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初   信

鏡  政二

 異国に八年間の獄窓生活が終った。将来に漠然とした希望と一抹の不安を抱いて帰国したのが去る七月二十一日だが、もう今日は十一月二十日、「光陰矢の如し」の警句が今更乍ら耳に痛い。

 「クラス」で最後の帰還者であり、唯一人の戦犯者として悪名を響かせたのは我乍ら誠に苦笑の沙汰であるが、此の一人の助命に心を悩まし全知を絞り全力を尽くして下された諸先輩、諸戦友に紙上乍らここに心からの御礼と長い間の疎遠のお詫びを先ず以て申上げたい。顕著な効果があったと明言し得ないかも知れない。特に誰が尽力して下されたかを知る方法もない。然しそれが敗戦後の逆境の裡で社会的地位も実力もない諸戦友の、隠れた努力であったことを思うと、有り難くあり、又敬服措く堪はざる所である。

 去る十月、渋谷氏経営の銀座の「梅林」で東京近郊の諸氏相集うた際、後れて駈せ参じた今浦島が、久振りの里帰りを懐かしんで一言申した次第だが、今回此の紙上で、小たりとは言へ日本全国に散っている諸兄に、心からの挨拶を述べる機会を与へられたことを喜び、拙文を省みず此の筆を執っている。

 これと言ったテーマもない。通り一遍の語草では面白くもない。第一俺の腑に落ちない。然し此の文が定められた人の目に限られたわけでもないので、社会的な影響も一応は考へている心算だ。単に憂き辛いことが戦争諸事象の大半だと敢て断定するならば、此の所謂裏面を強いて書き度いのが、せめてもの悪趣味なのであるが・・・。

 明日とも知れない生命の危懼に悩殺されたあの獄生活で、昭和二十七年十二月一日発行の会誌が送られたのが、戦後クラスに就いて些かなりとも知る最初の機会であった。異国人の中で日本語を話し聞くことの出来ない不憫さと淋しさは言い表し難いことだが、異国に抑留されて交際を絶たれていた余輩に、此の会誌が喜びと懐旧の涙で読まれた。小さい人生の一頁に大書すべき事柄であった。

事志に反して、人生のコースに蹉跌が来た。敗戦の形で来るとは意外であったが、不意な支障の到来は予期すべきところ、特に軍人生活には覚悟の上のことであってみれば、今日、此れで我が事終りたりと退却するは卑劫である。人生此れからと敢て断言したい。

 逝きし三三五柱の英霊に黙祷を捧げる。危うく一命を留めた余輩は将来如何に生くべきかを考へ込まないでは居られない。火の弾丸となって大空に散華した戦友が彷彿する。海深く艦艇と運命を共にした戦友よ。千尋の底に永遠に消息を絶ちし諸兄よ。草蒸す屍となり歴戦の勇士よ。そも何を思い何を言わんとして逝きしぞ。只、冥福を祈るのみ。

 戦の惨烈は諸兄の等しく体験せる所。世情は諸兄の長ずる所。人生の夢物語は機会を得た所の茶話に譲るとして、此度はルパン島投降工作記でも要約してみよう。

 此度の狂乱に呑まれ今尚運命の嵐に喘ぐ抑留者、戦犯に就いては、心ある者の良く知る所である。然し異国の山奥深く生き延びる残存者に就いては知る人も稀であろう。始めにミンダナオ島の残存者に就いて風の便りに聞いた所を先ず書いてみよう。

 ミンダナオ島と言えば、ダバオを想起すると思う。海外に進出した幾多の,同胞がいた所であり、特にアバカで有名である。此のミンダナオ島には今日尚敗戦の運命に抗して残存者が山奥く立ち寵っていると言はれる。日比混血児を擁した彼等は、住民の生命を武力で保証し、住民は彼等の生活を土地の産物で支へているとか。戦国時代の落武者のグループにも似ている。ミンドロ島にも幾多の将兵がみると聞いている。

 さて、ルパン島に移ろう。

(A) ルパン島はミンドロ本島の北西数十浬の地点にある一小島である。良さ約十里、幅約五里の小島が東西に長く横たわっている。

 最高六百米の山系が此の小島を縦断し、その南側に二百米の高地が谷を挟んで中央の山地と併行に走っている。平野には国道があるが、山中では雑木林を縫った小径が曲折している。山頂では人跡未踏の密林が暗黒の一世界を形作っている。

(B) 幾人の日本人が残っているのだろうか。住民の語る所では数名だとか。或る人の連終によるのだが、此の人達の姓名も家族も明らかである。

(C) 何を望んでいるのだろうか。敗戦の連格もなく、或はあってもこれを信ぜられず、投降には生命の犠牲が思惑せられるままに山中を彷徨しているに過ぎない。ミンダナオ島の場合と違って住民を擁することもなく、住民の警戒の目を避けて糧を求めつつ原始生活を営んでいる。アナタハン島の物語は有名だが、特に女王蜂もない。では彼等を結んでいるものは何なのだろうか。生命を保たんとする願いが最も大きいものであろう。

 時に温い家族を夢み、懐郷の心情切にして、不眠の幾夜を過すこともあるだろう。

() 衣食住は、山中到る処にバナナ、甘藷がある。特に椰子林が山頂に迄見られる。断崖絶壁の南岸には、所々に描の額程の地が拓かれ、椰子林が海水に洗われている。南岸には人通りもない。土民は小舟を利用して通うという。これも椰子の収穫時に限られている。漁船も沖には現れない。断崖の岩間には天然の塩が出来ている所もある。約二米もの潮の干満があるが、退潮時には約百米沖合迄平盤岩が現われる。珊瑚礁のような此の岩盤には到る凹所があり、潮干狩には好適である。山頂から此の海岸に至る道は、渓流に沿う小道である。乾期には小さい流れは干き、急傾斜の直線コース山頂と海岸の2点を結ぶ。流れには鰻蝦が多い。何処に住んでいるんだろうか。山中の密林中であろう。では何を着ているのだろうか。話は変わるが畠で働き帰りの3名の住民が昼時に流れの畔で休憩中、対岸数十米の林の陰から発砲され、1名はその場で射殺されたが、他の2名は逃げたことがあった。この死者から略奪されたものは、衣類とマッチであったと言う。住民にしてみれば、檻  のために命を取られることになる。土民の陳述がこの度の比政府による投降工作の近因であるとのことであった。

蚊がいない。山蛭もいない。雑木林には日が当って、落ち葉が蒲団の昼寝を、せめてもの楽しみとしているのだろう。

 (E)印象深い比人を思い出した。五名。

夫が射殺された当の未亡人に会った。中年の婦人だった。奇異な表情もなく、無言で、寧ろ此方が意外だった。しかし、本当の無口である筈はないと思う。

 今一人は船着場附近に小店を出しているオバアチャンで支那系である。ご馳走はしてくれる。マージャンもやれと言う。可愛い年頃の娘にサービスをさせる。商売に国境なしと言いたい所だが此方は無銭だった。戦後初めての日本人だと言って村民を呼び集めた。黒山のように集まってきた。「必ず投降工作に成功する」と無理を言うとサービスを良くする。素朴な村民の社交を意味するのかも知れない。帰途船着場で見えなくなるまで手を振って呉れたのがこのオバアチャンだった。

森夫人がいた。夫が日本人の比人である。指揮官と一緒に訪問した。椰子酒をご馳走になった。先ず、3人の子供の写真を見せた。10歳位になる末の娘は言う。オトウチャンが来たと。泣かされた。森氏は戦時中行方不明だが、訊ねると東京に居るといっていた。

 カソリック信徒のオバアチャン。一緒に外出に出た二人の比兵にはキスをした。国の為にご苦労様という所だろう。一人の兵が俺に言った。「オバアチャンは、君は日本人だから用事がないと言っている」と。このオバアチャンは、胸に大きな十字架をかけていた。

 今一人は漁夫で40歳位。戦争中日本人に好待遇されたとのことであった。魚を獲りに海に行こうと言う。直ぐ水中眼鏡と魚差しを持ってきた。指揮官の許可が出なかったので、惜しくも止めねばならなかったのだが。 帰る時一人の比人が俺に言った。日本人には用事がある。兵は帰っても君一人は此処に残れ。と。40歳頃の男であった。

一般に無関心なのだが、個人的な利害を戦時中に日本人から受けた者は、そのまま報いて来る。学生の一人は日比協力を説いたが戦時中の事はタッチしなかった。

(F) 残存兵の意気に感心している指揮官は、彼らの救出と生命の保証にくふうを凝らした。山中の真剣な努力は忘れない。

ソ連抑留者も帰還する折柄、旧戦場の各地に潜伏する此等同胞に、国家的な救出方法も講ぜられてよい時機ではないだろうか。真の勇気は危険を恐れない所に生れるのではなくて、正義を敢行する所に生れる

 「雑条また雑条、峠の茶屋も春浅し」

思いだした二句をもってこの初心を終る。

(なにわ会会誌 2号 62頁 昭和29年1月掲載)

 

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