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平成21年5月16日

『おれはもういいんだよ』

兄・石川時雄

*石川誠三 昭和20年1月12日グァム島アプラ港海域で戦死。海軍少佐。21

「昭和1911月のある日、うすら寒い広島駅頭で掌を握って別れた。固い掌だった。大きな掌だなと感じたが、三十年後の今日でもなお印象深い。そして、それが弟との最後だった。

 その前日、誠三は酒を一本ぶらさげて思いもかけず、ふらりとやって来た。広召中の私は、広島勤務で母と借家住いをしていたのである。その夜は母の手作りの料理を肴に盃をかわした。頭髪を長くして澄んだ鋭い眼つきの弟は、これが最後の別れになるかと思わせる何ものかがあったが、そんな話はおくびにも出さず、飲み食い、そして歌った。「さあ、兄さん、もう寝ようよ」と言って、私をひょいと抱きあげ、「軽いなあ」と寝床に運んでくれた、その感触は今もなお生々しい。

 年改まって昭和20年を迎えたある夜半、母が突然「時雄さん、誠三は死んだよ」と低い押し殺した声で言った。夢枕とか夢見とかはあまり信じない私だったが、虫の知らせが母にはあったのかと思った。それからほどなく、私も同じように夢をみた。海軍の白い制服を着た隊列が、整然と海浜で行動している。そのなかを誠三だけが、ひとり紺の士官の服装で私の方にやってくるのだ。
 
「どうしたのだ?」という私の問いかけに、「いやあ、俺はもういいんだよ」と答える。そんな夢だった。
 
しばらくたって、1月12日に戦死した旨の公報、新聞発表があった。母や私の夢が正夢で、「俺は、もういいんだよ」と幽明境を異にしていたことを知り、霊感・霊夢といったものがあることをしみじみと感じた次第である。
 
1月に戦死して、その年の8月に戦争は終った。敗戦の混乱の最中、10月のある日に私は大津島を訪れて誠三の上官、戦友各位の歓待を受けた。お心づくしのウィスキーをいただきながら、まことに若気の至りというか、「特攻」に対して批判めいた言を吐き、「いくら石川の兄貴とは言え、容赦ならぬ」と、若い元士官たちを怒らせた苦い思い出もある。その折りのことをご寛恕を得たいと思う。
 
翌日、誠三と同期の三宅様のご案内で、つぶさに島内を見学させていただいた。回天の機体の中にも入れてもらって、しばしのあいだ瞑目沈思した。
 
故郷の水戸の墓地に遺骨の箱を埋葬し、亡き父と並べて石碑を建立した。「誠三さんが一番先にお父さんのお酒の相手に逝ってしまったのね」と涙した伯母も、「功三級は何んといっても水戸の石川家の名誉だ。石碑には功三級を一番初めに彫りなさい」と言っていた伯父も、ともに今はすでに亡い。
 
誠三は男ばかり四人兄弟の三男坊である。幼少の頃は並より小さかったが、あまり人手をわずらわすこともなく、兄弟にはさまっていつの間にか大きくなっていた。一風変わった一徹さというか、集中心の強い子であった。地理が好きで、地図をにらんだら何時間も動かない。気に入った本を読み出したら、家人がいくら大声で呼びかけても返事をしない。そんな風だったから、雨がやんだら、およそまともに傘を持って帰ったことがない。朝はいて出た長靴をどこでどうなくしたのか、「かたや長靴、こなた裸足」のいでたちで、平気で帰ってくる。これには母もあきれて吹き出したことがあった。
 
中学に進んで身体も人並みに大きくなり、兄弟のなかでは勉強もよくでき、学者だった祖父や教師だった父に似て学究的な方面で身を立てたら……と思えるタイプに成長していくかに見えた。しかし、風雲急迫する時局下、海軍兵学校に進んだが、そのころ兄弟4人がそろう夏休みは2年間ぐらいだったろうか、会うたびに大きくたくましくなってゆく誠三に、私は目をみはる思いだった。
 
今年は早や30周年を迎える。この間、ご関係の方々のご尽力によって回天の顕彰もとり行われ、記念館も竣工した。数冊の書籍も刊行された。肉親としては、そのつど複雑な感懐をおぼえるのである。
 
以前、大阪の中之島公会堂で海軍合同慰霊祭があった。出席して誠三の同期の数名の方にお会いした。それぞれ社会の第一線でのご活躍を示す名詞をいただいた。
 
「お兄さんですか、誠三君によく似ておられますな」と言われたが、私としては決して口には出さぬが、この方たちが誠三の同期生かな、と半ば疑わしい気持ちで四十代半ばの紳士たちを見つめるのであった。私の胸中に30年間生きつづける誠三とは、あまりにもかけはなれていて、焦点が合わないのである。
 
昨年の夏には毎日テレビで『還らざる青春 人間魚雷・回天』の放映が計画され、仁科様と誠三が取材の対象となるとのことで、真継不二夫様より再々お便りをいただいた。30年たった今日、なおテレビで放映、顕彰されてみると、また改めて誠三の戦死をかみしめるのであった。当日は一家中でテレビを凝視した。誠三の遺影、遺墨とともに取材された母の声音は思ったよりしっかりしており、たんたんと語るその語り口は、かえって私の胸をしめつけた。
 
取材に来られたという話を母にした時、母は「ありがたいお話だけど、この私がテレビに出るのかね。そーっとしておいてほしいのだけどね……」と、私に言った。静かに胸の奥深くに抱いている子供の誠三のおもかげに、思いがけぬ波風が立ったのであろう。
 
私はこれまであまり式典に出席もせず、記念館も参観していない。病母を案内できぬからとか、仕事の都合上でとか言うのがその理由だったが、これは正直のところ、どうしても心にわだかまるものがあったからにほかならぬ。私の誠三は、広島の駅頭で握手して別れたまま、もう帰ってこない。胸中にあるのは、澄んだ鋭い瞳の若い青年士官である。そして、ともに暮した幼いころのヤンチャ坊主である。私は私だけで、または母とともに、静かに胸中に誠三の面影を抱いている。それでいいのだ。よけいな口出しや手出しは要らない、と考えていた。
 
しかし、それはあまりにも狭量であった。私も昨秋長い病床に伏して、感ずるところがあった。そして、このような一文を草する機会に恵まれた。この拙文が誠三をご存知の方々のお目にとまり、偲んでいただく切っかけにでもなれば、よい供養になると考えて、つたない筆をとった次第である。また、私は気も新たにして大津島を訪れ、ゆっくりと参拝・参観して、改めて回天の偉業を偲び、若くして征った神々たちのご冥福を祈りたいと思っている。
 
戦後このかた、回天顕彰のため時宜折々の慰霊の式典、記念館の設立等々にご尽力下された方々のご芳情ご厚志に深謝し、この記念の年に回天追悼記の編集刊行の労をとられる鳥巣様初め皆々様に心からお礼申し上げます。」 

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