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平成22年4月28日 校正すみ

終戦時の橋口 寛大尉 の状況について

(足立喜次大尉談話)

平成8年1月5日

昭和20年7月15日付 駆逐艦楢航海長から第2特攻戦隊司令部付の発令を受けて大津島に着任。「研究員」を命せられ、専ら回天10型について準備した。8月15日正午、玉音放送を聞くよう予め言われていたので、大津島士官宿舎の2階でラジオを聞いた。やや雑音が入ったが、意味は明瞭に判った。事前に、8月16日に平生に転勤するよう命せられていたが、その必要があるのか、これで疑問が生じたので、大津島分遣隊指揮官板倉光馬少佐に如何すべきか相談したところ、仕事がある筈だから予定通り行けとの指示があり、16日、平生に着任した。平生基地には出撃直前の同期、橋口 寛大尉がいた。橋口大尉は6月1日に大尉に進級しているのに、肩章、襟章は中尉の儘であった。それで足立大尉は自分の桜のマ一クを分けてやった。翌17日の夜を過ぎ18日未明、橋口大尉は、その貰ったマークで大尉の肩章に直した軍服を身に付けて自決した。自決後の橋口大尉の状況について足立大尉は、正視するに忍びなかったので詳しくは見ておらず、今はっきりとした記憶がないと言う。

注1

橋口大尉の自決の日が8月18日であることは上記事実からも立証されるが、彼が大尉の肩章、襟章を用意していなかった事は 不自然ではない。72期は大津島でも搭乗服、整備服には大体、階級章を付けていなかった。私(小灘)も当時の気風として階級には関心がなく、隊内では階級章を付けなかった。これは回天隊のアルバムが証明している。橋口大尉は出撃直前でもあり、隊内、潜水艦内の生活に今更要らないと思っていたであろう。

注2

足立大尉によれば、大津島の幹部が玉音放送を聞かせなかったなどと言うことは絶対にないが、各自で分かれていろいろな所で 聞いたので、中には聞かなかった人がいた可能性はあろうとの事

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