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平成22年4月18日 校正すみ

運命のイ33潜と艦長の英断

小西 愛明

引き揚げられた伊33潜 小西 愛明

 山田 穣兄は「海軍と企業経営」でイ53潜が猛烈な爆雷攻撃を受けた時、艦長豊増少佐の名指揮により危地を脱して生還できたと云っておられるが、私は伊予灘で急速潜航中に事故のため浸水沈没したイ33潜から艦長和田少佐(兵61)のご英断によって脱出生還でき、以来今日迄生かざれた人生を送って来た。

 

軍艦日向で任官後、艦長に志望を聞かれ潜水艦と申告して心待ちしていたが、昭和19年5月20日伊33潜乗組の電報を受領し、勇んで呉工廠水雷部前岸壁で乗艦。やがて公式試運転が終って5月31日に第11潜水戦隊に編入され、6月1日から郡中沖を錨地に連日猛訓練が始まった。乗員の練度は急速に向上したが明日は司令官の査閲を受けると云う仕上げの日に最悪の事態が起った。魔の6月13日朝の事である。

 

当日は何時もの通り0600起床、0700郡中沖を出港して伊予灘を西航、0730由利島と青島に囲まれた訓練海域に到着、艦長の「潜航用意」の号令一下、総員潜航部署に就いて試験潜航を行ったが、この時には何等の異常も認められなかった。必ず気密試験を行って水密を確認してから潜航するので、若し、この時にあの事故が起っていたら気密試験で異常を発見して対処でき、浸水沈没と云う悲惨な事故は恐らく未然に防止されていたと思うが、その後の急速潜航時に起った事は、報道関係者達の云う通り天運に見放された魔の潜水艦の宿命だったのかも知れない。

試験潜航に続いて魚雷戦、爆雷防禦等の訓練の後浮上して0750艦内哨戒第3配備(乗員3分の1宛配備に就く)による警戒航行と急速潜航の訓練に移り、水雷長平沢大尉(兵66期)を哨戒長とする1直哨戒員が配備に就き、非番の航海長事前大尉(兵70)と私(砲術長兼通信長3直哨戒長)は司令塔に入り、潜望鏡で島影の方位をねらい、艦位を測定し終った時、哨戒長の「両舷停止、潜航急げ」の号令が聞こえ、総員を配置に就けるベルが艦内に響き渡った。時に丁度0805

主機械(ディーゼルエンジン)がピダリと止って電動機両舷強速に切り替えられると共に艦橋の哨戒員が素早く下りて来てハッチが閉められた。主機械の給気筒(荒天通風筒と通称し艦橋両舷から機械室に至る)と排気筒の閉鎖を知らせる合図の赤ランプが点灯したので「ベント(メインタンクの空気抜き弁)開け」「深さ30、ダウン3度」の号令が続き、潜航横舵は一斉に下げ舵を取り俯角2乃至3度で順調に潜航し始めた瞬間「機械室浸水〃‥」と伝令の非痛な声が伝って来た。瞬時にして艦は急激に仰角に変わり深度計の針の動きが速くなった。この一瞬司令塔内に緊張が張り、皆一斉に艦長を見つめたが、「防水」「ベント閉め」「ネガティブ・ブロー」「メインタンクブロー」・・・と落付いた艦長の号令が次々に下るや平静を取戻し、とに角艦を浮上させるべく応急措置に全力を尽した。水雷長は素早く発令所に下りて濁水と闘い乍ら指揮を執っている。然し深度計の針は下がる一方、艦は急速に落込み、遂に60米の海底迄落ちてしまった。電路短絡の為か遂に電灯が消え、電動機も停止、司令塔内は計器の夜光塗料のみが光っている。懐中電灯を点して下の発令所をのぞくと濁水が機械室から渦巻き流れ込んで乗員を呑み込まんとしているがどうする事も出来ない。遂に無慈悲な様だが司令塔から発令所に下りる口のハッチを閉鎖し司令塔内への浸水を防ぐ他仕方がなかった。

皆の目が奇蹟を待ち望んで深度計を見つめていると、ややあってメインタンクブローが効いて来たのか徐々にではあるが針が上向きに動き出した。針の動きにつれて皆の表情はホッとした安堵の色から驚喜に変わっていった。だが針の動きは20米の目盛附近で止ってしまってそれ以上動こうとしない。然も艦は仰角約30度、どうやら全長103米の艦は尻を海底にくっつけたまま、艦首を海面に少し突出した状態で居るらしい。念の為潜望鏡を覗いてみたが、見えるのは海水の青さだけであった。この間長い様でも5分間位の問の出来事である。この時艦長は航海長に向かって「ハッチを開けるか」と聞かれたが航海長は顔を横に振って総員艦と運命を共にする意志を表明した。私はこの世に生を受けてより足かけ20年間に亘る過ぎ越し方を走馬灯の様に想い回らせていたが、次第に高まる気圧で耳がガンガン鳴り鼓膜が破れそうでいても立っても居られない位に苦しくなって来たので、もう何も考えない事にした。司令塔内粛として声なし。

ビルヂタンクから逆流して来たのであろうかビルヂが潜望鏡筒からジワジワと溢れ出して冷たく足元に迫って来た。潔く天命と諦めよう、思えば短い人生であったなと思い乍らフト艦長をみると、小さな椅子に腰掛けたままジッと何事か瞑想にふけって居られる。さすがは艦長、全くいい度胸と感心したが突然「諸君艦長の不注意からかかる事故を引き越して全く申訳ない。このまま居れば死を待つだけだが、ハッチを開いて脱出すれば10に1つは助かるかも知れない。何れを選ぶも諸君の勝手だ。俺は艦に残るから助かった者は事故の報告をしてくれ」と云われハッチを開いて艦外に脱出する事を許可された。海軍の伝統からすれば大英断だった。斯くて艦内の気圧が更に高まって水圧に抗しきれる様になった処で信号長が「1,2,3」とハッチを押上げ、司令塔内に居た10名余が噴出する気流に乗って次々と艦外に脱出した。時に0830、思えば長い悪夢の25分間であった。

一旦艦橋の天蓋に引っかかったが冷静に明るい方へと手さぐりで進んだ私はやっと抜け出す事ができ、海面へと浮上し始めた。海水の色が明るさを増すにつれて息がつまりそうになって来たがジッと堪えているとやがて海面に浮かび出た。助かったのだ。一天雲無き青空が目に泌みる様にまぶしかった。周囲を見回わすと航海長他約10名近い顔が見える。先ず首に下げた双眼鏡を捨て、靴を脱いで身軽になった。やがて横を通る機帆船を見付け一同声を揃えて呼んだが気付かず通過してしまった。こんな事を繰返していても無駄だと悟り、航海長と二手に別れて近くの島を目指して泳ぐ事になり、私は方位盤長岡田兵曹と電信長鬼頭兵曹と遥か彼方に見える由利島に向かって泳ぎ出し、その他の者は航海長と共に反対の方青島の方に向かって泳いで行く。これが生死の分かれ途となったのだから運命とは不思議なものである。

由利島も眼前に迫り頑張れば何とか泳ぎつけそうだと希望が持てた頃に通りかかった漁船に助けられ甲板にはい上がったが、とたんに腰がフラフラと抜けた様になった。1230頃で、死の脱出以来4時間目であった。

鬼頭兵曹は船べりに手をかけたが力つきて沈みだしたのを船員が飛び込んで引上げてくれたが助からなかったので生存者は2名のみ。

岡田氏は約10年前に亡くなり今や私1人になった。青島に向かった者は行方不明となった。その漁船は鯛漁を終えて愛媛県北条に帰る途中で、先ず身体を温める様にと鯛の吸物をご馳走してくれたが、忽ち元気が回復した位美味であった。さて、船長に簡単に事情を説明して三津浜に寄港して貰い、松山航空隊に電話して迎えの事を頼み、鬼頭兵曹の遺体を同隊に引渡し、呉鎮参謀に電話、事故を報告して救難作業と6艦隊・11潜戦への連絡を依頼した後、松山空の内火艇で長浜沖碇泊中の11潜戦旗艦長鯨迄送って貰った。

長鯨に乗艦すると副直将校は伊集院正年兄で一安心したがその後何かと世話になった。その晩は司令部に詳細報告した後ゆっくりと休息して元気を回復、明くる14日早朝長鯨で現場に急行した。呉空の哨戒機が油の湧出している海面を発見して発煙筒を投下してくれたので、そこに赴き、潜水夫を入れて遂に海底に横たわるイ33潜を発見することができたが、艦内からの応答はなかったと云う。潜水夫が荒天通風筒の頭部弁にはさまっている小円材を発見して事故の原因が判明したが、丸太の切れ端が新鋭潜水艦を沈没させ、約100名の犠牲者を出したのであるから全く云うべき言葉もない次第である。28年に引揚げられ艦内から機関員達の遺書多数を発見、大久保中尉 (機52期)指揮のもとに従容として殉職された態が明らかになったが同中尉の遺書に「訓練ハ確実第一徒ラニ潜航秒時ノ短縮ヲアセルベカラズ艤装関係不良簡所多シ・・・吾ガ遺言ハ之ノミ」と状況報告の他遺族に対する言葉が一切なかった事に深い感銘を受けた。

当時呉から急行して来たクレーンで艦を引揚げ様とした折しも台風並の猛烈な低気圧が襲って来たので遂に救助作業を打切って呉に帰投したが、この時来られた工廠の的場氏が戦後北星船舶と云うサルベージ会社を創業されて昭和28年に引揚げに成功した。現場に面した興居島御手洗海岸に愛媛県や松山市等と協同して慰霊碑が建立され今も地元有志の方々に丁重に祀って頂いている。不運の潜水艦も今では遺族達が毎年慰霊祭に訪れている。

さて、呉では六艦隊旗艦筑紫丸に移乗して事故報告書の作成を行うことになったが、偶々あ号作戦参加中の潜水艦群を陣頚指揮中の司令長官と先任参謀がサイパン島で玉砕された他、作戦中沈没した多数の潜水艦の残務整理で司令部は多忙となり、このドサクサにまざれて何となく一件は落着となった。私は7月15日付でイ121潜の航海長に任命され、結局イ33潜の残務整理は岡田兵曹に処理して貰った。

尚、イ33潜が魔の潜水艦とマスコミに騒がれたのは、昭和17年神戸で新造後ソロモン群島方面の作戦行動を終えてトラック島に帰投した翌日の9月26日工作艦浦上丸に横付けして修理の打合せ中、乗員の不注意な操作から深さ33米の海底に沈没、当直員33名が殉職した前歴があった為で、当時も乗組んで居たと云う1下士官から「砲術長出るんですよ。夜中甲板を歩いていると海中に引ずり込まれそうに感じます」と聞いた事がある。

(平成9年3月20日)

(なにわ会ニュース77号 平成9年9月掲載)

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伊号第三十三潜水艦     http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sub-i33.htm

伊号第三十三潜水艦六十回忌洋上慰霊祭   http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-4i33.htm

   

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