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平成22年4月28日 校正すみ

兄 成瀬秋夫の戦場を訪れ

加藤 孝平

私は成瀬の末弟で兄、秋夫の戦死したルソン島の現地を一度歩いて確かめたいと願っていた折、幸いクラーク海軍3中隊長だった中村さんから連絡下され、赤松日記を書かれた赤松さん外数名の生還の方の案内で去る5月、クラーク14戦区から17戦区跡までを7日間、ルソンの山中に深く入り、当時の惨憺たる模様を説明して戴く事が出来ました。

終日フィリピン軍隊の護衛のもと、電気やトイレもない原始時代に近い点在する部落の酋長の家に泊めてもらったり、橋なき川を膝までつかり、山によじ登りなかなかの強行軍でしたが、多くの遺骨をまのあたりに見、各戦跡での慰霊祭には年甲斐もなく、泣けて仕方がありませんでした。クラークには当時七つの飛行場があり(現在は水田になり、その一つを米軍が使用中)陸軍5万の守備隊と3,000余機の飛行機が置かれ、航空艦隊司令部もあったそうです。

ある日突如として雲霞のような空からの敵襲を受け、戦わずして地上で殆ど壊滅。わずかに残った飛行機で司令部は台湾に撤退。残された航空隊員は、リンガエンから上陸して来た大戦車隊に抗すべくもなく山中に入ってゲリラ戦となったそうです。

稲や芋まで空からガソリンをまいて焼かれ、食糧はつき、アミーバー等でバタバタ倒れて行ったそうです。成瀬は20年3月中旬頃、1中隊の若手の元気な人を選んで夜襲に出たまま全員帰らなかったと、大阪在住の小川さんから聞きました。海機の同期生で1中隊基地で亡くなられた関谷中尉の卒塔婆を現地に立て、線香をたむけ、小石を持ち帰り、現在豊田市に住まわれる老母の元へ届け喜んで戴きました。私も亡き兄と声なき対話が出来、永い胸のしこりがほぐれました。

「俺はここに眠っている、よく来たな」「兄貴さみしかったであろう。亡き父母の墓の土を持って来たよ。一緒に安らかに眠って…」内地で別れの時の会話もはっきりよみがえって来ました。

「兄貴、空中戦で負けていること知っているか」怒った顔して「うそ言うな」「いや俺は中島の天山の運転検査やっているからよく知っている。ガソリンの防弾ゴムがないからだ。1発の銃弾でも真ん中のタンクが火をふき、爆発してしまう裸の我々と、油圧用のオイルまで防弾ゴムで巻いている鎧を着た相手とでは勝負にならない。でもタイヤにするゴムさへ不足している、だから仕方ないさ」と言いますと、黙ってしまいました。

帰る日、クラークは特攻隊発祥の地で石碑も参拝して来たけれど「特攻隊も3%しか確率はなかったんだよ、また会いに来るからね」と言って、クラーク米軍基地。ジェット機の爆音の下でさようならを言って帰路につきました。ぬれたタオルを谷へ投げ残して帰ろうとしましたら、ネグリート族の一人がすばやく走って拾って去りました。マニラの表とのあまりの格差に驚き、日本の新聞では共産ゲリラと書きますが、政争で敗れ獄中にある貧民派、アキノ派のゲリラに思え、平和日本の有難さをしみじみ感じました。

私は永く輸出を業として各国を廻りましたが、ABCD経済包囲で大戦となったと言う枝葉論には異義を述べたい1人です。

大正初期ガンジーのサボタージュによる抵抗と天然痘 (ガンジー主義に抗して3年放置したため、インド、アフリカで100万人以上の黒人が死亡) が英本土を汚染してから手遅れの医療援助費のかさみでポンドの暴落、ポンド防衛策の資源値上げに何の策も持たず、明治以来の50年の蓄積を一瞬に紙くずと化し、ポンド防衛のいけにえに日本経済を破産に追い込んだ大正10年代の政治が全く論評されず、天然痘治療の犠牲となった野口博士を黄熱病云々とぼかし、資源買いに奔走された愛国者、鈴木商店を焼き打ちしてインフレの原凶とした無智と視野の狭きに大きな議論がなければならぬと思います。このにがい体験が昭和47年一転北極の冷却による、中ソの大飢饉にドル防衛策の一端としてアメリカ小麦の3倍の値上げが世界の物価にスライドすると早読みし、先手を取った手腕として生きたものと思います。一昨年スイスのズルザー社を訪れた時、日本が安いうちに資源を買い占めたと、あまりにやきもちを言いますので「あなた方は大正10年代のポンド防衛の頃イギリスにヨーロッパは親戚扱いされ、被害がなかったし、日本はつぶされてしまったのですから裏目が出てあいこになりましたね」といったら黙ってしまいました。

兄の死地を訪れ、比島数10万の先輩の死を無駄にしないために、戦争を体験しない若い人に、歴史の誤りは正し、真実を伝え、軽々な論評を排除しつつ、常識ある日本人として、平和を守り生きることを誓って帰りました。

同期生の皆様方の日頃の御親切に心からお礼を申上げ成瀬秋夫にかわって現地の模様一筆御報告申上げました。御笑読下されば幸甚に存じます。皆様の一層の御健勝と御活躍をお祈り申上げます。

(機関記念誌120頁)

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