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平成22年4月29日 校正すみ

私の出会った『大切な人』 村上克巴少佐の言葉

出雲  

『君はまだ若い 酒など覚えるな

君たちの時代は必ずくる

いいか、生き残るんだぞ』

村上 克巴海軍少尉 (戦死後少佐) 

生涯を通じて、私の心の中に生き続けている村上さんとの出会いは、今を去る55年前の昭和18年の暮、「戦艦伊勢」における戦時中のことであります。

私は昭和17年9月、15歳で海軍を志願した第1期特別年少兵で、大竹海兵団で約1ヶ年の訓練を受けたのち、横須賀の海軍工機学校において、機関(主機)の術料教育を履修、昭和1812月1日、岩国沖に停泊中の「伊勢」に乗艦しました。その時、機械部・第19分隊士が村上少尉でありました。

私は海軍上等機関兵、当時は兵が直接士官の方と会話を交すことは出来ませんが、あることから特別に目をかけて頂くことになりました。

それは、暮も押しつまった艦内で、挙艦戦闘訓練のあと、無礼講の大酒宴が聞かれた時のことでした。

私は16歳になったばかりで、お酒はまったく飲めませんので、もっぱら先輩たちのビールを冷やしたり、お酒のお燗(かん)をしたりしていましたが、ある先輩からお酒を勤められ、「勘弁して下さい」と断ると「おれの酒が飲めないのか」とからまれ困惑しておりました。

その時、それに気づかれた村上分隊士が、「オィ、その酒はおれが飲んでやる」と助けてくださいました。 そして、私を呼び寄せて、言われた言葉が、次の一言でありました。

「君はまだ若い。酒など覚えるな。君たちの時代は必ず来る。イイか.生き残るんだぞ」

「イイか。生き残るんだぞ」と言われた言葉は、今でもこの耳に、脳裏に強烈に残っております。

私があまりにも若く、あるいはひ弱そうに見えたからかもしれませんが、以後、課業止め後の別科時間になりますと、分隊士から私の班長に電話があり、「銃剣術の防具をつけて上甲板に来い」と度々言われました。何時もきまって、一番砲塔の右舷で待っておられました。

私の姿を見ると 「よし、どこからでも突いて来い」と言われます。 私から見ると、分隊土は巨体で屈強で.私がしゃにむに突きを入れますが、びくともされません。そのうちに、「ゆくぞツ」と、一突きされると体が震えるほどの強烈さでありました。.まともに食らったときは、2メートルぐらい、すっ飛んで尻餅をついたり、砲塔にぶち当たったりして激痛が走る程でしたが、兄のような親近感が込み上げて心がはずむのでした。

それからしばらくして、19年春ごろ、分隊士は退艦されました。ご一緒したのはわずか4、5カ月でしたが、瀬戸内海岩国沖の連合艦隊柱島泊地における忘れがたく懐かしい心に残る思い出であります。

私は戦後、復員局(復員輸送、賠償艦引渡し)海上保安庁(掃海業務)などを経て、海上自衛隊に勤務し、昭和52年(1977年)に定年退職しました。

この間、昭和33年(1958年)に幹部候補となり 江田島で教育を受けたのでありますが、その時、「教育参考館」において「 回天特別攻撃隊」コーナーで戦死者名簿の中から、村上さんのお名前を目にしました。頭に大きな鉄槌を受けたほどの衝撃が走るとともに、胸は締め付けられる思いで、目頭が熱くなり、涙がこぼれてきました。そして、しばらく動くことが出来ませんでした。

記録には、昭和191120日、パラオ島コツソル水道・回天菊水隊 (2階級特進で海軍少佐)とあり、壮烈な戦死を遂げておられたのでありました。

私を「伊勢」艦上で鍛えてくださったころ、また、「生き残れ」 「君たちの時代は必ず来る」と言われた時、村上さんは19歳、すでに『特攻』を決意しておられ、静かに退艦していかれたと思う時、私の胸は張り裂けんばかりであります。

この上はただ、ひたすらに安らかな御冥福をお祈りいたすのみであります。

この日から私の脳裏には今までにも増して村上少尉のありし日の面影 (英姿)が鮮明になり、今日に及んでおります。

艦隊勤務となり、舞鶴寄港時には機関学校跡に建立されている慰霊碑にお参りし、平成5年には大津島の回天墓地を訪ねて慰霊碑に参拝、そして昭和1911月6日、潜水艦伊37号に搭乗された岸壁にたたずみ、はるかな南の海に思いを馳せたのでありました。

その時、ご遺族を捜し、お墓参りをしたいと思うようになり、気にかけておりましたところ、機関学校名簿から弟様が小倉市在住と分かり、勤務も閑散となった平成8年秋、念願の墓参を果たしました。

(JR門司港駅そば・地蔵寺)

その帰途、郷里島根県に帰り、丁度良い機会と、弟夫婦を連れて、江田島を案内し教育参考館を見学しました。その折、回天コーナーで奇しくも村上少佐の遺書に接し、新たな感涙にむせんだのであります。 

37潜は帰港せず全員戦死、回天隊員の遺品は何一つないと言われていたのに不思議でなりませんでした。嘗て、幹部候補生学校に6ケ月、第一術科学校で3ケ月の学生生活を送り、また、寄港時何回も参考館を見学してきたのに、村上さんのご遺品に接することはありませんでした。昨年暮、妹様と連絡がつき、お話しましたが、遺書については初耳と、また、第二術科学校機関術参考室に展示の機関学校53期生のアルバム(写真と一言)の中で、村上候補生は『生』と一文字を大書しておられます。 ほとんどの方が、非常時に相応しい勇敢な言葉であるのにと、その真意を理解することが出来ませんでした。

 

 

神州護持の大義に生く

更に言うべきことなし

御指導を賜りし

諸先生先輩同輩の方々

深く感謝を捧げます

最後に

御両親様御祖母様弟妹の御健捷をお祈り申す

克巴

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(なにわ会ニュース88号67頁 平成15年3且掲載)