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平成22年4月26日 校正すみ

平成18年3月寄稿

卒業六箇月で戦死した弟祥一のこと

菊池 晴雄

菊池 祥一 駆逐艦 若竹

 昭和十九年三月三十日、駆逐艦若竹乗組員一六八名全員が戦死しました。

悠久なる郷土の歴史を貫き、その幾変遷を望みつつ、燃え続け来たり、また、燃え続けいく浅間山、悠久なる郷土の歴史を貫き、その幾消長を映しつつ流れ来たり、また、流れいく千曲川。

信州佐久は日本列島のへそ(中心地)であります。山国育ち故が海に憧れて海軍志願者が多いと思われます。

貧農に育った祥一は小学校の成績が抜群でありました。父を説得して私が働いて学資を出して、県立野沢中学校に入学しました。

 先輩に細萱戊子郎(三六期)、柳沢蔵之助(四六期)、高柳親光(六四期)小須田佐太郎(七一期)がいます。

昭和十五年、山田三郎、小林優、加藤敏久、菊池祥一の四名が揃って七十二期に入学して、四名揃って戦死しました。他中学では、小林優と同村の仁科関夫少佐(天王寺中・七一期)、土屋大尉(上田中・七二期)が居ります。

 昭和十九年三月艦が入港中に、父母に別れに帰郷しました。私は東京駅地下道で語り、見送りました。発車時間が来て、弟は張りつめた声で一言「兄さん、お別れだ」と言い残して振り向くことなく、フォームへの階段を登り消えていきました。それから十五日で戦死しています。今でも、その姿が眼底に焼き付いています。

 昭和四十七年八十六歳で死んだ母は、必ず國神社慰霊祭に出席して皆様のお世話になりました。母の墓石には次のごとく刻みました。

  いとし子に 添寝の母や 永遠(とわ)の石

  昭和六十一年八月、中西健造様、名村英俊様、平成二年二月加藤孝二様、樋口 直様の墓参を頂いて友情に感謝いたしました。

 ご参考に「若竹」の資料と「若竹遺族会」について申し上げます。

遺族会会長の山中敬司様(摂津市)は弟要造様の戦死に、西太平洋方面において「昭和十九年三月三十日戦死」の一片の公報だけに耐え切れず、復員局に誓約書を提出して、数年かけて「若竹」の状況を調査されて、「若竹」を棺とする一六八名を明らかにされ、平成三年三月パラオ現地慰霊祭を実現された大恩人でございます。

 若月乗組の士官は次のとおりです。

艦長 田中繁男大尉  小林士郎大尉  勝木石之助大尉  近藤三嗣中尉 
 山下 徹中尉  永田 清中尉
大谷春三少尉  菊池祥一少尉

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