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平成22年4月27日 校正すみ

平成元年3月寄稿

園田 勇君と神風特別攻撃隊金剛隊回想

青木 泉蔵

昭和十九年十二月中旬、四国松山基地に於いて、兵学校七十期の青野 豊大尉を長とし、戦爆連合数十機より成る神風特別攻撃隊が編成された。 どのようにして隊員の人選が行われたかは記憶がありませんが、私達の同期生では園田 勇、藤田 昇両君がその編成に加わり、予備機空輸要員として阿部宏一郎君が彗星艦爆四機、私が零戦四機を引率して随行しました。

昭和二十年に入り、特に沖縄戦になってからは、語弊があるかも知れませんが、極くあたりまえのようになっていた特別攻撃ですが、当時としては未だ初期の段階であり、松山基地内は相当に興奮の状態になっていました。そして編制されてから出撃までの期間が約一週間位あったように記憶していますが、長すぎたように思いました。それで、編制当初の緊張感が薄れ始めた隊員の中に軍紀を乱し、半ば自暴自棄になって暴力を振う下士官や兵が多数現れ、残る隊員達も恐れをなすに至りました。

当時、衛兵副司令だった私は、奥海 真(飛行隊士)、茂木 允(甲板士官)両君と相計り、目に余る状況にある特攻隊員の軍紀粛正について、その方法を検討しました。

後に残る者が特別攻撃に赴く者達を修正することは、如何に上官といえども、実際問題として相当に勇気の要ることでもあり、又好結果を得ることは至難の業と思われました。

その時、私達の相談を誰からか聞いたらしく藤田君がやって来て、「それは特別攻撃に行く俺達がやろう」と言ってくれました。私の調査したところでは、暴力下士官兵の大部分が園田君の指揮下に入る隊員達でしたので、園田君にもこの件についてお願いをしましたところ、即座に 「よくわかった、心配をかけて済まなかった」と心よく返答してくれました。然しながら私達残る者は心苦しく感じていました。

彼が部下に対しどういう訓戒をしたかは知りませんが、翌日から特別攻撃隊員の態度が急変して、以前同様に厳正になったのに、お願いした私達は呆然としてしまいました。そして、整然と出撃出来たことに関して、彼の偉さを痛感した次第です。

藤田君が熟知のことで、重複するかも知れませんが、以下、神武隊(比島進出後金剛隊に隊名変更)の出撃について申し述べます。

終戦時、命令により航空手帳を焼却してしまったので、はっきりとしたことはわかりませんが、十二月二十日頃松山基地を発進、沖縄経由、クラーク行きの予定を天候不良の為変更し、上海に向いました。全機無事に飛行場に着陸。上海の航空基地では飯野伴七君他数名の同期生が迎えてくれました。上海航空隊のご厚意によりバスでガーゲンブリッジを渡り、フランス其他の祖界跡を車窓より見学後「大和屋」という日本人経営のレストランで饗応を受けました。

翌朝発進予定のところ、松山よりはるかに寒い上海だった為、エンジントラブル機が続出した為発進は一日延期、翌々日になりました。

上海発、進路は真南、春の季節の台中着、会敵に備えて燃料を補給した後、台中発。進路同じく略真南、気温次第に高く、下着を脱ぎながらリンガエン湾上よりクラーク基地へ向い、敵襲直後らしく地上で炎上する数機のあるマバラカット西飛行場へ着陸する。地上整備員の誘導に随い搭乗機を高く繁った竹やぶの陰にまで滑走させて行くと真黒い顔がニコニコしながら近づいて来ました。見ると兵器整備の森山修一郎君でした。其の夜、薄暗い灯火の指揮所の中で比島戦線の現況その他について、二〇一空玉井司令、中島飛行長から説明がありましたが、私達空輸員は翌朝ダグラス輸送機で帰途についたので、その後のことはよくわかりません。

以上、記憶を辿って記述しましたが誤りが多々あるかも知れません。あしからず御了承下さい。

最後になりましたが、園田君のご冥福を心からお祈り致します。

(なにわ会ニュース60号20頁)

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