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平成22年4月29日 校正すみ

平成15年3月寄稿

あゝ偉丈夫たりし!山崎州夫君

編集部

 州夫君は父上貞吉氏の貿易商社(日商岩井の前身)勤務の都合、中国福建省温州にて出生。昭和七年上海の小学校二年の時、上海事変の難を避けて、東支那海を越えて帰郷、喜入小に転入、園田正作君はじめとするわれら在来派の友となる。ところが、言うこと、なすこと、すべて郷党地ゴロのわれらと違い、一風変わった国際派。頭はずば抜けて切れる。それだけで充分なのに、体はでかい。暴れる。暴れる。とかく転校生のいじめられる当節と違い、たちまち悪童連の旗頭。家が近かったせいか、よく一緒に帰った。

 校門下のお医者さんの垣根越しに垂れ下がったビワを見るや、「おい、亀井ちぎれ」 おとなしかった僕は言われたとおりちぎって全部差し出す。それを僕には呉れもしないで一人だけでムシャムシャやりながら歩く。発覚して担任に呼び出され、大目玉くったのはちぎった僕だけ。小生、小学二年の時の悲劇であった。

 まもなく、上海事変が起こり、上海に帰る。まさしく、風のごとく喜入に来て、風のごとく喜入を去った。

昭和十二年春、岡田正作君と僕は憧れの一中に合格。入学式の早朝、一番汽車に乗るべく喜入駅に駆け込んだ僕と岡田君はびっくり仰天。一中ピカピカの制服制帽に身を固めた忘れもせぬ州夫君が悠然と腰かけているではないか。上海にいる筈(はず)の州夫君が!

 問わず語りに事情は判明。当時上海には商業学校はあったが、普通中学校はなかった。小六のとき、上海一の健康優良児に選ばれ表彰された州夫君は一念発起、余勢をかつてまた東支那海を越えてきて、ふるさとの一中を受験合格したのである。再会に小躍りしたわれら喜入の新一中生三人、白風呂敷の結び目を触れ合うごとく同体同行の汽車通学を始める。ところが、昭和十四年三年生になるや、また、突如として州夫君がいなくなった。上海に帰ったのではない。鹿児島造士会の舎生に合格。そこから通学始めたのである。

四年で海兵に合格。海兵では体大きく、相撲係。相撲・射撃・短艇の三部門とも優勝。メダル三個胸につけた写真も、今残っている。(メダル一個とるのが至難のわざと聞く。)

 昭和十八年九月海兵卒。任官、航空に配属。北海道千歳航空隊に戦闘員として赴任。次いで神風特攻隊員。神風特攻隊の本拠地フィリッピンのクラーク基地にあり、特攻機護衛の時、被弾大やけど。撃墜され落下傘降下、陸軍に救出され、神風特攻隊に復帰、次いで台南の航空隊に転じ友軍護衛の帰途、飛行場の上空にて散華。敵弾心臓を貫徹と聞く。時に昭和二十年四月三日。弱冠二十歳と十ヵ月。

 もし、仮に、武運彼に組して今ありとすればいかに、驍将(ぎょうしょう)金丸氏にとってかわり政財界をゆるがすか。はたまた、赤い夕日に照らされて疾駆する上海の虎(はりまお)か。

さもあらばあれ、ここにその冥福を念ずるや切。

  (備考)

 この記事は山崎君の母校鹿児島一中のクラス会誌にあったもので、左近允尚敏君の知人、川井田勝氏(78期)から送られてきたものである。この文章は山崎君の級友亀井秀隆氏の投稿であり、海兵時代のことは山崎君の令弟繁氏の口伝である。なお、文中出てくる園田正作氏は74期として入校され、左近允尚敏君と同分隊であった。      (なにわ会ニュース89号78頁)

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