TOPへ    戦没目次

平成22年4月29日 校正すみ

72期と27

  三輪 和子

野村  繁 矢尾 正衛



 奇しくもこの文字をテーマにしようと決めたのは、紅葉をめでながら大船観音の坂道を歩いている時でした。一緒にいた夫に「
72期と27期」に決めたわ、どうして今まで気がつかなかったのかしら・・・・」と言ったのです。

 かねてから海軍兵学校72期で、私の小学校同級生であった二人の方、野村繁中尉と矢尾正衛中尉について書きたいと話していたからです。

 それは私が女学校27期なのでこのひらめきは観音さまのおみちびきのような気がしました。あちらこちらの観音さまにはよくお参りしていたのですから、御利益があったのかもしれないとニワカ信者は勝手なことを考えて笑ってしまいました。

 今までずっとこの文字が結びつかないまま、戦死された両中尉のことを、どのように書けばよいかと思い続けていたので、作文の糸口が見つかった思いでした。

 両中尉と同級であったのは金沢市立石引町小学校でした。当時は四年生から男女別の組でしたので、親しく遊んだのはわずか3年まで、記憶に残る年齢ではありません。

 小学校の思い出としては中学校受験の頃、お二人は腕白妨主のグループではなく、級長、副級長でした。

 女子組の級長になれなかった私としては一目おく存在だったわけで、小学校を終えてから私が入学したのは、石川県立金沢第二高等女学校といういかめしい名。まさに官製そのもののムードで、当然ここに学んだ生徒はマジメ、コチコチ、ガリペン、テントリ虫が多かったのです。

 しかし私も含めてのんびり屋も少しはいたことは美点?かもしれないと後年思うようになりました。

 両中尉は石川県立金沢第二中学校に入学、私とは通学路が同じ方向でしたから、何回かは会っていたでしょうが、男女七歳にして席を同じうせずという時代のオカタイ校則でしたから、お互いに視線もあわさず歩いていたのでしょうか・・・・・。

 今から思えばなんとまあ味気ない。こんな不自然なことはいけないと、学校に対して文句のひとつも言えなかったことがくやまれます。しかし、当時は三歩さがって師の影を踏まずでしたから仕方のないことでしょう。

 女学校を卒業した頃、風の便りでお二人が海軍兵学校へ見事合格されたことを知りました。しかし残念なことに、あの現爽とした短剣、白手袋、錨マークの軍帽スタイルのお二人にお目にかかる機会のなかったことはかえすがえすも悔しい思いなのです。

 特に野村中尉の家とは近くでしたから、思いきって小学校の同級会でも開いていれば、もうウルサイ女学校の校則にしばられることなく話し合えたでしょうに・・・・・。今や青春の思い出となる形は何ひとつなく、愛惜の思い

のみ深くなります。                     

 私が両中尉について折りにふれて話しておりましたから、中学校の先輩でもある夫は、「逗葉水交会の左近允君が72期だから聞いてみよう」と、珍しく私の為にのり出してくれました。

 後日、夫が左近允尚敏様から戴いたお便りに、両中尉戦死当時のことが書いてありました。

 野村 繁中尉  昭和19619日 サイパン沖、「翔鶴」にて戦死

 矢尾正衛中尉  昭和20414日 九州南東海面にて戦死、佐伯航空隊

 

 卒業の門を出て即、命をかけた戦場へ向った・・・・。楽しく語り、美しいものを見ることなく、ただただ困難に立ち向かっていった人生は哀惜のきわみです。

古稀に近くなった私には、戦死者の多くの青年達は、今や息子よりも孫に近い年齢になってしまいました。

 厳しい訓練と学びの兵学校! 今ここに、小学校での学びの友であった両中尉と共に、散華された青年達の御魂安かれと祈念するばかりです。

 72期と27期のつながりは、私にとって不思議な、そして心情的にいとおしいものとなりました。

 桜咲く頃、私は何回も出かけている靖国神社へ、特に思いをこめて参拝したいと思っております。       (逗子市在住)

(左近允 注 本稿は雑誌「東郷」の平成四年三月号に掲載されたものであるが、本人及び発行所の了解を得て、一部修正して転載した。筆者は66期三輪勇之進氏夫人)

 

(なにわ会ニュース67号24頁 平成4年9月掲載)

TOPへ    戦没目次