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柿崎 実


海軍少佐

略歴
大正11年 8月 3日 山形県酒田市出身

昭和18年 9月15日 海軍兵学校卒業(72期)

昭和18年 9月15日 航空母艦「瑞鶴」乗り組み

昭和19年 9月 6日 第一特別基地隊大津島基地着任

昭和19年12月21日 金剛隊として出撃(伊56、大津島)

昭和20年 2月 3日 突入の機を得ず帰還                  

昭和20年 3月 2日 神武隊として出撃(伊36、大津島)

昭和20年 3月 2日 作戦変更により帰還                  

昭和20年 3月28日 多々良隊として出撃(伊47、光)  

      昭和20年 4月 1日 敵駆潜艇、艦載機の攻撃により損傷、帰還  

昭和20年 4月20日 天武隊として出撃(伊47、光)    

        昭和20年 5月 2日 沖縄東方海域で特攻、戦死(享年22歳)   

 

同僚の回想(海兵73期:瑞鶴・回天ともに一緒)

柿崎少佐は「瑞鶴」乗組の頃は明るい青年士官だったが、「回天」では四回も出撃するまで死所を得られず大変可哀相だった。心も相当荒んでいたと思うが、表には出さない人だった。

「瑞鶴」あ号作戦出撃前の記念写真(前列右)

回天基地

同僚の回想(海兵同期)

資料提供:小灘利春

(海兵72期、第二回天隊長、全国回天会会長)

 柿崎は初出撃以来、半年の決死行に都度武運に恵まれなかが実に四回目にして遂に本望を遂げ玉砕したのである。その間の精神的苦悩、疲労は計り知れぬものであったに違いない。しかし無口で飾らぬ彼の表情、挙措は常と何等変わりがなかった。

金剛隊(伊56、大津島)  柿崎は前列右から四人目

柿崎の遺筆

神武隊(伊36、大津島)前列右から二人目

多々良隊(伊47、光)隊列の先頭

辞 世

柿崎隊長は遺品の中に「海底日記」と題した大学ノートを遺し、

そのなかに辞世がしたためてあった。


共に死にゆくこの人形はどこのどなたの贈り物。

呉第一県立女学校の女子挺身隊員に対する、
「鉢巻人形」の柿崎少佐の礼状

伊47潜・海底新聞「柿崎隊長を偲ぶ」

この日、柿崎中尉体当り敢行、感きわまりてこの一編を捧ぐ

弱冠二十有余才 内に包める花の香の 香りもゆかし軍神

身は肉(ししむら)の弾丸(たま)となし ただ一筋のみちのため

顧りみもせず征きにけり 柿崎中尉征きにけり

はるけき並路踏みこえて 来にし苦労もさりながら いま沖縄の決戦場

男の子の血潮沸きて立ち 回天、動地、震海の道の極みを遂げにけり 柿崎中尉遂げにけり

幽明境異にして 神人の境垣あれど 通う心に魂の声

なぜに隔てのあるべきや 誓しことば そのままに永遠に

皇国護るらん 柿崎中尉護るらん

天武隊(伊47、光)  柿崎中央

柿崎書く

妙法寺

山形県酒田市

柿崎少佐 墓碑(右の石柱)

墓碑に彫られた「告別の詩」

告別の詩

家郷一夜夢成功 決然立上征々途

回天事業唯一挙 秋冷満月以我心

(HPから)

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