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平成22年4月29日 校正すみ

水谷潤君へクラスメートからの手紙

編集部

水谷  潤 片山 市吾 金子  忍
田中つとむ 神 正也 山根 光

 片山市吾(厚木空)から 198・7

 前略、当隊に来てから始めて筆をとり第一報を貴兄に贈る。本日(六日)山根から種々聞いたよ、一番驚いたのは、保さんの殉職だった。驚いたよ、全く。

 此処の飛行場は実にナカセルよ、風は今のところ滑走路に平行で離着陸に苦労はない。飛行機も亦・・・ 毎日愉快な飛行作業をやっているから安心してくれ、此処の休日は今のところ日曜日だ。近い中に貴兄のところへ御邪魔に行くかも知れない、都合がよい日を知らせてくれ。

 新進気鋭の若武者、大に当隊の軍紀風紀の粛正に専念している。「甲板」の名にかけて田中洋 立川等諸兄によろしく。 オッス。

(片山と水谷は四号のとき、四十五分隊で一諸であった。)

 

 金子 忍(上海空)からの手紙19813 

 小生等一行八月六日着任、土地不慣れのため大分身体の調子健全とは云い難きも、思ったより暮らしよい処です。兄等の教官タイプもそろそろ物になる頃ですが、吾々もこれから分隊士の勉強だ。小生飛行士を命ぜられてまごついている。飯野が甲板、宝納が衛兵副司令、当地も御地同様次第に情況近迫、千載一遇の好機、一撃必墜の態勢たらしめんと張り切っている。スリーキャッスル有るも送るのは困難御容赦、そのうち写真送ります。では元気で。

 田中つとむ(元山空)からの手紙19817

 神池の学生時代は一方ならぬお世話になり誠に有難うございました。私達一行は三日の午後無事着任、翌日より皆元気一杯張り切っています。九六戦でなくて零戦でした。転勤直後で相当忙しいけれど愉快です。

 平野の真中の神池とは周囲の情況がやや違います。元山は朝鮮唯一の避暑地とか、江田島附近に似て非常に美しい処です。

 呉々も御自愛の程を

 

 神 正也(筑波空)の手紙19812

 神ノ池時代には種々お世話になり、また教えられる所多数、今更ら乍ら深く感謝いたします。

  転勤の発表のあった夜、全く予期しなかった発表を聞いて心からの涙を流した想い出を過去のものと流さずに、何時ともなく浸入して来る教官気分の良き楯として大いに腕を磨いて下さい。

  神ノ池では今頃編隊空戦位やって居られることと思います。私達は入隊して地形慣熟飛行、編隊の列機、基攻(基本攻撃)などをやっています。同位戦も一回だけやりました。

 予備学生には飛行学生のような気塊がなく、基本攻撃前後の編隊も満足につけません。二十回近くも基攻をやり乍ら昨日(十一日)は展開方向を誤り一番機(新庄)と空中衝突して落下傘降下をした者もいます。新庄は無事飛行場に不時着しました。交代、燃補その他総てに惰気が漲り、之を一掃するには余程の努力が必要だと思っています。幸い桑野、新庄、小生が甲板をやっていますから相当張り切っています。申し遅れましたが第一日目の最初の着陸で池田が着陸直前、失速胸を打ちましたが今日(十二日)から乗るのだと云って張り切っています。

 少尉着任以来(注、新庄、日野原、川越、桑野、青田、福島・秋山、斉藤敏、 大森、伊藤、池田).筑波も日に日に軍紀厳正になりつつあります。今に日本一の航空隊にしてみせましょう。くだらぬことを多数書きましたが何卒お元気に、決して消耗しないように、先日母上様が「潤が消耗しましてね」と云って今度何時お会い出来るか分りませんが、お暇でもたらお手紙下さい。   御健斗をお祈りします。

 

  山根 光(厚木空)の手紙 19822

先日は色々と有難う。実に何といって良いか、素晴らしい歓待を受け心から御礼を申し上げる次第です。あの日帰ってから真夜中に「ウオッチ」に立った次第ですが、梢々シビヤー気味にヘバッタ感があります。クラス会の件、残念乍ら休日が水曜日と入換確実となったので今の処実行不可能と考えます。残念仕極です。機会のある時を切望しています。

 先日少々?シャベリ過ぎてお母様はさぞ、呆れられた事と思います。では又、御健斗を切に祈る。

 

 神 正也(三沢空)の手紙 191021 

前略御免、其の後相変らずお元気の事と思う。三沢に空輸に来た桧垣中尉の話では、潤兄は通信士でモリモリシメラレている由、方久兄(注 石川方久)は予備学生をモリモリシメテいる由、二人の特徴ある顔が益々特徴づけられる様な気がする。此処は寒いが実によい所、昨日一〇〇一(註、空輸専門飛行隊)の石井が来ての話では、山根が地球に10米もぐって殉職の由、全く気の毒、武田の殉職、三宅の片腕、全く何とも云えぬ気持、お元気に。

 

 片山市吾(厚木空)の手紙

今日伊藤中尉と吉盛中尉と下士官一名が、うちの飛行場に不時着したので潤君に便を托す。相変らず通信士で張り切って居られるそうだが、まあしっかりやってくれ給え、もう知って居られると思うが武田と山根が十月三日、十月十四日と続いて殉職してしまった。俺の部屋は塚田と俺と四人で居たところ、今はもう二人になってしまったのでどうも淋しくてたまらん。

山根は一六〇〇、雷電の試飛行で離陸してから三千位の高度をとるのを俺はみていたのだが、それからはどうなったかわからない。戸塚のあたりの雑木林の中へ突っ込んでしまって、土中十米余り突っこんで四日間徹夜で土を掘って遺体の大部が出て来た。機体はこなごなになってしまって、平田が神の池へ突っ込んだ時よりももっとすごかった。小生は来月上旬(これは軍機に属するから婆婆では云ってくれない様に)硫黄島へ行く。飛行機は五二型(注零戦の一種)に斜銃をつけて行く、七十期の宮崎大尉が隊長となって十機行く。七十一期の中野中尉と予備の由井中尉と俺、士官が四名、下士官兵が六名。

 もう昨日から雷電を卒業した。乙戦は厭だと云って此処へ来たものだが遂に幸運をキャッチした。残る六名の先発として一人行くのは何か気分がすっきりする。二ケ月位の交替らしいが、′何処で何時ゴネルか知らんが、とにかく大にやるつもりだよ。

 神は三沢へ移ったらしい。あれ以来、貴様の処へは失礼しているが′御両親によろしく。別 便

俺は貴様からの便りを受取ってどんなにか会いたく思ったか、本当に飛行機だったら自分でスイッチを入れて飛んで行こうものを。汗と砂塵と、そしてぴったりしない気持とあらゆるものを理性でやっと我慢して立派に職務を果して居られる君の努力には大に敬意を払う。

 今の自分の気持ちは割合に簡単なものだ。今度進出することを無上の光栄と思っている。そして遠い交通も不便な神ノ池に居る水谷潤とそして北の果、本当に地の果の様な感じのする三沢空に居る神のことと、六〇一だったか奥海(彼は変っているが俺とよく気の合う奴だ).其の他数名のクラスメートをなつかしむ心、だ。Sプレイはやっても、また自分の心は、身体がバーであることと同様純真だ。

 今の俺は神ノ池時代の俺と変りはない。変った人も相当居るがね、どうして神ノ池以来俺が殆んど変らないかというと、それは分らない。

 何だか、頭の中がボーッとしてまとまらない。処で、神ノ池の休日を教えてくれ、そうすれば入湯上陸を利用して貴様のところへお邪魔出来る。或はここへ来られてもよいがそれはあまりに面倒くさいからね。自分は、十一月一・二・三日は家に帰るから、其の他の日に貴様が家につく日に電報でもうつてくれ(注、東京の水谷家で落ち合う計画である)今自分の休みは水・木だよ。

  もう時間がないからこれでやめる。今日篠原飛曹長が来たのでこれをたのんだ。

 

水谷 潤が、故神 正也の特攻編成出撃を知り、神のご両親宛書いた十二月四日付の便り、

謹啓

初冬の候、御一同様には愈御壮健の御趣、御喜び申し上げます。降って私儀心外にも、内地のしかも教育部隊に残され、卒業当夜、無念の涙に暮れて居りましたが、無二の親友たる神兄に「俺もだ」と慰められは致しましたが、せめてそれなら同じ隊にとならぬ愚痴を列べて口惜しがった事で御座居ました。

 以後、数回文通致し、互に会う機会を狙って居りましたが、皮肉な事に折角神兄が小生宅に来られた時は小生上陸して居らず、三回程御足労をかけてしまいました。思えば学生時代の我々「グループ」(神、三宅、片山、小生)は今から思っても気持ちの良い、張り切った人達ばかりで、殊に神兄の烈々たる覇気と熱意とに小生秘かに私淑致して居りました。

 『七十二期の神』と申せば誰知らぬ者は居りませんでした。銚子へ、少尉に任官した間もなく「プレン」を着てネクタイの結び目を気にしながら、大いに飲んだ時の事を思うと、つい此の間の様な気が致します。

 今や我々「グループ」は三宅は片腕を失い、片山は傷つき、神兄は出撃し、小生のみ残され淋しき限りで御座居ます。神兄の奮斗大いに期してまつべきものがあります。必ずや見事なる武勲を樹てられる事と思います。神兄の部隊は、或は御存知かも知れませんが、小生からはあえてお知らせするのを差し控えます。何時の日か、神兄からも御通知がある事でしょう。学生時代の思い出は尽きません。

 神兄の武運を祝福し、御一同様の御健康を祈りつつ潤筆致します。

昭和44年9月寄稿

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