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平成22年4月28日 校正すみ

紫電故で散華した兄 海軍大尉 橋本達敏

橋本 一成

橋本 達敏 紫電改

昭和20年4月12日、愛知県中島郡平和町中三宅出身の青年士官が、戦闘機紫電改に乗って戦死しました。大正101213日生まれで23歳と4ケ月でございました。

昭和15年春津島中学校(愛知三中、現津島高等学校)を卒業しました。兄の属しました三四三航空隊は、第2次大戦末期に本土防衛のため四国の松山で編成された最後の戦闘機部隊でありました。司令は海軍の英才源田 実大佐が任命され、戦闘機隊3、偵察隊1の4飛行隊から成って居り、昭和1912月中旬編成されました。兄はその中の戦闘三〇一飛行隊に属しました。寄せ集めの部隊のため各隊員の間のなじみが比較的うすく、すぐ空襲下の猛訓練、激戦、部隊の移動、多数の戦死傷、敗戦と激動をえましたので、敗戦のあとでは横の手がかりを失ない兄の話は殆どわかりませんでした。昭和52年7月生存隊員の皆様の手で行なわれました三四三航空隊の33回忌の慰霊祭の機会にはじめて生存隊員の皆様方とお会いしましたが、悲しい事に兄の記憶は殆ど失われようとして居りました。その僅かなお話をさせて頂きたいと思います。

 

一、子供の頃の兄

私は昭和7年生まれで兄より11歳下でございまして、兄が海兵へ入りました時は小学校2年生でした。それから戦死までの5年間帰省の折りに会うだけの縁うすい弟でございました。夏休みなどは近所の小川へよく釣りに連れて行ってくれました。乏しい小遣いの中から組立ての模型飛行機を買ってくれたりした優しい兄でございました。

兄は小学校時代ひどくのんびり屋で、ちっとも勉強をせず、毎日小川で魚つり、魚すくいに熱中していたそうでございます。その為か中学校の入試におちまして1年おくれて居ります。5年後25倍の関門をくぐり抜けて、海軍兵学校に合格するとは人間の才能はわからないものでございます。翌年又、中学校を受けようとしましたら、受持ちの先生から「君の頭では無理だ」とこっぴどく言われたそうでございます。この時、兄は発奮したようでございます。

 

二、師範学校から兵学校へ

江田島より帰省した時もよく先生を訪問して、先生も喜んで下さいました。先生に「あの時は君に失敬な事を言って教師として反省して居ります。」と言われ、兄は「いいえ、あの時の先生の御言葉がなかったら今日の自分はなかったものと思います。」こんな話が交わされたそうでございます。中学時代、自分の下着は母や姉に洗濯させては申訳ないと自分で洗って居りました姿を姉は今も記憶して居ります。

私は兄が門の所にあった大松の枝に綱を垂らして、よじのぼりの練習をしていた事を思い出します。枝に腰を掛け夕日を眺めていた兄は何を考えていたのでしょう。冬の寒い時は子供を背負う時の胴着を着て机に向っていた事を思い出します。

中学5年で海兵を受けましたが、途中発表を見て帰ってから「番号をまちがえたような気がする」と言い出し、もういっぺん見なおして来たらと言う家族の声に「そんな恥づかしい事は出来ない」とやんちゃを言い出し、とうとう翌日から捨ててしまいました。確か暑い8月の受験に兄も頭に来たのでしょうか。まだ、そんな頃は神経質な少年でもあったのでございましょう。やむなく、翌春学費の安い師範学校へ入りましたが、海への希望忘れ難く再度海兵を受験致しました。出身校が師範学校とは珍しいケースのようでございます。

師範学校を中退する事は公費の補助金の関係など難しかったそうでございますが、校長先生のはからいでやって頂いたそうでございます。「橋本達敏退学を命ず」と黒板に書かれた掲示をみて、師範学校で級長をやる程の者がどうしたのだろうと、全校の話題となったそうでございます。

自然に親しみ烏や魚を友として育った兄は故郷を愛し、国を愛する純真な若者に成長して行きました。三宅小学校は陸軍海軍合わせて7将官を出し、名門校と言われました。当時海軍次官や海軍大臣をされました大角峯生海軍大将は、三宅小学校の大先輩でございました。大角大将の生家は私共から200メートルばかりの近所でございます。恐らく兄の希望に大きな影響があったことであろうと思われます。

 

三、最後に会った兄

昭和191117日夕方、突然兄が軍服姿で家へ帰ってまいりました。当時居りました神奈川県の厚木基地から戦闘機雷電を4人で、三重県の鈴鹿基地へ受領に来たついでに立寄ったとの事でした。家中大喜びで、とっておきの砂糖で大好物のおはぎを作り食べさせました。おそくまで語り合い送り出したのは翌朝まだうす暗い時でした。

家族は村の氏神様の前まで送りました。兄は振り返り振り返り、道を曲って見えなくなりました。勇ましい立派な姿でした。それが家族にとって此の世の別れとなりました。

私は小学校6年生でした。その後、松山基地から、2〜3回便りがあったように思いますが、確かな記憶はございません。

兄が生前言って居りました「便りのないのはよい便り」と言う言葉に一縷の望みを託してさびしい日々が過ぎて行きました。

 

四 兄の最期について

私共が兄の戦死を伝えきいたのは、昭和20年の秋、9月も終り頃だったと思います。当時松山基地に勤務をして居られました隣村の中学校時代の同級生の方の伝言でした。「橋本君は戦死した」。敗戦の悲しさ、勇士の死はいつまでも捨ておかれて遺族には届きませんでした。「便りのないのは悪い便り」でございました。ある程度覚悟はして居りましたものの父は驚いて、方々問合わせの手紙を出したのでございます。その時転送されて来ました三四三航空隊の海兵72期同期の大村哲哉中尉のお手紙の一節を紹介させて頂きます。

「橋本君は全く温厚真面目な男で、たばこも酒ものまず遊ばざる事は論を待たず。肥えた体を飛行服に包み、血色よき顔に常に微笑を浮かべ早朝より待機に訓練にはげみ御奉公に専念す。私室に帰っては小生共と盛にみかんを食い、談笑するを常とせり。「貴様は食い気一点張りだ」と小生共も言い、彼も又自任し居り全く清き生活と申すくべ候。沖縄作戦始まるや三四三航空隊の第1回進出に加わり、彼は、童顔に笑みを浮かべ 「行ってくるぞ、願います」と残し進出、4月12日戦死せる当日は午前7時頃サイダー瓶を持ち、実に嬉しそうな顔にて出発せる由、小生14日に鹿屋に進出せる時はすでに、不帰の客となり居り候、整備兵に至る迄彼の戦死を惜しみ、人望の如何に厚かりしか知り得る事と存じ候」。読み返しては涙を禁じ得ない一節でございます。戦場に置くには場違いなまでにやさしい兄でございました。上から男子3人が天折した我が家の当時60歳の父と、病気がちの母と、兄からみて姉1人妹3人弟1人と女の多い兄弟が気になって兄は無駄使いをはばかったのでございましょうか。家族思いの人でありました。

三四三航空隊が豊田副武聯合艦隊司令長官より感状を与えられました20年3月19日の兄の様子はかなりわかりました。3月19日は土佐沖に接近したアメリカ軍の機動部隊から発進した400余機の艦載機が瀬戸内西日本方面を襲った日でございます。むかえ撃った三四三航空隊は、そのうち50余機を撃墜し、損害として8機を失いました。隊員の伊沢秀雄飛長から次の話をきかせて頂きました。

「その朝紫電改が全部出発し、整備中の機が2機出来上ったので中尉と私があとから出撃し、淡路島上空附近で隊と合流してから空中戦に入り、別れ別れになり、私は撃たれて墜落し、気が附いたのは3日後の病院でした。」その後兄と連絡の絶えた伊沢飛長は、兄の戦死を3月19日と記憶しておられました。その日松山基地に帰りついた兄の飛行機は大勢の人が見て居られます。その時兄は低空飛行だったのか或は一旦着陸したのかは定かではございませんが、隊員の三上(旧姓堀)光雄上飛曹はその著書「紫電改空戦記」で次の様に書いて居られます。

「松山基地を襲った3波目の艦載機が去って暫くすると、呉軍港を襲い松山基地東方を南下して土佐沖の空母群に帰ろうとする数10機の編隊が現われた。われわれが忌々しい思いにかられ乍ら、空を仰いでいる時、滑走路をゴォーッと全馬力をかけて離陸して行く1機がある。「あれは誰だ?」 「橋本中尉だ」

「あの大編隊に突込むつもりかな」と我々は不安に思いながら見まもった。橋本中尉は飛行学生の教程を終わったばかりの青年士官である。色の白いおとなしい人で、部下に訓示を与えたり叱責したりするときなど顔をボーッとあからめるほどである。

学習院出身だと聞いていた。橋本機は後上方から矢のように敵編隊の中へ降下して行った。中尉は単機で数10機の敵に戦いを挑もうとしているのだ。「帰れ、帰れ、無茶をするな」と見まもる人々は口々に叫んだ。純粋な勇敢さは賞讃されるべきだが、飛行時間数200300時間に過ぎない人が、うようよするグラマンの中に飛び込めば、自殺行為に終わるのは見えすいている。敵の編隊の最後尾が乱れて、格闘戦が始まった、それもやがて我々の視界から消え去った。果して、橋本中尉はそのまま未帰還となったのであった。」

兄は18年9月、海軍兵学校卒業と同時に霞ケ浦海軍航空隊に配属され、20年2月頃迄にすでに1年数ヶ月の経歴があり、飛行時間は5〜600時間にはなっていたのではないかと思われます。かなりな技量になっていたのではないかと思われます。多くの人々が兄は3月19日に戦死したと記憶されて居りますが、兄は無事帰って来たようでございます。朝からの激戦で弾丸がなくなったのか、燃料が切れたのか、不時着したのか、落下傘降下したのか、今となってはわかりませんが、よくぞ戻れたものだと思います。

かつて赤れんがの監獄と言われた海軍兵学校の激烈な訓練にもよく耐え、兄は中流農家の出身乍ら、隊員の方から学習院出身の華族と思われていた品のよい心の美しい青年士官でありました。数10機の敵機と言いますとまるで蜂がむらがるほどの状態だったそうであります。兄はそれを恐れぬ勇敢な人でありました。見敵必戦のスローガンのもと強い責任感があったのでございましょう。

九州進出は4月3日頃だったようでございます。その頃、南の方では世界史上最大の陸海空の戦いと言われました、沖縄戦が戦われていました。日本軍は沖縄戦で飛行機を8,000機失ったと言われる程の激戦でございました。4月12日、菊水二号作戦により、特別攻撃隊の進路をあけるため、鹿児島県の鹿屋基地を発進した三四三航空隊42機のうちエンジン不調のため8機が引返し、34機が約80機のアメリカ軍戦闘機と遭遇し激戦となりました。そしてアメリカ軍機23機を撃墜しましたが、我が方の損害も未帰帰還11機不時着5機を出しました。そして兄は武運つきて11機の中に入ったのでございます。当日は春の快晴でありました。喜界島村附近の青い海原のどこに消えたのでしょうか、手がかりは全くなかったようでございます。

第2次大戦で死んだ人々は敵味方合わせたら幾千万にも上りましょう。愛する人々を失った人々の欺きの声ははかり知る事の出来ない大きなものでございましょう。平和な現在、世上の盛大な葬式をみますと戦火に死んだ人達の無残さに思いが及ぶのでございます。当時は皆そうではございましたが、兄の短い生涯は後半分克苦と勉励の連続でございました。そしてその報われなかった虚しさを思いやるとき、私の胸は痛恨で(うず)くのでございます。少尉中尉は砲弾のえさという言葉がございました。戦史に残る事もありません。20年3月19日、戦死の渡部幸博中尉、20年5月4日、戦死の川端 格中尉のお2人も御同様でございます。兄も又名もなく栄光もなく声もなく、任務を甘受して三四三航空隊の亡き200余柱の仲間に入りました。戦乱の世にめぐり合わせ、戦場に果てるしか道のなかった美しい兄の魂よ、何処に在すか。貴方には何を捧げたらよいのでしょうか。私は、暗然と絶句するのみでございます。何卒皆様、戦争反対の願いを込めて三四三航空隊の亡き人々のため、暫しの冥福の祈りを捧げて頂きますならば、遺族としてまことに嬉しく存じます。

法名は雲翔院釈達敏でございます。

 

五 兄を知る人たち

次は海軍兵学校の出身者の戦没者数であります。その数の多さ意味の重さに思いをめぐらせて下さいませ。

昭和15年卒業     68期 288名中 戦没202

昭和16年卒業     69期 342名中 戦没221

昭和16年卒業     70期 432名中 戦没286

昭和17年卒業     71期 581名中 戦没329

昭和18年卒業     72期 625名中 戦没335

昭和19年卒業     73期 898名中 戦没283

×  ×  ×

三四三航空隊の生存隊員の方の便りを頂きましたので紹介させて頂きます。

桜井栄一郎上飛曹(4月12日 1機撃墜)

昭和20年4月12日は、私が橋本中尉の2番機として出撃致しました。私の機は離陸直後からエンジンの調子が悪く、飛行場上空で3、4番機が編隊を組む時も遅れ、大分遅れて橋本中尉と編隊を組みました。喜界島上空で敵戦闘機80機と戦いましたが、空戦中橋本中尉と離れ離れになり、エンジンの不調を気にし乍ら、鹿屋基地へ帰った後、はじめて橋本中尉と3番機の甲飛10期の同期生新里光一上飛曹の末帰還を知った次第です。エンジンの調子さえ良ければ、あの時離れ離れにならなければと悔まれてなりません。温厚、真面目、酒もたばこもやらず、肥った血色のよい顔、隊員の人望の厚かったお顔を思い出す事が出来ます。

×   ×   ×

田村恒春飛長

橋本分隊士(陸軍で言えば小隊長)は温厚で部下の面倒見もよく、私など華族で学習院の出身と記憶していた様な次第です。そして内に秘めたる攻撃精神は搭乗員の鑑でした。

橋本様からのお手紙を私の妻に見せました所、涙を流し乍ら読み終り「どうしてこんな立派な方が死ななくてはならないのですか」と戦争の悲劇を呪って居ります。今は只橋本分隊士のご冥福を夫婦共々心からお祈り申上げる次第です。今後は、日本の平和の礎となられた橋本分隊士を始め、戦友同胞の死を無にする事なく余生を送りたいと思います。

(なにわ会ニュース44号17頁 昭和56年3月掲載)

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