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平成22年4月24日 校正すみ

サイパン島に兄を偲ぶ

横川 康春

潮気の強いことにかけたら、他に追従を許さないことを自他ともに認める『井上 旦』(七七期・元空将補・・・彼は栄光ある海軍兵学校のアンカーであることを心底から誇りに思っており、またそのために日夜励んでいます。今やその知友の範囲は、国内だけに留まらず、アメリカを始めドイツ・ヨーロッパ等国際的になっているようです。)から七月のある日

 『上原あ、お前「韓国」なんぞえ行く暇があったら、なんでサイパンヘ兄さんの慰霊に行かんのか・…・・。』と一喝され

 『う−ん、行きたいのは山々だけど、どうもおっくうでなぁ・・…・』

 『な−に、何がおっくうなもんか、サイパンなんか簡単なことだ、何なら俺が付いて行ってやろうか。』

 『え−、お前が一緒に行ってくれるんか・・・・。ふん なら、是非連れていってくれえや。ついでに、俺の姉も前々から行きたがっとるけぇなぁ。これも連れて行ってやってくれぇや。』

上原 庸佑

 『そんなこたぁ、お安い御用だ、何人でもえ−ぞ。』 といった按配で、急遽(九月一日〜四日)亡姉の息子(甥)も含めた一行四人で、サイパンヘ兄・上原庸佑の菩提を弔いに出掛けました。

 説明旁々、現地でお世話になった「ヨネコさん」に出した礼状を紹介させて頂きます。

 

このたびは私達のために、心のこもったご案内をしていただきまして、本当に有り難うございました。

 あのおり、少しお話をしましたが、このたび私達が「サイパン」をおとずれたのは、私の兄が一九四四年、この地で戦死しておりまして、一度、現地をおとずれて霊をなぐさめたいという願いを、亡き父母をはじめ、近親者の皆が長年の問いだいていたのでしたが、五〇年目のこのたび、生存している妹と弟(わたくし)そして、その縁者たちがそろって出掛けたのでした。

兄は海軍兵学校(Naval Academy)を卒業した海軍少尉でした。国のために命をささげることを本分とする軍人でしたから、あのはげしい戦の中で立派に戦ってくれたとは思っていますが、やはり人間である以上、あの絶望的な戦の合間には、故国や故郷のこと、自分を愛して育ててくれた父母のことなど、いろいろと想ったであろうと思いまして、あの「バンザイ・クリフ」や「ラスト・コマンド・ポスト」に立ったとき思わず涙が流れたのでした。なにぶん、当時の状況など何もわからず、せめて彼が亡くなったサイパンの地を踏めることだけで満足に思っていたのですが、あなたから    

 『海軍の五五警備隊の本部跡は、私の家のすぐ近くにあります。もし望まれるならば案内してあげますよ。』
と言われた時は、余りにも予想外のことでしたので、にわかには信じ難い気持ちがしたことでした。

 でも、あなたが自家用車で迎えに来てくださり、あなたの家の横を通り、農園を通り、ジャングルを山刀で切り開いて案内していただいた洞窟にたどりついた時は、まるで夢のようでした。そして、生前の兄が何日も過ごしていたところに現に来ている・・・・ということが、真に奇跡としか思えませんでした。

 あの山腹の横穴壕が、五十年の歳月がたっているにもかかわらず、まるで昨日のことのような生々しさで、そのままに残っていたことも感銘深いものでしたし、入り口付近におびただしく散乱していた『マイマイ』の殻も、当時の生活の跡そのままで感無量でした。

 実は、『戦跡めぐりの観光バス』で島内を一周した後で、地図であらかじめ調べていたホテル(サイパン・グランド)の近くの「日本人戦没者慰霊碑」で、私達だけでゆっくりとお参りをする積もりでいたのでしたが、私達にとって思いもかけなかった、生前の兄が居たであろう場所(恐らく探すことは不可能としてあきらめていた・・・・)へご案内頂いて、兄の霊もさぞかし喜んでくれたことと思います。また、亡くなった父母や従兄もさぞ喜んでいることでしょう。

 あなたも見て下さったように父母の写真や、生家の水。また生家でとれた梨や地酒、そして同行してくれた中学・兵学校後輩の私のの友人(元空将補・Airfare General)がわざわざ母校の江田島から取り寄せてくれた「江田島羊羹」などをお供えして冥福を祈った次第です。

 立ち去りがたい思いを断ち切るように洞窟に向かって思わず『帰るぞ・・・・』と大声で叫んでしまったのでしたが、兄の霊がそこにいて聞いてくれたように思いました。

 そして、兄も歩いたであろう洞窟の入り口付近の小石を沢山拾って持ち帰り、父母の墓にお供えしてこの度のことを報告しました。

 そして、兄の墓にも納めてやりました。

 後でお宅の農園で休憩の時、惜しげもなく幾つも割って飲ませて下さった「ヤシの実のジュース」の味も忘れられません。

 今まで人から話を聞いたり、本で読んだりしていたのでしたが、実際に味わうことが出来まして、ジュースがあんなにも美味しいものだとは想像も出来ませんでした。本当に御馳走様でした。

この度のことを考えますと、まず、あなたが私達のバスにガイドとして乗っていらっしゃったこと。そして、今までも含めた大勢の観光客の中で、私達だけがあなたの目にとまった「海軍五五警備隊」関係者であり、あなたが長年のあいだ閉ざしておられた、本部跡へ案内して下さるような気持ちになって頂けたこと、また出発前から不思議な偶然のことが続いたりして、そのような一連のことなどをつなぎ合わせてみまして、これはきっと兄の霊がこのように導いてくれているのでは・・・と、皆で話したことでした。

 そして、兄をはじめこの戦争で亡くなった大勢の方たちの霊魂が、今もなお、私達のみならず、この日本の国を見守ってくれているんだなぁという思いが、ますます強くなってくるのでした。

 あの北端の崖から太平洋を眺めますと、海は哀(かな)しいまでも蒼(あお)く、空も深く蒼く、はるばると日本に続いていました。

 五十年前に思いをはせ、命を落とされた大勢の人達のご冥福を心からお祈りすることが出来て、本当に良かったと思いました。

 そして、あなたのご親切なご案内を、深く深く感謝します。本当に有難うございました。

 ほんの、私達の感謝の気持ちとして、ささやかな品を送ります。これらは鳥取の民芸品ですが、時には眺めていただきまして、私達のことを思い出してくださいますれば、幸せに思います。

 あの時の写真も数枚同封しました。

あなたと、あなたのご家族の上に、神様のお恵みがありますように・・・・・。

ごきげんよう、さようなら。

 

PS                                             同行した姉も″このたびのことは、一生忘れることができません、くれぐれもよろしく・・
“と申しております。

 一九九四年九月十一日

            横川 康春 拝

 

 この手紙を少し補足しますと、

 @ この場所は「ガラバン」から少し山側に入った、「彩帆・香取神社」の裏約1km位の所にあり、海岸から精々二〜三kmの所ですから、米軍が上陸した直後に撤収したか、或いは程なく全滅したものと思いました。

A 何故ここが『五五警』の跡かと言えば、「ヨネコさん」 の言によれば

 もう四〇何回もサイパンに来ている、名古屋の元海軍落下傘部隊の人を案内したところ

 『私は、もう四〇何回もサイパンに来ているが、こんな壕が、こんなにそのままの姿で残っていようとは初めて知った。ここは海軍の第五五警備隊が居たところです。』と言って、大層驚いて居られたとのことです。

 この落下傘部隊はセレベス島の『メナド』を攻略した精強をもって鳴る『横須賀第一特別陸戦隊』であろうと思いますが畏友の「井上 旦」の調査資料によると

 司令は五六期・唐島辰男氏、ちなみに同隊には

  六六期・村上 竜二、六七期・斉藤  実、六人期・竹之内光男、

  七一期・西山 亮次、斎藤 実、柳生喜代治、和久利芳夫

 の諸氏が居られ、いずれも六月十五日、十六日に「戦死」となっています。

 六月十五日は米軍がガラバンの約五キロ南、ススペ岬付近のオレアイ地区(米海兵隊の上陸記念碑が立っている)及び、少し南の「チャランカノア」の二ケ所から上陸した日です。サイパン戦では、この水際戦が最も大きな戦果を挙げているようですが、この・『横一特陸』の勇戦ぶりが偲ばれます。

B 別の資料(玉砕しなかった兵士の記録)の地図によれば、この洞窟のあたりは「集成大隊」の陣地場所となっており、六月二十六日・米軍進出線の付近です。

 「集成大隊」というのがどのような部隊であったのか判りませんが、兄の気性として、逃げ回ったとは思われませんので、十五日から二十六日頃までに戦死を遂げたのではなかろうかと思いたいのですが・・・・戦死公報では七月八日付となっています。

 小島のぼる氏著…・・・太平洋戦争(中公新書下)によると、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将及び陸軍の第四十三師団長・斎藤義次中将等は七月六日に自刃され、残った陸海の兵士達(約四、○○○名)は7日払暁に海岸寄りの道をガンパン方面へ「バンザイ突撃」を行って玉砕しています。

 倒れても、倒れても、押し寄せてくる日本軍に米軍の第一線、第二線は突破されバニックを起こした米兵は、恐怖のあまり海に飛び込んで、沖合の駆逐艦まで泳いるようです。

 C 私達の泊まったホテルは「ススベ」の海岸に建っており、裏庭からすぐに『珊瑚礁』に囲まれた、波静かな内海の波打際まで行けまして、五〇メートル程沖に米軍の戦車の赤錆びた砲搭が海面から出ていました。

 今は現地人の子供や海水浴客の絶好の休み場になっていて、砲搭にのぼっては『キヤツ、キャッ』と戯れていました。またそこかしこに上陸用舟艇の赤錆びた残骸が海面から覗いていました。

 グァム・サイパンは、日本から3時間ちっとと手軽に行ける(アメリカ)ということらか、何処に行っても日本の若いカップルやグループが目につきましたが、かつてここが日米の兵士が血を流した悪夢のような戦場であったことなどは、想像もできないことかも知れません。平和は本当によいもの、有り難いものだとしみじみ思いました。なお、ヨネコさんは昭和23年東京京生れの日本人です。

(なにわ会ニュース72号35頁 平成7年3月掲載)

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