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平成22年4月27日 校正すみ

里村章・保兄弟のこと

70期 森田 禎介

 (兄章から家族への手紙)

弟戦死の報初めて確報を知り驚愕、茫然たるのみです。この72期連中が中尉に進級したので公報を見た所、弟の名前が無いので、さてはと感じていた所でした。花の蕾の若桜を無惨に散らした口惜しさ、無念至極、全く夢の様です。思えば春出撃前に私の所に訪ねてくれたのが最後でした。あの時、撮った写真の原版は当地転勒時、荷物と一緒に送ってある筈です。

 やっぱり今から考えれば、大分湾に入港してわざわざ私の所まで会いに来てくれた、いわばお別れに来てくれたのかも知れない。あの時、無理して手紙を書かせて私が同封して家に送った筈ですが。全く夢のよう、戦争の現実です。いや弟は永久に戦っています。南方洋上で奮戦していると確信しています。私の出陣に弟の戦死を贈られ、烈火の如き心情です。弟の小さい写真がありましたらお送り下さい。愛機と共に弟も乗せて、いざ戦争に行く時は兄弟二人で戦います。

 玉波と 共に砕けし弟の 仇を討たん この愛機にて

九月二十九日 

御両親様

兄上 様

実は彼の弟の里村保君は72期生で、私とは33分隊で一緒でしたが、文才にたけた個性的でユニークな人物でした。昭和十六年の秋の一夜、巡検が終わった頃、兼築光寿が発言、「今夜は中秋の名月である、海軍士官は名月に一句たしなむ位の素養が大切である。三号誰か名句が浮かんだ者は披露してみよ」と。

その問に答えたのがあっぱれなこの里村の弟であった。

 「むくつけき′この学び舎に あまねきを

          惜しやと思う 今宵この名月」

 これにはさすがのねい猛一号兼築もギャフンとした一幕であった。この弟さんも駆逐艦玉波で戦死された。

(編者注)

70期は平成七年十二月、「澎湃の青春−70期の記録ー」なるクラス会史を発行した。この記事はその中から引用させて頂いた。里村保の兄、章氏は70期、38期飛行学生の艦爆乗りで昭和十九年十月二十七日、戦闘四〇七分隊長でレイテ在泊艦船攻撃に零戦で参加戦死された。弟の保は兄章に先立つ事三ケ月前の七月七日、駆逐艦玉波で南支那海に散華していた。

 

(なにわ会ニュース74号37頁 平成7年3月掲載)

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