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平成22年4月28日 校正すみ

福 田  英 君

榊 愛彦(学習院同級生)

 

「福田機遣らず」という本がある。この本は福田君の父上(貞三郎氏・元海軍少将、我々の学徒出陣時の大竹海兵団長)がまとめられたものである。父上が、英君に対する思い出のためだけでなく、戦死した父上の部下に詫びる心で編集なさった旨が序文に記されている。本文のなかには、坂野の書いた追悼文も掲載されている。

私はこの一文を書くに当たって、この本を下敷きとし、寺村義郎氏(71期浜尾君と同期、福田君戦死時の上官、元空将補)のお話と、更に戦史叢書も調べて、それらを加味した。

福田君は鎌倉師範付属小学校から中等科に入った。父上は英君を気品ある海軍士官にしたいと思い、学習院を選ばれたという。福田君は浜尾君の1年後の1512月、高1のときに兵学校に入学し、18年9月に卒業した。もしも兵学校に入れなかったなら、外交官になって国家に尽くしたかったという。

卒業生625名中、福田君を含む306名が飛行学生となり、19年7月まで、霞ケ浦や神の池で操縦訓練を受けた。

19年8月から12月までは、台湾の高雄航空隊に勤務した。10月には内地に出張していたので、台湾沖航空戦には参加していない。武者小路が高雄の飛行場に、そして榊がその付近に居たのはその後のことだから、2人とも彼と会っていない。

12月には厚木の航空隊(第三〇二海軍航空隊、略称302空)に転勤した。ここで福田君は、雷電という防空用の戦闘機に乗って何回もB29を邀撃した。20年1月には、エンジン故障のために不時着し、福田君は人事不省になるというアクシデントもあったが3月には全快し、再び厚木に戻った。

硫黄島が陥落し、米軍はここに戦闘機隊の基地を作ったので、4月7日以降、P51戦闘機がB29に随伴して本土に来襲するようになった。福田君はこのP51と交戦し、4月19日に戦死した。以下、戦史叢書(海軍編)から抜粋する。(かっこ内と振り仮名は榊の注)。

「この日1000(午前1000分)ごろ、P5140機が関東地区に来襲した。P51の単独来襲はこれが最初であった。

(中略)小田原付近で数群に分かれて関東地区の飛行場を来襲した。これに対して302空は雷電19機、零戦10機をもって厚木上空で邀撃した。我が雷電、零戦をしのぐ性能を持つP51を相手として善戦したが、我が方は雷電3機を失った。」 陸軍編では60機が来襲したとなっており、レーダーの性能が悪いため、低空を飛来する小型機を発見するのが遅れたこと、陸軍ではP51との交戦は避けよとの命令が出ていたことが記されている。

敵発見が遅れたので、塔乗員が雷電や零戦に乗らないうちに、敵10数機(8機という説もある)が厚木飛行場の上空に飛来し、並んでいる雷電、零戦に銃撃を加えたので、数機が炎上してしまった。福田君と彼の部下1人は、銃撃が終わると真っ先に愛機に飛び乗りこの2機だけがまず離陸した。離陸直後はスピードも遅いし、優勢な敵が上空で待ち構えている中を、しかもたった2機で飛び上がるのは明らかに不利である。しかし、福田君らは不利を承知で敢然と戦を挑んだ。

福田君と彼の部下は、保土ヶ谷上空で敵8機を捕捉、空中戦となったが、結局、福田君は敵の銃撃を受け、敵弾が後頭部に命中、同時に機は空中分解し、火を吹きながら、横浜市旭区白根町1600の山林に撃落した。4月19日の1025分であった。そのとき福田君は中尉で、戦死して大尉になった。墜落した山林は、偶然にも、昔から福田山と言われていたという。厚木飛行場から直線距離にして僅か9,000メートルの地点である。福田君の部下もこの付近で戦死した。福田君の交戦相手は、米空軍第15戦闘機連隊のエース、タップ少佐であった(榊の調べた限り、そのように推定してほぼ間違いない)。

軍人、特に戦闘機乗りには、大変気性の激しい人も多かったが、福田君は実に温厚であったという。浜尾君、福田君の両方を知っていた歴戦の勇士から、「普段勇ましそうに振る舞うことと、いざというときに勇敢だということは全く別の話です。浜尾君や福田君のように温厚で勇敢というのは学習院出身者の特色なのですかねえ」、と言われ、有難いやら誇らしいやら、何とも複雑な気持ちであった。

福田君戦死の報を聞かれた数日後、御両親は福田山に行かれた。空中戦を目撃した人たちから、その時の模様を詳しく聞かれ、福田君たちが勇敢に戦ったことに安心されたと同時に、改めて深く悲しまれたという。

戦後、御両親は墜落現場に近い正円寺に、福田家の墓を建てられた。今は父上も、英君と共にこの墓に眠っておられる。

(編者注、本稿は福田英の学習院のクラス会(榊愛彦氏)から72期クラス会(門松安彦宛) に贈られた「亡き友を偲ぶ」第1集の一部である。)

(なにわ会ニュース51号17頁 昭和59年9月掲載)

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