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平成22年4月23日 校正すみ

駆逐艦「天津風]

山元  奮

天津風への赴任

昭和191024日、シブヤン海で乗っていた戦艦武蔵沈没、コレヒドール島で戦闘詳報その他の残務整理が終わり.台湾の東港経由、佐鎮付となって内地に帰投したが、昭和20年2月初め、シンガポール在泊中の駆逐艦天津風の水雷長に発令されて再度南方に行くことになった。

当時、天津風は比島方面で敵潜レッドフインの雷撃を受けて、前部が破損分離し(岡田清君戦死)、艦橋付近から後部のみが残った状態で漂流中を発見され、曳船2、3隻の曳航でサイゴンに到着、応急修理を施して永福丸に曳航され、シンガポーのセレター軍港に入港していた。

天津風への赴任は台北までは旅客機、そこからシンガポールへは敵の勢力圏になるので、便が無く台北で待機中に、北方から南方に移動する第1駆逐隊(野風・神風)が基隆に寄港したので、南方へ行く約50名は、2隻に分乗することになり、私は神風に乗艦した。

しかし、2月20日、仏印のカムラン沖で敵潜に遭遇、攻撃を受けて野風は沈没、南口喬君が戦死した。その2月20日は、また、コレヒドールが米軍の手に落ち、中島健児君や松枝義久君が震洋隊長として戦死している。

 前年10月末(武蔵の残務整理中)同島で中島君に再会し、大いに語りあったのであるが。

3月、私は駆逐艦神風でセレター軍港の天津風に無事着任することが出来た。

艦長は、森田友幸大尉(68期)先任将校は小川治夫大尉(70期)であった。乗員は200名、内地回航の準備も終了して3月19日、1300に出港した。

 

ヒ88J船団

その時の船団「ヒ88J」は商船さらわく丸(5135トン)、鳳南丸(5542トン)、 阿蘇川丸(6925トン)海興丸(950トン)の4隻と、サイゴンに行く天長丸、荒尾山丸、サイゴン丸の3隻。合計7隻で、護衛兵力は、海防艦(満珠、1号、13号、18号、84号、134号)及び天津風の計7隻、船団部隊の指揮官は平野泰治中佐(52期)で海防艦134号に乗艦していた。

船団が出港すると間もなく、さらわく丸が触雷沈没した。船団は速力7節で航行、3月24日、仏印のカモ岬に錨泊。260600、サンジャック沖でサイゴン行きの天長丸、荒尾山丸、サイゴン丸3隻を分離した。ここで駆潜艇(9号,20号)が加わったので船団は船舶3隻、(鳳南、阿蘇川、海興)と護衛兵力9隻、計12隻の集団となって北上した。

 28日、ツーラン付近で敵機の攻撃を受けて阿蘇川丸が沈没し、さらに鳳南丸が潜水艦の雷撃を受けて沈没し、船団は海興丸1隻となった。29日海防艦84号沈没。同昼ごろ海興丸が沈没して更に1330頃、海防艦18号が沈没。残るは天津風と4隻の海防艦(満珠、1号、13号、134号)、2隻の駆潜艇(9号、20号)の計7隻となった。

香港入港後の4月2日、新たに編成された船団「ホモ03」の船団会議が行なわれて、輸送船甲子丸(2193トン)第二東海丸(839トン)を護衛して4月4日1730香港を出港することになった、

だが、前日の4月3日の空襲で海防艦満珠は港内で沈没、残る護衛艦艇で4日出港、海岸線に沿って北上したが、連日連夜のBー25の攻撃を受けて、遂に天津風も4月7日、アモイ沖で被弾大破した。

 アモイ特別根拠地隊の救援で上陸後、艦長は戦死者36名の合同葬を行い、支那方面艦隊司令部付となって、上海に先行、我々は駆逐艦蓮(艦長堀之内少佐)に便乗して、上海経由それぞれの任地に向った。アモイでは杉田繁春君が第108震洋隊隊長として進出しており、アモイを去るまで大変御世話になった。 

 

(なにわ会ニュース8320頁 平成12年9月掲載)

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