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慰霊祭に参加して

        藤井伸之

戦争をめぐり生命を国に捧げた人にもいろいろなケースがあった。即ち武人の本懐これに過ぐるものなしと戦場に散った人、またそれを念じつつ不運にも殉職した人、そして戦争中は武運に恵まれ、幾度か直面した危地を脱し、終戦を迎えながらその後におい殉職した人もいる。

イ三六三潜の殉職者はこの最後のケースであった。去る六月十九日、同艦殉職者慰霊祭が呉集会所において行われられたが、その中には今は亡き級友、泉 君も含まれていた。

 

 イ三六三潜の概要

 本艦は輸送用潜水艦として考案されたイ三六一型の一艦として、昭和十九年七月八日、呉海軍工廠において竣工した。排水量、水上一、七七八・九屯、水中ニ、一四六屯、全長七三・五米、巾八・九米、速力水上十三節、水中六・五節、安全潜航深度七五米、航統力水上十節―一五〇〇〇浬、水中三節三節一二〇浬、兵装十四糎単砲一門、二十五粍機銃二挺、貨物搭載能力人員一一〇名、荷物艦内六二・五屯、艦外二十屯、併しイ三六三潜その他若干隻は二十年春回天を搭載するため改造され大砲は撤去された。

同艦は、補給は断たれ飢えと病気で五千人の生命の消えた悲劇の島メレヨン島に対する作戦輸送、南鳥島に二度行動しており、更に二十年五月以降2回にわたり回天特別攻撃作戦に参加した。即ち轟隊としてウルシー方面洋上に、多聞隊として沖縄東方海面に、それぞれ行動し終戦を迎えた。

 

 遭難の状況

 終戦後、呉在泊の潜水麓は各艦型(イ号、ロ号、ハ号)を含め二十余隻におよんだ。終戦処理の一環として二十年秋、対日理事会の決議に基づき、GHQの指令によって、これ等の潜水艦は三群に分れて佐世保に回航することになった。

 イ三六三潜は艦長 木原栄氏(66期)以下三十五名の乗員が乗艦し、イ三六六潜(艦長 時岡隆実氏67期)、ハ二〇四潜(艦長 重本俊一氏70期)その他数隻の潜水艦と共に十月二十七日午前、思い出深い呉を出港して佐世保に向った。

 当時の終戦処理に従事した人達の心境、ないしそれをとりまく社会情勢については、一応の安定をみた今日、それを想像することは、きわめて困難であろう。終戦直後の世の中の混乱はわれわれの未だかって経験したことのないひどいものだった。併しその中にあって、黙々として終戦処理業務に従事した人もあったのである。

 級友、泉君は終戦後一度復員したが、潜水艦回航のため間もなく呼び出され、思い出多き、イ三六三潜に乗艦した。各艦共、長期間に亘る停泊に加えて極端な減員をもって航海しなければならずその苦労も一入であった。

 呉出港当日は、まず平群島(伊予薄)に、翌二十八日は細島港に立ち寄った。次いで二十九日油津港に向ったが、この行動中に全く予期しない事故が発生したのである。即ち日没前に油津着の予定であったが、〇八〇〇頃から荒天に遭遇、間もなく雨も加わって、予期した速力は到底出すことができなかった。従って推測航法のみに依存せざるを得なかった訳であるが、このような状況では、それも困難をきわめたことであろう。また僚艦相互の通信連絡も中波を使用して必要の都度行なうことになっていた。

 伊三六三潜の後方を進んでいたイ三六六潜の艦長時岡隆美氏に聞いたところは次の通りである。時岡氏が昼食後艦橋に上っていったところ雨の中にイ三六三潜が右に回頭しているのをかすかに認め、そのような運動をするからには何か信号を送ってくるに違いないと思い注意したが、何の信号もなく、姿は雨中にかくれた。あるいは油津の入口がわからないのでイ三六六潜の後方についたのであろうかとも思われたが、それにしても不審な行動だなと感じた。勿論、中波による通信連絡も全くとれなかった。日没までに油津港に到着しなければならないので、その儘進み、やっとの思いで油津の入口を発見して港内に入りその入口近くに投錨した。日没後、入港してくる潜水艦の舷灯を認めたが、それはハニ〇四潜であり、夜半になっても遂にイ三六三潜の入港を確認することはできなかった。

 イ三六六潜艦長は、イ三六三洋が正常の状態で、ハ二〇四潜よりも遅れて入港することはあり得ないので、同艦の安全に関し不安ありと判断し、呉及び佐世保に無線で連絡した。

 ハ二〇四潜は錯がなく、イ三六六潜に横付けの予定で数回試みたが、荒天のためそのつど舫索が切断したので横付けを断念して漂泊中、坐礁し、離礁不能となった。従ってイ三六六

潜はその処理のこともあり、二日間停泊した後、単艦で枕崎、牛深経由佐世保に回航したが、牛深にて入手した新聞によりイ三六三藩沈没の消息をはじめて知ったのである。その後調査の結果同艦は日南海岸沖に上陸阻止の目的をもって敷設された機雷に触れて沈没したものと推定されるに至った。今回の引揚げ作業により、機械室下部に、触雷によると思われる破孔が確認された。

 終戦直後の混乱期であり、天気予報も今日のように適確でなく、長期間の停泊の後の、少人数による回航であり、敷設された機雷に関する情報が適確に所要の向きに伝えられて

いたかにも疑問の余地がある。

 当日の荒天に遭遇した人達の言によれば、海中に飛び込んでも奇跡を伴わない限り、生存はおぼつかないとのことである。事実奇跡的に助かった人が一名あり、現存している。

(触雷後総員上にあがるように命ぜられ、艦位その他に関し所要の注意を受けた後、大部分のものは荒海の中に入った模様である)なお、当時の先任将校、森山祐氏は交通艇(艦載水雷艇)を関門経由、佐世保回航のため別行動し、難を免がれた。

 

 慰 霊 祭

 四十一年四月二十一日からイ三六三潜の引き揚げ作業を開始、その船体を解体し、泥の中に埋もれた遺骨が前部発射管室及び機械室において一体ずつ発見された。

 本年五月木原艦長未亡人他二名の遺族閑係者が解体現場をみられ、イ三六三洋の生存者および遺族の方々が慰霊祭を計画される契機となった。発起人は、木原艦長夫人天野一枝、先任将校森山祐(71期)、前先任将校本中貞夫(71期)の三人であり、海上自衛隊第一潜水隊群司令筑土竜男海将補、および関係者の協力によって慰霊祭の実現をみるに至った。

 当日の参列者は、遺族三十五名、生存者十一名の他関係者を加え約一〇〇名、七十二期では佐藤秀一君と小生。

 木原艦長夫人は遺族を代表して挨拶の際、万感胸に迫ってその言葉も途切れ、遺族の心情察するに余りあるものがあった。激戦に生き抜いたにも拘らず、紙一重の差で不測の事故にあい、幽明境を異にされた英霊に対して安らかに眠られるよう、心から祈念した次第である。

 慰霊祭の行なわれた六月十九日は、私の乗組んでいた空母大鳳がマリアナ沖海戦で沈没し、級友、鶴田功、高木滋男の両君が戦死された二十三回忌でもあり、その意味でも感無量なるものがあった。大鳳について戦後まれながら記事が雑誌等に記載されたことがあるが、事実と相違する処が散見されるので遠からずまとめてお知らせすることにしたい。