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平成22年4月28日 校正すみ

古武士 故畠中和夫君

定塚 

畠中 和夫 定塚 脩

終戦直後、級友畠中和夫君は自決した。当時同部隊に居合わせた期友として、その前後の模様を書くこととなった。しかし、なにぶん20数年を経過している。しかも、予期せぬ敗戦で呆然自失、自分さえ何をしていたか、定かには思い出せない始末である。いろいろ記憶違いも多いと思う。間違いの点は、関係者のご指摘をまって改めることとし、取り敢えず、乏しい記憶のままを記すこととした。 

故畠中和夫君―私がこれまで接した中で最も古武士的風格を備えていた人である。深慮熟考、冗舌を好まず、剛勇果断、何よりも怯懦を憎む、まさに古武士であった。

 昭和20年、遅れはぜに大浦突撃隊配属となった私は、8月頃やっと一人前の蛟竜艇長となり、はじめて自分の艇を貰って、大浦基地を出撃したのが、なんと8月15日朝であった。四国の三机で魚雷装填の後、宿毛湾・佐伯湾に集結中の沖縄攻撃部隊に入るため、佐伯湾に行けとの命令であった。午後3時頃三机に接岸したとき敗戦を知らされた。半信半疑の気配もあり、とにかく魚雷装填を急いで即時佐伯湾に向った。途中、豊予海峡で魚雷装填後の試験潜航をした。その前、三机出港後、決断力のない私は迷いに迷っていた。そのまま、単独でも沖縄へ突っ込むか否かについてである。艇付(兵曹3名兵長1名)は、全員沖縄突撃に賛成した。ところが、残念なことに、試験潜航中、転輪が故障してしまった(当時蚊竜では転輪故障が多かった)。転輪故障では潜航航海が不能である。それで、やむなく佐伯湾へ入港した。

佐伯湾には約40隻の艇が居た。その1隻の艇長が畠中和夫君であった。佐伯でも、偽装降伏だ、という声も多く、激しい襲撃訓練をする隊もあった。思慮浅い私などは何もわからず、あれやこれやと人の議論に迷わされながら、とに角故障の修理と、万一の攻撃計画に励んでいた。しかし、畠中君は、取り乱す様子もなく、とかくの論議もせず、むしろ悠然たる態度にすらみえた。後に思えば、当時既に期するところがあったものと考えられる。

8月17日夜半、1隻の艇がいなくなったことが佐伯基地に伝わった。畠中艇であった。航空隊や九州東海岸の警備隊などに捜索を依頼されたようだったが、その夜は遂に発見されなかった。翌18日日向灘を北上する蚊竜発見の報がもたらされ、午後佐伯湾に入港した。

しかし、畠中艇長は既にこの世の人ではなかった。艇付の語るところによると「沖縄へ向け出撃したのだが、太平洋に出た後、艇に故障が起り潜航不能となった。畠中艇長はやむなく帰港する旨を告げ、内地へ向い、陸地が見えて、もう艇付だけでも帰りつけるところまで来た時に、艇付達に対し、「自分はどうしても降伏を承認することができないので自決する。お前達は、こうこうこのようにし無事佐伯湾に帰港せよ。」と命じた。艇付たちは交々思い止まって下さるよう嘆願したが畠中艇長の意志は堅く、遂に止めることができなかった、ということであった。畠中君の最後については、遺書等を艇付に渡し、日本帝国の万歳を叫び、落着いた態度で、拳銃をコメカミに当て、静かに引金を引いた、立派な最後であった、ということである。誠に軍人らしい立派な最後であったと思われる。

蚊竜隊には、兵学校72期が多数いたにもかかわらず、どうしたことか、この時佐伯湾にいた72期は畠中君の他は私だけであった。そこで、唯一の同期生として、畠中君の火葬、葬儀準備などをすることとなった。何分にも敗戦直後で、一般市民の対軍感情も、反動的に悪化していた。また、人手もなかった。たとえば、火葬夫がいないので、山中の火葬場へ私ら自身が遺体を運び、燃料も少ないので一晩がかりで火葬に付した始末であった。あるいは、葬儀といっても、お花やお供物を手に入れることが困難で、海岸で釣った生魚をお供物がわりにしたようなことであった。偉大な畠中君の霊に対して、はなはだ申しわけない粗末さであったことを、今でも心苦しく感じている。ただ、火葬の際、拳銃の弾丸が貫通した右コメカミから左コメカミにかけての部分が、いつまでも黒く焦げ残って数時間も燃え切れなかったのが、畠中君の祖国を想う魂魄(こんぱく)が、シーンとした真夜中に、何か私に語りかけているかの如く思えたのが、今もはっきり記憶に残っているn

戦後20有余年、畠中君のような純粋に誠に生きる若者が極めて少なくなったよう思われる今日、改めて、彼の偉大さを回顧するのである。また、級友として、彼の最後の数日間を友にしながら、生前にも、死後にも彼のために何一つ満足な行動ができなかったことを申しわけなく思っている次第である

(なにわ会ニュース19号32頁 昭和45年2月掲載)

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