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平成22年4月26日 校正すみ

菊池芳夫君についての澤本倫生の報告

(昭和20年11月8日)

菊池 芳夫 航空母艦 信濃

 本日芳夫君の一回忌も近く、同君生前のご様子、戦死された当時のこと等述べさせていただき謹んで哀悼の意を表したいと思います。

 私が芳夫君を知りましたのは、兵学校入校直前約一週間、倶楽部でともに寝起きしてからで、その後一年同分隊で苦楽を共にいたしました。いつも朗らかで、分隊一学年の中心となり、力となり、原動力となっておられました。その後二、三学年中はあまり顔を合わすこともなく、ただ、芳夫君が病気されてから日曜毎に見舞に行っただけでした。芳夫君は病気中でも気分はいつも元気で見舞に行ったわれわれを笑わせてばかりいました。

 卒業後約一年して私は、あの超大空母信濃(七万トン)の艤装員として働いておりました。同艦は、巾、長さ、重さ等、あの大和、武蔵と同じ怪物です。

 十月の初、ひょっこり芳夫君が艤装員として転勤して来られました。当時、私および二名の同期の者(兵科 鬼山隆三、機関科 佃 次郎)の喜びは非常なものでした。同君は直ちに空母の防御並びに攻撃の最大武器たる高角砲の分隊を受持たれ、二百名の分隊士として、着任のその日より活躍されました。艤装というのは困難なものなのですが、芳夫君はそれをてきぱきと処理され、自分の関係する仕事のみならず当時甲板士官をやっていた私に何くれとなく援助指導をしてくれました。

 同艦進水後は、物品、弾薬の積み込みに、本職の私の数倍働かれ、その上に分隊員の訓練を指揮しておられたのです。夜は部署とか内規とかについて、甲板士官たる私の手伝いやら何やら、実に一人二役で無能な私の欠を一生懸命補ってくれました。

 戦局は当時急激に悪化しつつあったので、艦の工事は無暗に急がされ、充分の訓練は瀬戸内海に行ってからやることにし、専ら工事に努めました。しかしその結果、十月末進水した同艦も十一月半ばに略完成、同月末、内海西部に回航することとなりました。

 十一月二十九日駆逐艦三隻に護衛された信濃は20ノットの高速で横須賀を出港、呉に向いました。その夜は風速約20米でその上大きなうねりがあり、敵潜水艦警戒には極めて不利な情況にありました。果せる哉、出港間もなくB29に発見されたらしく、また真夜半頃、敵潜水艦らしきものの追随をうけました。しかし、この第一回の敵潜水艦は見事に撃襲、西へ西へと航走しました。

「ドカン」夜半の三時頃です。艦尾に魚雷の命中を感じ、次いて 「ドカン」 また 「ドカン」暫くしてまた一発、合計四発の魚雷を次々に受け、艦は急激に右に傾きました。

 それからというもの乗員は真に飲まず、・食わず、七時間に亘り艦の運命を救うべく懸命の努力をしました。中でも芳夫君は傾斜した上、暗くなった艦内で、自分の分隊員を指揮し、実に目覚ましい働きをしておられました。私も職責上、艦内の兵の指揮やら、艦橋と艦内作業現場との連絡をしていましたので、二、三度、芳夫君の汗まみれな顔をみました。しかしながら、艦は総員の努力にもかかわらず、傾斜は増すはかりでした。午前十時五十分、総員は上甲板以上に上り、中、下甲板以下で浸水を何とか喰い止めようとしましたがそれも甲斐なく、同五十分終に転覆して了いました。その時の勢いで多数の者は海に投げ出されましたが、約1/3は艦内に吸い込まれあるいは艦の沈む時の渦に巻き込まれました。

 思うに芳夫君は最後まで部下の指揮に当り部下全員が艦の上部に出るのを見届けようとし、遂に脱出の機を失ない、艦と運命をともにせられたものと思います。当時艦の転覆時、投げ出された者以外、艦長、航海長、砲術長始め実に多数の方々が海に呑まれました。特に芳夫君と仲の良かった航海士安田 督少尉(兵73期)は最後に艦橋に掲げていた軍艦旗を降ろし、これを身に巻きつけ、艦と運命をともにされております。     「後略」

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