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平成22年4月27日 校正すみ

昭和49年9月寄稿

無名の碑(清水 昭著)を読んで

押本 直正

                     おじさんのほうし   

            四年 清水 徹

おじさんのぼうしはこん色で  ひさしがピカピカに光り 大きな桜とイカリのき草がついている

昭和十九年 特攻隊になってフィリピンへ出発前に送ってきたそうだ

去年 物置で見つけた お父さんがくれた 

ぼくは それをだいじにしまいときどき かぶってみる

おばあちゃんがなくなってからおじさんの話をするのはお父さんだけになった

おじさんは 海軍少佐 清水 武  おはかは山口にある 


 清水 武君の弟、昭氏が書かれた無名之碑の巻頭には、昭氏の長男(武君の甥に当る)徹君の詩が掲げられてある。

勿論、徹君は伯父の武君を知らない。しかし、毎年六月、靖国神社で行なわれる参拝級会のあとの懇親会で、元気一杯「同期の桜」を歌ってくれる、クラス会のアイドルだ。

 著者、昭氏は武君とは五つちがいの弟、武君が一号のとき(昭和18年)、広島陸軍幼年学校に入った。

さて、「無名之碑」は、つぎのような書き出しで始まっている。

 

 海軍中尉清水 武。海軍兵学校七十二期。

大正十三年(一九二四年)八月十四日、山口県山口市(当時山口町)に生まれ、昭和二十年四月一日朝、神風特別攻撃隊第一大義隊を指揮、沖純県宮古島南方海上のイギリス艦隊(空母四、戦艦二基幹、H・B・ローリング中将指揮、第五十七機動部隊) に突入、戦死した。行年二十二歳。正確には二十年七カ月と十四日の短い生涯であった。

 清水武は、山口中学四年から兵学校に入った。小学・中学校を通じて、一年先輩の中西達二と共に山口駅を出発、江田島に向った。兵学校における彼の生活は、読者諸兄ご存知のとおり。体操特級、水泳特級、一号時代は13分隊伍長補として、短艇係をつとめた。18年9月、兵学校を卒業した彼は、飛行学生として霞ケ浦航空隊に入り、練習機教程を終ったあと、戦闘機操縦者としての訓練を、神池航空隊で受けた。19年7月、飛行学生教程を修了したあと、神池空教官として後進を指導。19年12月、晴れの出撃。台南で特別攻撃隊の訓練を受ける。20年の元旦をルソン島で迎えた彼は、フィリピンにおける海軍特攻隊の戦闘記録を内地に空輸するという任務を帯びて、1月8日マバラカットを出発。乗機彗星が高雄の山に衝突、操縦員は戦死。後席の彼も重傷を負ったが、高雄海軍病院に収容され治療。3月下旬、米軍沖縄に上陸開始。負傷の完治していない彼も、再び戦列に復帰。そして冒頭に書いたように、4月1日、20歳7月の生涯を閉じたわけである。

 「無名之碑」は、このような清水武君の短かった青春を、肉親の弟さんが淡々と、しかも、愛情をこめて書き綴っている。

全文、四万六千字。その全文を掲載する余裕がないので、原文の味わいを損なうことを知りながら、あえて、とくに印象的な部分を転載させてもらうことにしよう。

×   ×   ×

戦死の公報は、日本の降伏によって戦争が終った三カ月後、十一月の末に、何も知らぬまま彼を待ち続ける両親の許に届いた。

戦死の日から半年以上も遅れているが、それは彼の所属が台湾の第一航空艦隊であったためだろう。ともあれ彼の家族達は希望を打砕かれると共に、彼が特攻隊員として1家族に対してそれと想像させるような片言も残さず逝ったことに、少なからぬ衝撃を受けた。同時にまた、そのことが家族全員にささやかながら抜き難い誇りの感情を抱かせたことも確かだ。

 彼の母は座敷の床の間に小さな壇を設け、そこに息子の遺影を飾った。二年前にもう一人の息子の遺骨と写真を飾った同じ壇である。粗末な額の中はキャビネ版の素人写真で、彼が茨城県神ノ池の教育航空隊に在った頃の撮影だろう。零戦の機首を背景に、飛行服姿の若者が陽やけした童顔をやや斜に見せて立っている・・・・。

×   ×   ×

 二十五年の法事も終って更に二年ばかり過ぎたある夜、東京世田谷の家で独酌を楽しんでいる彼の弟の側に、小学枚二年生になる次男が正座して問いかけた。

「お父さん、清水武さんのお墓ってどこにあるのかな」

「それ聞いてどうするんじゃ」

「こんどおまいりに行こうと思って」

少し酔いの回って来ていた弟は

「海軍野郎に、兵隊にお墓なんかあるか」

と、思わず怒鳴るような大声を出した。

「海行かは水漬く屍という歌を知っているか」

「知っている」

「その歌のとおりじゃ。つまり海がお墓なんじゃ。どこでも海を見たときに、あいつのことを思い出してやりさえすりやそれで良えんじゃ」

「フーソ」

×   ×   ×

 卒業の前月 即ち昭和18年8月、彼は江田島生活最後の休暇で山口に帰省した。

(中略)

 この休暇中、彼は母親に自分が飛行機に乗ることを話し、多分余計な取り越し苦労を封ずるつもりだろう、があらゆる乗物の中で最も安全なものは飛行機であることをくどいまでに説明して聞かせたらしい。しかし、今更親が反対してみたところでどうなるものでもなかったし、第一両親共に反対する気持など初めから無かった。又、自分は長生きしようとは思わぬから、もし早く死んでも嘆かないでくれとしきりに念を押した。親の悲嘆だけが気がかりだったと見える。休暇が終り、彼は再び江田島に戻った。家族全員が例の如く駅まで見送ったが、弟にとってはこの時が兄を見る最後になった。

×   ×   ×

 新候補生は総員皇居に参内して天皇に拝謁するという慣例があった。七十二期候補生の拝謁の前夜、彼は土浦から酒一升を提げて上野駅に着き、当時千駄木町辺に住んでいた従姉の家に向ったが既にひどく酪酎していたために、どうにか辿りついた時は泥まみれの姿だったという。汚れた服から手袋まで、全部を洗濯した上アイロンかけまでして翌日の拝謁に間に合わせるのに、従姉と伯母の二人で夜中大童の作業を余儀なくされたが、それ程酔っていても一升瓶だけは余程大事に抱えこんでいたものと見えて無事だったと、従姉は後々まで笑い話にした。

×   ×   ×

霞ケ浦における基礎訓練を了えて、彼は神ノ池航空隊に移る。恐らくこの時だったろぅ。思いがけぬ短い休暇を利用して彼は最後の帰省をした。 

夜行列車に乗り続けて故郷の家に着くと、一泊しただけで翌日は再び引返すという慌しさだったが、両親は無論のこと、世話になった近隣の人達にも別れの挨拶を済ませ、盛大な見送りを受けて出発した。

その夜、広島陸軍幼年学校の生徒舎では消燈後の暗い寝台に横になったまま、母から事前の便りで兄の帰省を知らされていた彼の弟は、今頃兄がこの地を通過して行くのだと考えていた。

 幼年学校のあった基町の一角から山陽線の線路は近い。微かに聞える汽笛の音を耳にしながら、その時十四歳の弟は生まれてはじめて、人の世のふたたび会うことのない「別れ」というものを考え、何か重く胸をしめつけられるような感を味わった。

 彼が家を出る時、母親は予め庭から折り取って来て置いた八ツ手の葉で、誰にも気付かれぬように息子の背後からそっと招く真似をした。こうすれば生きて無事に還って来るという、誰かから教えられた迷信だった。いかにも愚かで且つ憐れではあるが、互いに永別を心に決した戦時における親子の情としてみれば、そこに一種の異様な美しきが感じとれぬでもない。

×   ×   ×

 出発に先立って、彼は一切の私物を郷里の家に送った。各種軍装はじめ被服類全部。海兵以来のアルバム、カメラ、ネガフィルムから「極秘」扱いのノート類まで、あらゆるものが大きな行李に詰めて両親の許に配達された。中に、海兵卒業に当って下級生(多分七十三期)の人達から送別の辞を寄書して貰った小冊があり、その末尾に僅かに彼自身の筆蹟が見られた。唯一の遺書というべきか。

我今波荒キ太平洋ノ空ヲ行カントス

死生唯命ナリ 死シテ君親二背カズ

護国ノ鬼トナラン 

海軍中尉 清水 武

 紋切り型の‐‐‐‐当時としては極めてありふれた文句だ。中の一句は吉田松陰先生の辞世の詩から失礼にも丸々借用している。だが、この凡々たる数行の中に、二十歳になったばかりの彼の赤裸な声を聞くように思うのは僻見か。

「俺はもう生きては還らん。死んでもどうか悲しまんでくれ」と・・・。

そして、あとがきの中に、昭氏はつぎのように書いてある。

『兄、清水武が死んで、やがて満二十九年になります。生きていれば数え年で丁度五十になっているはずです。あの男が五十まで生きていたら一体どんな大人になっているものか、想像してみるにはかなりの努力を必要とします。真面目で愛想の良い商人か何かになっていても格別おかしくはないという気もしますが、そのような空想を以ってしても、記憶に残る彼の姿を変えることはできません。

 僅々二十年余の短い生涯ではありましたが、それなりの起承転結を以って見事に完結しているように思えるからです。それに、死んだものはもはや年をとらぬという特権に恵まれています。最後の姿そのままで、現世の時間を超え、私共の裡に生き続けているということができます。

(中略)

 書き終ってふと考えてみますと、今や両親も兄弟も全てぼうなく、妹は他家に入り、清水の家に残るのは私一人きりです。このような拙劣の文字を綴って来て、初めてこの事実を身にしみて思い知り、俄かに蓼々たる感の拭い難いものを覚えています。同時にこのようなものでも、憐情に過して来た己の人生に一つの句点を打つ程度の意味はあろうとする、多分に手前勝手な了見も起って来ます。』

(なにわ会ニュース31号8頁)


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