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平成22年4月29日 校正すみ

第2分隊三号

大森愼二郎

 2月28日、級会報で期友大山隆三君の急逝を知った。未だ元気に活躍しているとばかり思っていたので、驚きとともに残念であった。小生の方も3年前、心筋梗塞で緊急入院、集中治療室で一命をとりとめてからは療養に努め、思考錯誤を繰り返しながら最近ようやく病気と共存してゆく自信もついてきた状態のため、このところ会合にも中々出られず彼の健康状態をしらなかった。

 彼とは三号時代2分隊で起居を共にした間柄であると共に、当時の2分隊三号は彼と2人丈となっていたので寂蓼の感がひしひしと迫るものがあった。

 卒業後は、夫々潜水艦と飛行機整備とに分かれ再び会う事が無かったが、戦後多くの期友を失った中から生き残り、創業のブルドーザー工事(現青木建設)に勤務していると聞いていた。

 戦後始めて会ったのは國神社の参拝クラス会であった。生徒時代より少し太って貫線もついてきたが、話をしているとやはり三号の大山であった。

 其の後2、3回は会っていたが、後で中小企業診断士の資格取得等、活躍している様子をなにわ会ニュースに寄稿していたが、今年年賀状が来ないので気にはしていたが、かくも早く逝ってしまった事はかえすがえすも、残念でならない。

 彼との想い出はやはり一学年後半を同じ分隊で苦楽を共にした時代で、2分隊三号のかつての面影であった。

 入校以来6ケ月、西も東も分らない四号時代右往左往していた生徒館生活に少しずつ慣れ要領を覚えていった為か、それ迄連日の様に見舞われた巡検用意前の整列、機校名所洗濯場の石畳、トラスコの集合等も少しずつ回数も減り間隔も開いて来た頃、6月に分隊編成替えがあって9分隊より二分隊へ引っ越した。

 2分隊は51期の「パッキン」と言われた松本茂美生徒が生徒長として君臨したが、厳しい中にもさっぱりとした生徒長2分隊に移って唯一のすくいは寝室の位置が中央階段に最も近い処にあったお蔭で、前の9分隊の頃と違って朝の起床動作の際、中央階段の下で待ち受ける週番生徒の寝覚めの一発を喰う被害が殆ど無かった事である。3階の端の9分隊と2階の中央に最も近い2分隊との差は歴然、以前は時々喰った「待てー‥」をかけられる事の心配も無くなるという地の利を得た事は他の三号も同様であったと思う。

 始めて本格的に「まわし」をつけた相撲は、中学校や小学校でやる技のかけ合とは違っていた。唯押しの一手である。まわしを取るな、後へ引くな、の海軍の相撲は軽量腰高の小生や大山には苦手の訓練であった。押して、押して、転んで押すぶつかり稽古を始め、すり足、はず押し、鉄砲等基礎から徹底的にたたき込まれた。

 7月に入ると「夏はいやだよー蛇島通いの短艇橈漕、オール突き出せ櫂返!」蛇島の水泳訓練は偶数、奇数分隊に分れ一方は鳥島一周のコース、他方は特設プールで訓練が行なわれた。しかし問題はそれからで、開けの号令と共に一斉にカッターに飛び乗り、(もやい)を解き爪竿で突放し各分隊のカッターはダビッドに向って一斉に漕ぎに漕ぐ。「学生のカッターに後れるな!」後れれば後で整列が待っている。

 やがて敦賀湾内常宮へ約1週間の移動訓練が始まった。風光明媚な湾内は水も清くその間帆走訓練、2000米競泳が行なわれ、日頃の鬼の一号もあまり厳しい事も言わず、気比神宮、気比の松原の分隊行動で比較的自由な時を過ごした。

 舞鶴に帰ると、休暇前に通らなければならない7米の飛込みと遠泳が待っている。一度台上に登れば後には引けない下から一号ににらまれ誘導振、下を見ずに夢中で飛込む。頭にずしりと衝撃を受けて水中に入る。水中から頭を出して空が見えるとほっとする。

 遠泳は舞鶴湾で行なわれたが、あの年は天候も悪く三角波が立ち、くらげの浮遊する中を和舟で掃海しながら進んだ。3回の遠泳の中では一番苦労した。時局も厳しくなり休暇も10日に短縮されたが始めての帰郷、白服も汽車の(すす)で黒くなったまま家に着いた。

 休暇の後はお定まりの招集、水泳競技を最後に夏の行事も一段落したが、此の頃になると三号の顔も何となく引きしまってきたようだ。

 秋に入ると駈足練習が始まり、連日、体育訓練の後で校内やスキー場を走らされた。

 陸戦演習は、春は饗庭野で、秋は長田野で行なわれた。綾部駅から長田野迄の山路の行軍から始まった。途中の山道の脇が松林になっており、根本に松茸が3箇、4箇と頭を出しているのが見える。互いに顔を見合せ乍ら頭の中で香りを想像する。現在ならさしずめ宝の山の中を行く様なものだが、当時の我々は唯黙々と目的地に向って行軍するのみであった。

 秋のメインエベント10哩駆足競争がやってくる。編上靴ゲートル巻きの出で立ちで高浜駅前をスタート、途中峠を越えて学校迄の距離を走る。あの年は順調に上位に入ったが翌年の10哩は悲惨だった。先頭グループについていたが、松尾寺附近で急に足に痙攣(けいれん)が走り、足は上らず前に進まず、夢遊病者の様にもうろうとしながら少しでも前へと進む。期友達は次々と声をかけて追い抜いて行く。少なくも200名位は抜かれたであらう。最後の海軍道路はとくに長く感じられた。何とか学校迄たどりついたが、村上克巳から「何だ貴様、海軍道路で其の場駐歩をやっていたな!」と笑われた。始めての経験だがせめて落伍しなかったのがせめてもの幸いであった。

  三号分隊員にも訓練に得手不得手があったが、お互いに励まし合い助け合って切り抜けてきた6ケ月であった。

 時局は益々急を告げてきて1115日、一号、51期生は卒業後練習艦隊でなく直接実戦部隊へと赴任していかれた。間もなく12月8日の開戦となるが、半年後には51期の中からも戦死者が出て、顔見しりの元一号生徒からも数名が戦死された。我々も18年9月卒業後から戦線に参加するが、一緒に苦楽を共にした2分隊三号も9名中戦死6名、戦後物故者2名となり唯一人後れた淋しさは抜きさる事が出来ない。次に同じ室で苦労した期友の寸楮(すんちょ)を思い出してみる。

 佐野 寛‥太田が先任であったが病気入室の為先任を引受け、苦しい時も、一生懸命分隊の和を保つ事に努めてくれた。宮中拝謁の後、解散して駅へ歩いて行くと後ろから声を掛けられ、振り向くと彼であった。知人と一緒だったのでお互いに頑張ろうと励ましあって分かれたのが最後である。

  関谷年男…彼は気持ちの優しい性格であったが、彼の力を発揮したのは水泳競技の際、あの当時51期には諸橋生徒、秋山生徒、52期には大兵 眞木生徒が君臨していて何れも中学時代地方のチャンピオンで実力はずば抜けた存在であったので、学年対抗のリレーでは自由型は惨敗であったが、平泳ぎでは関谷、松山のコンビがいて53期の面目を保つことが出来た。整備学生の頃、よく木で飛行機の模型を作っていた。

  三田 道…級で吉森と1、2をあらそう巨漢である。眉が太く目が大きく大声でしゃべる存在感のある楽天家で、分隊内に何時も明るい雰囲気を作っていた。卒業後、翔鶴に乗組んでいた頃、追浜へ訪ねて来たが間もなくサイパンで戦死した。

 
 大山隆三…眞面目な顔をして剽軽(ひょうきん)な事を言う彼であった。秋山、眞木の両先輩のいる高松中学出身であったが、彼は水泳の方はあまり得意でなかった。瀬戸内海乗艦実習の際、高松に上陸、自由時間があったが彼の家は直ぐ近くだったので教官の許可を得て家に連絡したらと周囲の者がすすめたが、実習中であると一切応じなかった。彼にはもう少し生きていて貰いたかった。

 

 谷田哲郎…長身のすらりとした体形で、喜怒哀楽をあまり表に出さない彼であったが、海軍技師である父君の勤務の関係で、要港鎮海に在住していた事があり、その話をよくしていた。寺岡とよく二人で歩いていたが、体躯の違った二人は全く好対照であった。

 

 寺岡恭平…同じ学習院出身の中山とは全然タイプが異なり、大きなマナコ、がに股で、小さい事はハハハと笑いとばしてしまう彼であった。学習院時代の綽名(あだな)が亀と言われていたそうだが、確かに的を射ている。潜枚学生の彼と呉で話したのが最後であった。

 

 都所静世…(ひたい)の少し赤い丸顔童顔の彼であったが、案外向う気が強く「俺の生れは上州だ、上州名物(かかあ)天下に空っ風」言っていたが、その割には細かい所に気のつく優しい所があった。最後はやはり呉のグリーンで「向う横丁の煙草屋の可愛い看板娘‥」と無心に踊っていた姿が印象的であった。当時既に回天特攻への参加が決っていたと思う。

 

 大垣浩一郎…地元出身の為、舞鶴地方の地理に詳しく、日曜の外出先等彼の知識に負うところが多かった。又学年で近くへ雪中登山をした時は先導役を努め、何でも率先してやる好青年であった。

 大山の死を聞いてやはり想い出すのはあの時期の6ケ月である。一号51期、二号52期の分隊員も多くが今次大戦に散華し、全分隊員24名の中、生存者数名を残すのみとなったが、あの時期あの時代に青春をぶっつけ合った仲間達が眞先に偲ばれる。

諸先輩、同期の冥福を心から祈念してやまない。

(機関記念誌144頁)

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