TOPへ    戦没目次

平成22年4月29日 校正すみ

兄 村上 達

村上 典夫

私事村上 達(四男)の弟村上典夫と申します。     

戦中、戦後を通じて兄村上 達並びに両親をはじめ村上家にとりましては、恒川様をはじめとして「なにわ会」の皆々様に種々のご高配と厚いご高庇を賜りましたことに衷心より深く感謝申し上げます。

さて、恒川様の「なにわ会報69号」の詳細な真情溢れるお手紙を拝読させていただき、衝撃的な感動に打たれ、唯々感激でいっぱいでございました。お蔭様で達兄が大村海軍航空隊で殉職した当時の様子をはじめて詳しく具に知ることができ、目のあたり見る心地で感慨を深くしましたことは、この上ない幸せと有り難い極みでございます。

 達兄の殉職時の実情不詳とは、恒川様にとっては大きな疑問符にお感じのことと存じ上げますが、以下の拙文を寸読いただきご了承賜ればと存じます。

 両親は、兄の殉職公報を受領、仰天驚愕裡に急遽大村に駆けつけました。戦時中で交通事情も悪く、みちのくから大村への道のりは大変なものだったと思います。車中ではまどろみもせず、虚報であってほしいと念じつつ、 ひたすらに生を神仏に願う暗く重い胸中は如何ばかりだったかと測り知れない思いがします。

 悶々のうちに大村に辿り着き、無情無残の変わり果てた息子と対面した時の両親の心情は察するに余りあります。生を享けた世に逆縁ほど辛く悲しいものはないといわれていますが、我が家はどういう因果か、直衛兄(長兄海軍軍医中尉)が昭和十六年病没。隆兄(三兄陸軍少尉候補生)が昭和十8年病没。そして達兄が昭和十九年殉職と連年最大の不幸が続きました。長兄と三兄のときは勿論達兄のときにも、父は悲しみによる取り乱した様子は少しも見せませんでした。特に達兄が遺骨となって帰郷したときの光景が目に焼きついております。父方母方双方の小母たちは勿論大の男の小父たちまで男泣きしていました。このことから村上家の尋常でない不幸の度合いと、達兄が親戚から如何に親愛と期待の目で見られていたのか、お察しできるのではないかと存じます。そのようなまわりの情況に比して父は平然としていた様子が妙に印象に残りました。父は人生最大の痛恨の悲境に遭遇しても平然自若たる(はら)の人物か、はたまた少々魯鈍愚昧な下衆かと想像をめぐらしていました。(当時弱冠十代の自分にはそうとしか見受けられませんでした)

 しかし、母が健在だった或る日、私が「おやじは、どんなことがあっても、取り乱すようなことはなかったように思うのだが・・・・?」と訊ねたら、「それは違います。大村海軍航空隊で達の遺体と対面した時は、それは取り乱して慟哭(どうこく)号泣しましたよ。」と聞かされ、父の真の姿を始めて知り、やっぱり父も親愛に満ちた人の子の親であり、ありのままの真直な人間味があったのだと深く感動し、はじめて納得できました。 

今になって理解できるのですが、状況がそれぞれ異なったわが子との死別の感懐は別々だったかもしれません。しかし、長兄、三兄の死別の場合と達兄の場合と子別れの感情は人間として親としての基本的な心意には豪も変わりはなかったと確信いたしております。 

両親は、殉職時の詳しい状況については、大村航空隊関係者の方々からとくとお伺いし了承し尽くしておったと存じます。にもかかわらず両親は、その生存中、家族には殉職時の実情は一言半句も漏らしませんでした。(父は昭和四十三年、母は同じく四十七年に他界いたしました)

 それほど両親にとって達兄の死は、如何ばかり辛く悲しい出来事で、代えがたい大事なものを失くしたようで言葉につくせぬほどの痛手だったのでしょう。この親の嘆きの大きさのほどがわかるようになるにつれ、私の胸の痛みも大きく
(うず)ます。

 恒川様もご熟知の通り、達兄はどこまでも茶目っ気たっぷりのひょうきん者で明るく親戚をはじめ友人知人の誰からも親しまれていました。それにまた無類の家族おもいでもありました。兄弟は勿論、両親にとっても、期待の太陽的存在でした。

 冒頭に申し上げましたように、私が達兄の殉職当時の不分明の経緯は以上でお解りいただけたと存じます。

 恒川様の万感胸に迫る哀悼の念をこめて亡き戦友期友に対する慰霊と追悼、鎮魂の御手記に接し、兄の殉職の詳細を知るとともに戦友期友の方々の真実溢れる戦友精神とも申すべき友情の中で短命ではありましたが命を賭した青春譜を見事に書きあげた兄の幸せを思い壮絶な大村の金字塔の永遠を仰いでおります。時(あたか)も兄の五十年忌にふさわしい弔魂の辞を本当にかけがえのない有難い贈り物と深く、深く感謝申し上げます。残された兄弟たちも心から御礼申し上げております。

 また、両親の愛情の探さを改めて認識する機会をお与えいただきましたことも、本当に感謝いたしております。

最後になりましたが、恒川様を始め「なにわ会」の皆々様の益々のご健勝とご多幸を祈念申し上げますとともに、今後とも一層のご指導とご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。

(なにわ会ニュース70号37頁 平成6年3月掲載)

TOPへ    戦没目次