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平成22年4月18日 校正すみ

土井輝章中隊長の最期

左近允尚敏

土井 輝章

11月上旬、熊野戦没者慰霊のため生存者6名、遺族26名と共にフィリピンを訪れた。熊野が沈没(19225)したサンタクーズ湾(ルソン西岸、マニラからバスで約6時間)で慰霊祭を実施したが、戦死者はそれまでの累次の戦闘を含め485名であり、小沢易一(兵)、井ノ山隆一(機)の両君が沈没時の戦闘で戦死している。

私はまもなく内地に帰ったが、生存者のうち士官の一部と下士官兵の大部は陸戟隊に残され、さらに482名が戦死した(終戦時の生存者は143名で、内訳は現在まで連絡のとれない者74名、戦後死亡10名、連絡がとれている生存者59名)。

私がマニラに移ってから、木曽の甲板士官だった土井輝章君と水交社で会ったことや、熊野の先任下士だった河村清一氏が手記の中で土井中隊長のことにふれていることなどは、先年なにわ会誌で紹介した。

今度の旅行には河村氏も参加し、マニラ市内では声涙共に下る当時の戦況報告があり、一同深く胸を打たれて聞き入ったのだった。土井君の話もしばしば出て、同氏が土井君を深く尊敬していることがよく分り、クラスの一人として本当に嬉しかった。私は同氏に対し、なにわ会のために一文を乞うたところ、帰国後早速書いて送って下さったのが、次に掲げる手記である(やはり陸戦隊に残され、病に倒れた熊川博君(熊野測的士)の消息については、残念ながら同氏も全く承知していないとのことである。

 

土井中隊長の最後

 清一(熊野先任下士官)

現地慰霊祭では大変お世話になりました。

泉下の英霊、少しは慰められた事と思っております。

あの節お話し申し上げたうち、土井中隊長の事に付き説明出来なかった事を含め、お話し申上げます。

吉田邦男大尉(熊野3分隊長71期)はパコ小学校で陸戦隊編成と同時に入院、以後は土井輝章中尉が先任小隊長として中隊の指揮を執って居られました。(此の時点では教育訓練・兵器の調達等)1912月の末、バコ小学校を引き揚げ、陸戦隊本部の警備かたがた、海岸(マニラ湾)よりの敵進攻に備え、陣地を構築しましたが、ここで吉田大尉は退隊、土井中尉が正式に中隊長となられました。

明けて20年1月中頃、そろそろ米軍の進攻が予想されますので、中隊は陸戦隊本部を出て、マラテ地区に布陣し、警備かたがた兵器、食糧の調達を行っておりました。中隊本部も地区内をあちこち移りましたが、結局女子大学南側の建物に決め、最後までここを本部として戦いました。

戦闘は20年2月初めより激しくなり、2月8日か9日、パコ地区の守備についていた第1大隊(大隊長清水大尉)の応援に、宮沢小隊が行き、大きな被害を受けて帰りました。これを皮切りに戦闘は激しくなって参りました。

特に2月10日夕刻、大隊本部より「明2月11日紀元節を期し、陸軍部隊は総攻撃にうつる。各中隊もこれに呼応し積極的攻撃を行え」という命令を受けました。此の命令書は私が受けとり中隊長に報告すると同時に、積極攻撃を進言致しましたが、この時私は、陸軍部隊の総攻撃という事は、米軍の上陸と共に山中に入った陸軍部隊が、マニラの海軍部隊救援のため、マニラを包囲している米軍に外部より攻撃をかけてくれる事と信じ、隊員にもその事を伝えております。指揮小隊長梶田兵曹長は2、3日前に戦死、私が中隊付兼指揮小隊長となっておりました。この頃の私は中隊長の信任を得ていたと申しますか、私の進言はほとんど入れられ、中隊長が前戦視察等で本部に不在中、私が行った独断的処置にも異論を申されるような事はありませんでした。

11日、12日と積極的攻撃をかけた中隊は甚大な被害を受けました。13日には守勢に転じましたが、前2日の積極攻撃が米軍を刺激したのか、猛烈なお返しを受ける結果となり、13日には小隊長・小隊付等中隊の幹部はほとんど戦死重傷。或る小隊では若い下士官が半数以下に減った小隊員を指揮し、かろうじて戦っているという状態でした。

13日になって陸軍部隊が総攻撃をかけるというのは、外部の陸軍部隊がマニラの海軍部隊救援のため、外部より米軍を攻撃してくれるのではなく、マニラ市内に残っていた一部の陸軍部隊が、総攻撃の名の下に敵中を突破し山中に入る作戦であった事が判明した。積極攻撃を進言した私は、中隊長の前で頭を垂れましたが、中隊長の面もちも鎮痛なものでした。

この頃には隊員の疲労も激しく、苦しまぎれに敵中に突入する者もかなりありました。中隊長も4、5日間は一睡もとっておられません。この時の中隊の所有兵器は、重機2挺、各小隊に軽機1挺、擲弾筒(てきだんとう)若干、手榴弾(てりゅうだん)、戦車攻撃用爆雷、小銃は隊員の約半数、残りは槍とい状態でした。

また、13日には、大隊本部に伝令を出しても本部が無いと云って帰って来る。私が行きましたが、本部のあった建物は破壊され、何所に移動したのか見当もつきません。兵は疲労困憊(こんぱい)その極に達しています。

そこで13日の夕刻、中隊長はマニテを放棄しマッキンレーに移動を決意されたのであります。

本部を移動するに当り、遅れて来る者もあろうと、足立上曹を後続隊として残された事等、戦史に記載の通りです。また、次の事がマニラ放棄を決意された事に関係があるかどうかは判りませんが、時々中隊本部に佐官級の方が来られ、中隊長と話しておられました。その後で私に「アパリに行く道を調べてみんか」と言われた事があります。梶田兵曹長も健在で、米軍もまだマニラ周辺まで来ていない時の事です。移動に先立ち重傷者は中隊本部に残しましたが、軽傷者はマラテの交叉点まで伴い、ここで切り離しました。その数、10数名のような気もするし、20名以上もいたような気もします。ここに残した負傷者は統率する者もなく、暗闇の敵中をさまよい歩いた事と思います。(この事を思い出すたびに暗涙の浮かぶのを禁じ得ません)

前回の旅行では確認し得ませんでしたが、今回マニラ市内で地図を買いガーデンホテルの位置を確かめましたところ、マッキンレーとは指呼の間、負傷者がさまよい歩いたと思われる地点になります。中隊長戦死の地点もホテルより千米とは離れていません。又車の中でも熊野の陸戦隊は原住民を殺していない事を強調しましたが、その通りです。陸戦隊本部より「通行の比島人男女にかかわらず全部殺せ」の命令が出ました時、私、中隊長に「どうしますか」と尋ねました。中隊長は言下に「そんな等が出来るか」とその命令を拒否されました。バスの中では現地人のガイドも居るため、この事は申せませんでした。

そしてマッキンレーに移りましたが、守備隊長小川左右民少佐は温かく迎へてはくれません。その翌日の夜マニラに切込みを命ぜられ、マッキンレーより出撃しましたが、昨夜来た時には敵も居なかったマッキンレー下の道路にも、敵の機銃陣地があり、それと遭遇し、「忠勇・義烈」の合言葉で敵と判って刺殺射殺し、横の溝に伏せて手榴弾戦となりました。この時は中隊長の傍におりました。中隊長があの機銃を取るぞと云われたので、2〜3の者と機銃を取ろうとしましたが、道路上に固定した架台に据付けられているので脱せません。機銃の下には敵兵が多数ころがり、大声で泣いている者もおりました。そのうち横の方から激しく攻撃をかけられましたので機銃のぶん取りはあきらめ一時待避して、マッキンレーに引上げ、翌日又、夜間の突入を命ぜられました。この時は前日の失敗を参考に、マッキンレーを出る時から陣容を調べ、私が尖兵として30名位、中隊長が残り100名位を引連れて出撃致しました。(両回共元からの隊員の外、マッキンレーに待避した他の部隊の者を加へられ、120130名にて出撃)この時は、前夜の失敗を繰返さないため、道路より100米〜200米南寄りの田の中を行進(道路とは今回バスの通った道路)中隊長の本隊は尖兵より100米位後方を進んで居られます。私は巾1.52米で土手の高い小川に差掛りました。前方暗闇の中に竹の繁った林が見えます。「あれまで進もう」私は林に駈けつけました。と同時に林の中より猛烈な機銃の一斉射撃に遭い、一同身を伏せましたが、機銃の僻角一杯の死角に入って居ります。頭上を曳光弾が飛び、真昼の様です。機銃の最至近距離が土手附近らしい。中隊長があの附近まで進んで居られなければよいがと思っているうち、土手附近より本隊が機銃を打ち始めました。それに呼応し尖兵は手榴弾を投げ突入して、その機銃陣地は制圧しましたが、今度は斜前方より機銃の攻撃を受け迫撃砲弾も飛んで来ます。一先ず尖兵だけ連れ斜後方の森に待避し、隊員をそこに伏せ、次の指示を受けるべく土手の附近まで行こうとしました時、下の方から「尖兵長、尖兵長」と云う声がします。駈寄ってみると一人の兵が「今中隊長が戦死されました」と云う「何処だ」と言い、彼に案内させて小川から2030米マッキンレーに寄った田の中を小川に添って捜すのですが見つかりません。本隊となっていた兵はあちこちの森や林に散って待避して居ります。田の中に出れば機銃と迫撃砲の攻撃を受けます。森に入ったり、田に出たり数回繰返しましたが発見出来ません。隊員の大半をマッキンレーに返し、明け方近くまで林に居りましたが遂に遺体を確認し得ず、マッキンレーに引揚げました。私に告げに来た兵の話では、頭部胸部に数発の機銃弾を受けられた、と言っておりました。

以上が中隊長戦死時の状況の大要です。日時は2月15日夜9〜10時、場所は先日お話し申上げた小川の南方です。ガーデンホテルよりの距離千米以内と思って居ります。

その後の私共の行動は戦史記載の通りです。

付記

 マラテ地区放棄も、同交叉点における負傷者の切離しも、次の作戦上やむを得ぬ処置であったと思います。 当時隊員は疲労困憊、敏速な行動を要する敵中突破に負傷者まで同行出来るものではありませんでした。中隊長以下隊員はこの4〜5日一睡も採って居りません。敵に攻撃をかけるにしてもどこかで一休みしないかぎり、到底戦える状態ではありませんでした。又、マラテが31特根、ミンダナオ島のダパオが32特根で両隊は連絡を取り合っていた様ですが、32根の司令官は中隊長の伯父君、土井直治少将です。土井少将は敵進攻に際し、戦い乍ら周囲の山に待避し、ゲリラ的戦法で終戦迄敵を悩まし続けております。(昨年32特根の慰霊祭に参加し生存者より戦闘状況等伺いました) マニラは2月20日過ぎにはきれいに掃除されて居ります。

また、原住民の戦闘による死者は、ダバォはほとんど無かったと云いますが、マニラでは日本軍以上の死者を出して居ります。マラテ地区でも撤退時、横たわっていた死体は、日人3、住民7位の割合でした。

今更当時の上層部の作戦を批判する気持はありませんが、武器・食糧共に無く疲労しきった兵と住民の多くを死に至らしめたマニラ市街戦闘・32特根土井少将の採られた処置と考へ合せ割り切れない気持でございます。

当時の中隊長の心境を知る者は私をおいて他にはないと思って居ります。

(なにわ会ニュース48号10頁 昭和58年3月掲載)

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