告した。伊五八潜の艦内は久しぶりの大物撃沈で歓喜に湧いたが、回天搭乗員たちは「戦艦のような好い目標に、なぜ回天を採用しなかったのか」と涙を流して艦長を恨んでいた。

 戦後になって、撃沈されたのは重巡洋艦「インディアナポリス」一二、七七五トンであることが判明した。同艦は広島と長崎に投下されることになる原子爆弾二発の部品を米西海岸サンフランシスコで積載して、連続最大の航海速力でマリアナ諸島のテニアン島に急行する任務に就き、途中ハワイで燃料を補給し、約五千浬を十日間で航走して達成した。あとグアムに立ち寄り、護衛なしでレイテ湾に向かっていた。魚雷命中で艦前部をもぎ取られ、十二分間で沈没したが、艦内電源がすべて破壊され、救難信号のSOSは発信されたが電波が弱かったのか、レイテの艦船ほか一部では受信したというが司令部では受けず、米艦隊も「インディアナポリス」がレイテに予定どおり到着しないのに、事故とは考えなかった。司令部はまた、伊五八着の戦果報告の暗号電報を解読しながらも「戦艦」とあった所為か無視した。

 米軍内部の失策が重なり八月二日、「ロッキード・ベンチュラ」哨戒機が偶然に漂流者を発見するまで捜索、救助の手段が全く取られず、乗員は灼熱の陽光を浴びながら、食料も水もなく、鮫の群れる洋上を四日半ものあいだ漂流を続けた。乗員一九九名のうち、救助された者は三一六名のみという。 約四〇〇名が艦と運命を共にし、生存者は従って約八〇〇名の筈であった。

 米国海軍の第二次大戦の最後にして最大の悲劇がこのようにして生まれた。「インディアナポリス」の沈没地点は北緯一二度〇二分、東経一三四度四八分である。一部では「大きな艦が短時間で沈んだのは回天が攻撃したからだ」との主張を信じた。

 八月一日、北上して沖縄/ウルシーの線上に出て、一五〇〇浮上したところ大型貨物船を発見したが、相手が高速のため追跡できなかった。

 九日〇八〇〇、伊五八潜は比島の北東端「アパリ」岬の北東二六〇浬の海域で輸送船一〇隻、駆逐艦三隻を遠くに発見して回天戦用意。艦長は最初に六号艇白木兵曹に発進を命じたが冷走、発進を中止した。続けて三、五号艇の乗艇を命じたが、三号艇林兵曹は故障、五号艇中井兵曹が発進していった。新たな駆逐艦と船団が近づいてきたので追加して四号艇水井少尉が発進してゆき、爆発音が聞こえた。潜望鏡を揚げると駆逐艦一隻が見えなくなっており、艦長はこれを仕留めたものと認定した。発進回天は同日、二基のみであった。

 護衛空母「サラモア」七、八〇〇トンは八月九日、沖縄とフィリピンのレイテ湾との間の輸送航路で対潜掃討隊の任務に就いていた。護衛駆逐艦四隻が空母を囲んで直接護衛に当たり、離れて護衛駆逐鑑三隻が哨戒任務に就き、この陣形のまま全体として針路一八五度、速力一五ノットで南下中であった。護衛駆逐艦「ジョニー・ハッチンズ」は哨戒隊の一員として「サラモア」の西方十二浬の配備点に位置して航行していた。

 日本の潜水艦に「アンダーヒル」と「インディアナポリス」を撃沈されたばかりなので、「サラモア」は搭載する「グラマンTBMアヴェンジャー」雷撃機と「グラマンFMワイルドキャット」戦闘機を飛ばして厳重な対潜警戒を実施していた。一二〇五「ハッチンズ」は左前方二〇〇〇ヤードの海面に、浮上する潜航艇を発見した。同艦はこれに向けて全速急行し、四〇粍および二〇粍の機銃と艦首の五吋主砲で射撃した。潜航艇は接近するにつれて絶え間ない機銃掃射に曝され、主砲の至近弾を浴びた。

 「ハッチンズ」の艦長H.W.ゴッゼィ少佐は、近づいてから小型潜航艇と分かって体当たりをしないことに決め、右に回頭して

回天を左舷側に僅か五〇ヤード以内で避けた。浮上した潜航艇は約二ノットで航走し「ハッチンズ」に何とか艇首を向けようとつとめていた。同艦は左に旋回して、左舷側の全砲火を潜航艇に集中した。そのとき推進器音を感知、同時にもう一つの潜望鏡がこの潜航艇の向こうの左舷艦首前方に現れた。急いでこれに向かおうとしたとき、海面上の潜航艇に五吋砲弾が距離一〇〇ヤードで命中、直ぐに沈んだ。新たな潜航艇の潜望鏡は見えなくなったあと、雷跡が「ハッチンズ」の右舷を通りすぎていった。磁気信管をつけた八型爆雷十三発をソナーの反応に向けて投射、三回の爆発音を聞いた。続けて一二二〇、中深度に設定した水圧起韓の爆雷十三発を投射した。一二四六、探知した目様をヘッジホッグで攻撃したが手応えはなく、そのまま行方が分からなくなった。周辺海域をソナーで探索していた「ハッチンズ」、護衛駆逐艦「セイパリング」、「ロルフ」、「キャンベル」は一三三二、最初に潜航艇に遭遇した位置から約八浬の位置に再びソナーの反応を得た。潜望鏡が視認され、十三発の爆雷投射を行った。

 最後の爆雷爆発から五五秒後、海中に猛烈な爆発を感知、間欠泉のような水柱が三〇フィートの高さに噴き上がった。海面に油膜が広がり、そのあとは何の反応もなくなった。この交戦の日を、日本側の諸記録は伊五八潜橋本艦長の戦記に基づいてすべてが八月十日と記述しており、九日に発進した回天は他の潜水艦を含め皆無である。

 一方、米側は各艦の戦闘詳報は記述が詳細であって互いに矛盾がなく、また日時を重視する彼等の習慣から見ても日付の間違いはないと思われるので、事実は十日ではなく、九日が正しいであろう。米側が九日に戦闘した相手の潜航艇は間違いなく回天であるが、同日発進した回天は二基であった。報告された状況から、最初の回天の次に至近に現れたという潜望縁と雷跡は、最初のものと同じ回天と見られる。恐らく砲弾が命中、貫通したのではなく、回天が飛沫を上げて潜入したのであろう。また、爆雷の磁気信管は鉄製の物体があれば感応して起爆するものであるから、三回の爆発が発生したことは回天を捕捉した可能性がある。

 あとの「最後の爆雷投下から五五秒後の爆発」とは、回天二基が略同時に発進していて、一基が一二二〇頃に戦闘しており、それから一時間半も経った一三三五頃の、しかも離れた境所での大爆発であるから、あと一基の回天がおそらく燃料が尽き、敵が近くにいると判断して自爆したと推察される。発進した水井少尉と中井兵曹がそれぞれどちらの回天に搭乗していたか、判定できる資料はない。

 その九日夜、伊五八潜は飛行機を探知して潜航したところ、数隻の艦船が接近してきて駆逐艦の鋭い探信音が聞こえてきた。艦長はその方向に艦首を向け、移動すれば潜水艦も舵を取って常にこれに向首した。やがて探信音は全周から聞こえてきたが、同艦としては月のない真っ暗闇なので夜間潜望鏡でも観測が十分にできず、回天の使用など思いも寄らぬ状態のまま隠忍自重を続けた。

 「ハッチンズ」を含む八隻の護衛駆逐艦が昼間の戦闘のあとも捜索を続けていた。この対潜掃討隊は潜航艇群の母潜水艦の存在を確信しており、十日一四〇〇まで捜索したのであるが、遂に伊五八潜の操知に成功しなかった。

 橋本艦長の巧みな水中操艦に加えて、艦全体に厚く塗布していた「防探塗料」の効果かも知れない。

上記の「ハッチンズ」の戦闘報告書のなかで、第七五・一八任務群の司令官は

「この駆逐艦は二隻の豆潜水艦を撃沈したと思われる」と報告し、加えて「これらの攻撃は日本海軍が小型潜航艇、もしくは人間が操縦する魚雪を連合国軍に対する接近戦において、機会があり次第使用している重大な証拠となる」と警告した。

 

○多聞隊伊五八潜:回天搭載状況、搭乗員

一号艇 伴  修二中尉    後甲板後端   七月二八日発進 戦死

二号艇 小森一之一飛曹    後甲板右舷   七月二八日発進 戦死

三号艇 林 義明一飛曹    同上 左舷   八月一二日発進 戦死

四号艇 水井淑夫少尉     同上 前端   八月 九日発進 戦死

五号艇 中井 昭一飛曹    前甲板左舷   八月 九日発進 戦死

六号艇 白木一郎一飛曹    前甲板右舷   生還、終戦復員後 没

 

(第二部:オークヒル、ニッケルとの交戦)

平成17年 9月27日

 伊五八潜は多聞隊作戦で七月二八日こタンカーと駆逐艦に対して回天一号艇の伴 修二中尉と二号艇小森一之兵曹の二基が発進、二九日深夜には米重巡洋艦「インディアナポリス」を魚雷攻撃で撃沈した。

八月九日朝、輸送船と駆逐艦を発見して、五号艇の中井昭兵曹と四号艇の水井淑夫少尉が発進した。

伊五八潜は八月一一日に「暫時北上せよ」との電命を受けていたので、さらに北上を続けた。

八月一二日、伊五八潜は波静かな海上を速力十二ノットで北へ航走中、敵レーダー波を探知、続いて水平線上にマストを発見して潜航した。

一五一六、艦長は大型艦を発見、「回天戦用意、魚雷戦用意」を発令し、唯一の動ける回天、三号艇の林義明一飛曹に発進用意を命じた。

目標は一万五千トン級の水上機母艦らしい艦型で、護衛の駆逐艦一隻を伴って次第に接近してきた。

一七五八、距離約八千米で林艇が発進した。橋本艦長は潜望鏡で遠くから観測していたが、敵艦は突然煙突から黒煙を吐き上げて遁走を始め、右に左に回避運動をする様子が見えた。三十分ほどして駆逐艦が反撃に入ったのか、爆雷投下の轟音が連続して聞こえてきた。伊五八潜は戦果確認を第六艦隊から強く要請されていたこともあり、ほかには敵影がないので、このときは昼間用、夜間用の二本の潜望鏡を海面上に高く挙げ、橋本以行艦長と航海長田中宏謨大尉が司令塔で並んで観戦していた。日没時刻は一八四九であり、夕暮れに近いが、まだ海上は明るかった。

一八四二、遠くに見えていた敵艦の中央で大水柱が高く奔騰し、黒煙が天に冲するのを望見した。

航海長は「敵艦が水柱に包まれて、ぐーっと、のめり込むように水中に没する姿が潜望勤こ捉えられた。轟沈!敵艦の影すでに無く、駆逐艦のマストのみが見えた」と記録している。

艦長は「大型艦一隻轟沈」と判定し、夕闇迫る頃浮上、続けて北上しながら第六艦隊に打電報告した。

八月十二日、米海軍のドック型揚陸艦「オークヒル」九三七五トンは、護衛駆逐艦「トーマスF.ニッケル」一四五〇トンと二隻で前日沖縄を出発し、レイテ湾に向かっていた。ドック型揚陸艦LSDとは、艦内後部が大きな船倉になっており、中型戦車を積載する揚陸艇LCTなど数隻を収容しておき、敵前上陸をするときは船倉に海水を張って後扉を開き、浮かんだ艇を艦尾から急速発進させる大型艦である。日本潜水艦が行動中なので両艦は直行航路から二七〇浬東寄りを航行するよう指示を受け、それに従って基準針路一四四度の迂回航路をとり、之字運動を行いながら速力一四ノットで航走していた。天候晴、視界良好。南東の風、風力二、海上は平穏、南東の軽いうねりがあった。

同日夕刻の一八二六、「オークヒル」の見張員が左舷斜め後方一〇〇〇ヤードに潜望鏡を発見した。

当直将校は即座に右舷を取り、潜望鏡を真後ろに見るよう進路を二〇〇度に変え、速力を一杯に上げた。潜望鏡は直ぐに見えなくなった。

護衛中の「ニッケル」は警報を受け、「オークヒル」の航跡を逆に辿って潜水艦を捉えようと全速で潜望鏡発見地点に向け急行した。一八三〇、一本の魚雷が「オークヒル」と並行して走り、やがて同線の航跡波の中に入ってきた。その魚雷は海面上に現れては沈んで、同艦を高速で追いかけ、接近してきたのこ同艦は魚雷を発見する都度、それが真後ろになるよう大角度の変針をして懸命に逃げた。しかし魚雷のほうも、浮上するたびに向きを変えては追いかけてくるので「ただの魚雷ではない」と警戒した。一八四〇頃にもなお魚雷の追跡は続いていたが、追いつかないまま泡立つ波のなかに姿を消した。

「ニッケル」の艦長C.S.ファーマー少佐も当然、潜水艦が発射した通常の魚雷と最初は思い込んだ。「オークヒル」を追って浮上した魚雷を発見して、航跡とは逆の方向で潜没している筈の潜水艦を捉えようと、そのほうへ全速突進し、まず威嚇のため一八三五、爆雷九発の一斉投射を行った。

「海面に跳出した普通の魚雷」と信じていたが、この物体の動きは速いけれども魚雷の水中速力ほどではない上、針路を何回も大きく変えるので、ようやく「これは人間が操縦する魚雷、または小型潜航艇に違いない」と気が付いた。

艦長は潜望鏡発見地点の捜索を打ち切って、直ちに魚雷を爆雷攻撃するため占位運動を開始、転舵一杯でこの物体に艦首を向けた。

一八四〇すぎ「ニッケル」の後部機械室と前部および後部の罐室にいた乗組員たちは同駆逐艦の左舷側を、何物かがガリガリと擦ってゆく音を聞いた。「同艦の横腹を、あたかも金属と金属が接触したような感じで擦っていった」との報告があり、そのすぐあと一八四二、魚雷は「ニッケル」前方約二三〇〇ヤードの海面に突然姿をあらわして猛烈な爆発を起こした。煙と水柱が空中二〇〇フィートの高さに立ちのぼった。「オークヒル」からは二〇〇〇ヤード後方であった。

交戦地点は沖縄南東約三六〇浬の北緯二一度一五分、東経一三一度〇二分である。

「ニッケル」はそのあと「オークヒル」の後を急いで追いながら、レーダー、ソナーと肉眼見張りで周囲を厳重に警戒していたが、一九〇五、日艦の左正横に潜望鏡を発見した。「オークヒル」自身も、後方の艦尾波のなかを近づく潜望鏡をまたもや発見して、左右に急速転舵を繰り返した。「ニッケル」のファーマー艦長は敏速に操艦して潜望鏡の推定航路の前方に占位し、浅深度に調定した爆雷十二発を投射した。爆雷が海面に落下して爆発した範囲の外側でも一発、強烈な爆発が海中で起こった。艦長は「二本目の人間魚雷を多分、撃破した」と報告した。「オークヒル」が一九二〇、今度は真正面に航跡を発見して、また大角度変針をして逃げた。「ニッケル」が前進して調査に向かったが、そこで同艦が発見したものは長い航跡若しくは油膜のようなものであった。レーダー面に輝点を発見したものの、その後の潜望鏡発見はなく、ソナーには何の反応も出なくなったが、両艦は左右の変針を繰り返して警戒航行を続け、二〇四八にようやく元の基準針路一四五度に戻し、之字連動に入った。

「ニッケル」の艦長ファーマー少佐は「大型潜水艦がソナーの到達圏外、恐らくは東方の海面にいて、そこから攻撃を指揮し、観測していたものと信ずる」と報告した。

「オークヒル」の艦長C.A.ピーターソン大佐は

「潜望鏡と、人間魚雷と見られる未確認物体を発見、二時間にわたる戦闘ののち、これら二隻を撃沈した」とし、また「自艦が敵魚雷の磁気信管に感応しないよう艦体周囲の消磁回路に電流を通したが、その電流を最大に強くしたときに最初の魚雷の爆発が起こった。その電流量が人間魚雷に対して起爆効果があったと推定する」と記載して戦闘詳報を提出した。

林 義明一飛曹は大型艦「オークヒル」を追跡し続け、近くまで迫った。相手は増速したが、航海速力十四ノットから最高速力十五.五ノットに上がっただけである。

しかし、潜航して二十ノット以上で追っても、浮上して五ノットで観測するあいだに離される上、相手が必死になって大角度の転舵をしては艦尾を向けるので、大型艦「オークヒル」への命中、撃沈は遂に果たせなかった。そこへ接近してきた護衛の「ニッケル」に林一飛曹は目標を転換して突撃し、命中した。しかし相手が転舵したためか、角度が浅くなって衝撃力が慣性信管を作動させるには足りなかったのであろう、頭部の一.五五トンの爆薬は起爆しなかった。回天はそのまま僅かの秒時直進して浮上し、自爆した。燃料が既に限度一杯にきて、少しでも敵に近いところで爆発して敵に損害を与えようと判断したと推察される。若しも駆逐艦の艦腹を擦過した瞬間、電気信管のスイッチを押していれば、艦底中央での爆発であるから、轟沈は間違いなかったであろう。しかし衝撃が軽く、命中したと確信できなかったと推察される。

この自爆がたまたま「オークヒル」と伊五八潜を結ぶ線上で起こったため、日本側は潜望鏡で「大型艦が水柱に包まれる光景」を目撃した。命中、従って当然轟沈、と艦長、航海長は信じたのであろう。

「オークヒル」と「ニッケル」の両艦は林艇が一八四二に自爆したあとも略一時間にわたって走り回り、爆雷投下までして回天との戦闘を繰り広げた。そして両艦とも「人間魚雷二基」を撃沈したあと、それ以上の人間魚雷と交戦したと確信している。

しかし、発進した回天は林 義明兵曹の一基だけであった。自爆以後のすべては幻である。姿の見えない海中の敵が如何に脅威であり、混乱を招くか。その典型的な例であろう。

「オークヒル」が所属する第七艦隊の上司であり第一戦艦戦隊を指律したJ.B.オルデンドルフ中将は、この「ニッケル」の報告書に付け加えて

「この新しい攻撃方法は、もしもこの戦争が続くかぎりは極めて重大な脅威となるであろう。この交戦はその優れた実例である」と述べた。

伊五八潜は北上を続けながら、八月十五日の終戦を告げる機密電報を受信したが、艦長は乗員には伏せたまま十七日に平生基地に帰還した。

搭乗員白木兵曹と整備員六人が上陸し、甲板に残った回天一基を陸揚げして、翌十八日呉に回航した。

(小灘利春HPより)

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