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平成22年4月20日 校正すみ

☆ベニヤボートにかけた青春

豊廣 稔

震洋 豊廣 稔

(前略) 

確認されている震洋の特攻攻撃は2回あった。1回目は、20年2月15日深夜に出撃した。フィリピン・コレヒドールに配備された第12震洋隊の松枝義久隊長以下50隻が出撃、数時間の戦闘の末、敵船数隻を沈めた。そして全員帰らなかった。

それから1カ月半後、震洋はもう一度、最後の出撃を行った。沖縄の金武湾に配備された第22震洋隊(豊廣 稔部隊長ら乗員50人、基地隊員110人)である。

米軍が沖縄本島に上陸して3日目の4月3日夜、豊廣隊長はわずか2隻を率いて金武湾を出た。「湊川沖敵船団を攻撃せよ」との命令だった。

この1月、45隻で金武に上陸した豊廣部隊は、すでにさんざん痛めつけられていた。まず3月14日早朝には、訓練中に敵機に襲われて乗員15人、基地隊員3人が戦死。

27日、初めて出撃命令が出るが、めざす敵がみつからない。29日には隣の井本隊(第42部隊)が出撃するが、敵をみつけるかわりに逆に敵にみつかり、空襲を受けて隊は壊滅。30日夜、今度は豊廣隊が出撃するがこれも空振り。しかもやっと基地にたどり着いたところを敵機に発見されてしまう。20隻が破壊された。

4月2日、3日には、この基地の息の根を止めようという勢いの徹底的な絨毯爆撃。その壊滅状態の基地にまたも出撃命令が出たのだ。やっと出撃できたのは、たった5隻。しかも2隻はエンジン故障ですぐ脱落してしまった。陸上エンジンのため、水をかぶるとすぐエンストしてしまうのだ。

敵艦のUターンが運命をかえた

敵に会えなかったのは、夜になると沖合に避難していたためである。敵はフィリピンの経験から沖縄方面の全艦艇に、「特攻ボートの手引き」といったパンフレットを配り、対策を講じていたのだ。

が、この晩、特攻ボート基地は十分たたいたから大丈夫と判断したのだろうか。外海に出た豊廣隊は約10キロ東に1隻の艦影をみつけ、すぐに接近する。月を背にして絶好の形だった。やがて艦影に約3キロと迫った。駆逐艦らしい。豊廣隊長はついてきた2隻に攻撃を命じた。

「自分は明日残りの艇を率いて出撃するから、一足先に行ってくれ」

「はい。わかりました」

2隻は航跡を残して消えた。豊廣艇は後退して、艦影をみつめた。2隻とも1人乗りだが、2人ずつ乗っている。空襲で自分の艇をなくした者が相乗りしているのだ。1人乗りになにも2人もと思うが、最前線の特攻隊心理とでもいおうか。死ななければすまない。

岩田昭郎艇には中村統明、市川正吉艇には鈴木青松が一緒に乗り組んでいる。なかでただ一人生き残る岩田兵曹の話では、隊長は、

「岩田艇突っ込め。市川艇は戦果を確認せよ」と命じたといい、豊廣隊長とやや記憶が異なる。

(中略)

「指揮官は最後まで生残り、最後に突撃する」というのが豊廣隊長の考えだった。しかし敵艦の撃沈を確認して戻ってきた基地には、すでに米軍の上陸部隊が迫っていた。最後の攻撃は極めて困難とみて、豊廣隊長は基地を爆破。残りの部隊を率いて陸軍と合流。敗戦まで山岳地帯でゲリラ戦を展開、右腕に負傷した。

(中略)

今も生き残った負い目を抱いて沖縄の豊廣部隊の生き残りが敗戦を知ったのは、8月も末近くなってからだった。降伏の勧告を受けた将兵は順次山を降り、捕虜収容所に入った。海で、陸で、豊廣部隊160人のうちほぼ半数の76人が戦死していた。

敗戦のとき、わずか22歳の豊廣隊長の戦後は、限りなく重かった。特攻隊の隊長でありながら、多くの部下を失いながら、自分は生きて帰ったという負い目である。

激戦の沖縄から生きて帰ったことを強運と喜べず、死期を返したことをむしろ悔やんだ。

「こんな自分は、幸せにならなくてもいいんだ」とまで思いつめた。

その感情がやっと整理できたのは、22年後の昭和42年。川棚訓練所跡にできた特攻殉国の碑の除幕式で、涙を流してからだった。連絡を絶っていた部隊の部下と、顔を合わせる決心もついた。生き残りと遺族でつくった戦友会・金武会の集まりも、今年で13回目になる。46年には金武の基地跡に鎮魂碑も建てた。しかし、なお、悲しいしこりは残る。

(後略)

週刊朝日(142147ページ)から転載

(なにわ会ニュース4331頁 昭和55年9月掲載)

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