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 片山市吾中尉 塚田浩中尉         

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片山市吾中尉(愛知県熱田中学出身。)

塚田浩中尉(終戦時大尉) (長野県松本中学出身。)

ともに海兵72期出身の戦闘機乗り、厚木302空 雷電隊。

塚田中尉によると、兵学校時代の片山中尉は余りにもわがままで高慢ちきに見えるような人だったとか。

兵学校時代、「相当な猛者」(←「酒や女」方面ではないはずなので、「威勢がいい」という意味だと思われる)であり、飛行学生時代も、頭髪を伸ばして飛行長の怒りを買ったり、教員(下士官の操縦教員)を殴って問題になったり、いろいろと困ったことをしでかす人だったと回想しています。エスプレイをしても、派手に踊りまわってエスを怖がらせてしまうような人だったらしいです。

しかし、塚田中尉は厚木で一緒に生活するようになってから、彼の理解者になっていきます。

「片山という男は実にさっぱりした、いいやつだった。」

日付は不明なのですが、片山中尉は邀撃戦に上がった際、不時着してしまい、負傷入院してしまいます。どれほど戦列を離れていたかも不明ですが、彼を焦らせるには十分なほど、入院していたようです。退院後、張り切りボーイ・片山中尉は戦果を上げようと頑張りますが、なかなか思うような戦果は得られませんでした。

そんなとき。20年4月。 厚木の302空も、沖縄戦への加勢のため、鹿児島・笠原に進出することが決まりました。 全員ではありません。12名が選ばれて行くことになりました。分隊長の寺村大尉は上から「連れて行く72期は1人」という条件をつけられ、塚田中尉を選抜しました。塚田中尉はこのことを「得意げに」片山中尉に話してしまいました。(おそらく笠原進出前夜のこと) すると、片山中尉は分隊長のところへ押しかけて行き、自分を連れて行ってくれと直談判します。寺村分隊長は片山中尉の熱意にほだされて、とうとう2人を交代させることにしました。今度は、戻ってきた片山中尉からそのことを聞かされた塚田中尉が承知するはずがありません。言い合いをした挙句、2人そろって飛行隊長、分隊長のところへ駆け込みます。

「鹿児島には自分を連れて行ってほしい」 と。

寺村分隊長の回想。

『今度は2人で私の部屋に来た。両名とも頑として譲らないのでいっこうに話が決まらない。私が決めればよいのだが、海軍は沖縄戦に全力を尽くし最後の決戦のつもりであり、大和まで特攻出撃するというぐらいだから、おそらく笠原に行けば生きては帰れないだろう。私も決めかねて、最後は2人はじゃんけんをして勝ったほうがいくこととなった。そして片山中尉が勝ったときの嬉しそうな顔が今でも目に浮かぶような気がする』

塚田中尉の回想ではちょっと違います。

飛行隊長に「2人でよく相談せよ」と諭され、2人は部屋に戻ります。

『私は部屋に帰って彼と激しく論争した。そのとき彼は涙を流さんばかりにして小生に言った。貴様は今までに相当な戦果を挙げているが、おれはまだそれらしい奉公は出来ていない。今度行けば必ずやってみせるから、今回ばかりは我慢しておれにやらせてくれ』

それでも塚田中尉は首を縦に振りませんでした。塚田中尉とて、最後のご奉公と覚悟を決めていたのです。

「それでは明朝、(くじ)で決めよう」

翌朝、笠原への出発準備が整った飛行場へ2人とも軍刀を手に、「行くつもり」で出てきました。 そこでまた「笠原行き」の奪い合いをした結果、片山中尉が行くことになりました。

『おれは負けた。いや負けてやった。そして彼に行ってもらった。』

4月12日。

笠原から沖縄に向かって出撃した302空の零戦隊(古い訓練用の零戦だったらしい)の中に、片山中尉の姿がありました。 沖縄上空まで敵に会わず、旋回して引き返そうとしたとき、片山中尉が敵機を見つけ寺村分隊長に知らせてきました。その後、グラマン数機と乱戦になり、寺村大尉は「上から降ってくるグラマンに敢然と片山中尉が反撃して行った」のを見たそうです。それが、片山中尉が目撃された最後です。 彼は塚田中尉が待つ厚木の士官室に帰ってくることはありませんでした。

余談ですが、堀飛曹長が「3月19日に未帰還になった」と勘違いしていた「橋本達敏中尉」ですが、彼は343空に転勤する前は、塚田中尉・片山中尉と同じ厚木・雷電隊の搭乗員だったようです。塚田中尉の回想に「小生と橋本が残されたときは、72期は全滅か」とか「そのとき橋本は343空に転勤になっていたので」という記述があったので、302空の読み物を調べてみたところ、橋本達敏中尉、たしかに302空に在籍されていたようです。 堀飛曹長、雷電乗りをひよっこ扱いしてはいけませんなあ・・・・。

偶然ですが、橋本中尉が戦死したのも4月12日。

橋本中尉は午前7時ごろ鹿屋から出撃、片山中尉は午前11時ごろ笠原を出撃、ともに沖縄方面に向かい、敵機と交戦戦死。

(この記事は「なにわ会ニュース53号6頁 昭和60年9月掲載」を読まれて纏められたものである。)

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