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平成22年4月22日 校正すみ

米艦隊のパイロット

野村 

バイパス10号の国本兄の手記に終戦直後、東京湾に進駐してくる米艦隊を迎えに行った記事があったが、小生は此の艦隊を東京湾に導くパイロットとして米艦に送られた。

8月15日には大湊にいた。乗組んでいた駆逐艦「柳」は津軽海峡で米艦載機の爆弾により2番砲塔後部からもぎ取られ、修理不能となり、漸く大湊迄曳航されて、処理に付き協議の結果、使用可能の兵器器具を周辺の陸上部隊や艦艇に譲り渡してから、士官は夫々の任地(小生は横鎮付)へ、兵員は呉へ赴くことに決し、その取り外しに大童の最中であった。終戦となっては最早兵器の移管も不用の事、その上色々のデマが伝わって来る。これは一刻も早く横須賀へ赴任して見なくてはと、17日大湊を立って横須賀へ出て来た。  横鎮では新任地の発令もないから一応郷里へ帰っているがよかろうが、郷里が鹿児島だから、もし何かの際出頭を命ぜられた場合、遠すぎるから佐鎮附に変えて貰う様手続するから2、3日待機せよと気を利かしてくれたのが運の尽きで、米艦送りと相なった次第。

米艦隊からの要求は、東京湾附近の水路と防備状況に明るく、航海術に長じ、且、英語の話せる者と云う事であったが、何一つ小生には当てはまらぬ。下手な事をして、日本海軍の名折れになってはと断ったが、何しろドサクサの最中なので、要求の12人揃えるのが中々困難だということで、員数(数を揃えること)の為に無理矢理引受けさせられ、久里浜の防備隊へ赴いた。集った他の人々は殆ど嘗て外国航路に乗っていた高等商船の出身士官であった。

300隻を越える大艦隊が続々と傍をよぎり、先頭は遥か水平線の向うに消えて行くのに反対側の水平線からは、次々に現われて来る。その只なかに木の葉の様に漂う1隻の駆遂艦、まさに断腸の思いであった。

やがて1隻の米駆遂艦が近づいて停止し、内火艇を卸して横付けした。流石に乗員の顔色は真っ青で、拳銃のケースを開けて警戒の色が濃かった。使者に立つ大本営の参謀と我々パイロットはその内火艇で駆遂艦へ運ばれた。

我々の短剣は定められた服装だということで帯びて行ったが、いとも丁重に預けさせられてしまった。とうとう返して貰えなかったが、その他ナイフ等も持っている者は出せとのことであった。

参謀はミズリーへ移された。剣は取り上げられたが、我々の待遇は乗組士官の言を借りれば「頼んで来て貰ったお客様」で、中尉以下の士官は通路で逢えば先に敬礼してくれた。

そして新聞記者を始め、話しかけて来た士官等が先ず訊ねたのが「若し米国が次に何処かと戦争するとしたら、日本はどちらにつくか」という事であった。中にはハッキリ相手国の名を云って訊ねる者もいた。

パイロットは各艦へ分けて移されて行った。小生はもう1人のパイロットと共にサンジェコという巡洋艦に移され、その夜は相模湾に假泊することになった。艦隊は厳重な灯火管制をし、警戒配備に付いていた。8月の艦内は暑い。我々は甲板へ出たいと申し出た。岸と反対側の甲板に居ること、岸と合図等しないことを約束させられて上へ出た。

湾を取り巻く街々の灯は一きわ美しく見えた。スピーカーから艦内放送が流れる。「吾々は1万浬の波涛をのり越えてついに此処迄来た。今我々が停泊している処は、日本の相模湾である。向うに見えるのは日本の灯である。・・・その夜は暑さのせいか、番兵が交替の度に度に持って来てくれたコーヒーのせいか、眠れなかった。

翌日は快晴であった。小生は煙突に黒猫の絵を描いた駆遂艦へ移された。その艦で輸送船を5隻誘導して横須賀へ向った。湾口にかかると総員配置につき、実弾を装填。始めて海図と首っぴきで入った可航水路だったが、天候に幸いされて、どうにか無事任務を果すことが出来た。

数日して、又別の駆逐艦に乗せられた。その艦は8人位のパイロットを乗せて、湾の入口附近を行きつ戻りつ、任務は湾口の哨戒と東京湾へ入る艦へのパイロットの補給であったらしい。

小生には3日目に口がかかった。米本国からやってきた戦艦ヴェストパージニアだった。天候が悪くモッコで移る時には相当に飛沫を浴びた。3日間、黒人のボーイをつけて貰って安楽にゴロゴロして、哨戒艇の位置も確かめていなかった罰で、戦艦に移ったが、さてどの辺を走っているのか、両半島は雲霧に閉ざされて、咄嗟に判断出来ない。

同艦の航海士が引いている航路は指示された地点へ向ってはいるが、昨日から天気が悪く、推測航法で来ている筈だから、実際には誤差がある等、可航水路の幅は800米、1浬の誤差があったら大変なこと、まず戦艦の高い艦橋に位負け(大きな戦艦には馴れている筈だったが)した上に、艦位を自分で確認出来ぬもどかしさで、一時は全く途方にくれた。

微かに見える両岸がどうも同じ距離の様な気がする。・・・とすれば機雷原の真中に乗込むことになる。微かにそれとおぼしき三浦半島側の灯台を、コンパスが高いので猿みたいによじ登って、大まかにトランシットをとって見ると、やはり大分右に寄っているようだ。

だがそんなあやふやな艦位で針路を変えるわけにも行かぬ。水路の入口に敷設したブイを探そうとするが、一面に白波でなかなか発見出来ぬ。満身冷汗だ。愈々一旦引返してやり直そうと考えた時、待望のブイを発見したと同時に、天の助けか鋸山の頂上附近だけ雲が切れた。左に40度も変針しなければならない様になってしまった。

水路を抜けると御用済、艦は羽田沖迄入るので、艦内を眺めて時間を潰す。やがて入港作業が始まる。油の沁みた太いワイヤーをエツサエッタと引き廻している傍でトランプの賭をしている一団がある。旧甲板士官には奇異な眺めである。入港作業をせっせとしている連中を誰も追い立てている者もいないようだ。彼等の規律は一体何で維持されているのだろうかと考える。

まだ色々な事があったが長くなるので、小生の体験はこれ位にして、最後に当時の1有識米軍人の日本観というか、日本に対する警告というか・・・それを書いて置きたいと思う。

それは或るパイロットが巡洋艦シカゴの副長に云われた言葉だが、

「私が日本で感心した一つに、こんなのがある。それは省線のホームで日本人が大人も子供も先を争って、四つんばいになって拾うのを面白がって黒人兵がチョコレート等をまき散らしていたが、それに対して一人の若い男が階段を数段かけ昇り、貴様等はそれでも日本人か・・・と涙を流してドナッテいる姿を見たことである。・・・我々は100米のレースで抜きつ抜かれつ競争して一歩早くゴールに入った丈だ。

顧みる時好敵手であったと考えている。日本は4等国になったと云われるが、日本人は決して4等国民ではない。矢張り1等国民であるということを忘れないで欲しい。アジアを指導し得るのは日本人しかないのだから…。」

だが、自ら4等国民になり下った日本人が如何に多かつたことか。

(なにわ会ニュース1111 昭和42年5月掲載)

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