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 グリーンと日向の候補生達

小西 愛明

 次の写真はグリーンこと呉の海軍士官用中華料理店常盤で歓談する日向乗組候補生総勢十一名の和気藹々たる風景である。ゲストは張出ケップガンの七十期雫石氏、日向乗組以外では飛入りで渋谷が加わっている。

 日向乗組候補生会(19年春,呉「グリーン」にて)

前列左から泉 邇、雫石貫−(70期ケプガン),吉田義彦,
浦本生,高田俊彦,東郷良一,千代美

後列から春子,小西愛明,池沢幹夫,渋谷信也,秀子,
星野政徳,安藤寿郎,百合子,土井仁,椎野 廣

  航空戦艦日向は当時柱島艦隊の主力(一艦隊二戦隊)、月に一度は修理、補給のために呉に回航したが、その都度上陸してはグリーン宜侯で一同楽しく飲んだものである。

 候補生がレスに行くのは御法度、水交社は堅苦しいとあっては、行くべき所はグリーンしか無かったわけであるが、あるいは一緒に写っているハートナイスで名高いグリーンのメイド達に、優しい郷里の母や姉を思い出して里心をかき立てられたためかも知れない。

 実際、彼女達は海軍サンにサービスすることをお国のためと心得て、真心こめて我々をもてなしてくれた純情な娘達で、サービス精神皆無の近頃のウエイトレス達とは大違いであった。

 日向に関する思い出は数々あるが、グリーンに関する忘れ得ないお粗末の一席を御披露する。

 最終定期には乗って帰らねばならないのが候補生の悲しい掟であるが、その出発時刻が刻々に迫ると言うのに、一向に腰を上げてくれないのが東郷の悪い癖で、止むを得ず彼を抱きかかえる者、手を引く者、背中を押す者、はては息せき切らせて桟橋にかけつけ、定期のチャージと出発延期を交渉する者、手分けをしての大騒ぎの末、御機嫌なのは東郷一人、他の者は酔もさめ果てての御帰艦と相成る次第。

 ある時、修理のため、工廠近くに碇泊し、工員の出入用に後部と岩壁の間に桟橋が仮設されていた時の事、夕刻、艦長以下士官室のお偉方が定期で上陸された後、候補生一同、舷門の上陸札を裏返しにもせず、当直将校、副直将校の知らぬ間にこっそりとこの艦尾舷門から工廠つたいに上陸してグリーンに飲みに行ったことがあった。一同御機嫌で帰艦した所、副直将校がとんで来て文句タラタタ、当直将校は苦い顔。聞けば我々の上陸を知らなかった副直将校が、軍艦旗降下の前になっ

ても後部の飛行甲板に姿を見せない衛兵副司令の某候補生(名を秘す)を艦内探し廻ったが見付からなかったので已むを得ず、指揮刀を手に、短剣は腰に吊ったままの何ともしまらない姿で儀杖兵を指揮したとの事(指揮刀を持って飛行甲板に戻ったら一分前、気を付けのラッパが鳴る寸前で腰の剣を着け替える暇がながったらしい)某が上陸の時、軍艦旗降下時の衛兵副司令の役を二次室または准士官室の人に頼んでおかなかったために起った事である。翌朝艦長が帰艦された後、暫くして候補生一同艦長室に呼ばれ大目玉をくらった事は言う迄もない。

日頃温厚で操艦の上手な野村艦長直々におしかりを受けた事は、後にも先にも、この時だけだったと記憶している。

 昭和十八年十一月下旬、徳山で乗艦した時ガンルームの先輩は甲板士官の七十一期蔭山氏のみ、他に兵科将校は艦長と航海長だけで我々に仕事を教えてくれる人とてなく、直ちに責任ある単独配置について(俺の場合、翌日の出入港に内務士として艦首に立ち、内務長の職務である錨指揮官を代行した)試行錯

誤を重ねながら急速に成長をとげ、やがて少尉に任官、そして七十三期新候補生を迎えると、それ迄茶目っ気満々の我々に調子を合わせながらも先任候補生として皆をまとめて来た土井仁が他の数名と共に潜校学生を拝命して退艦、続いて潜水艦、駆逐艦、巡洋艦等新しい任務について散りじりになり、あるいは少尉任官と共にレス解禁で先輩の手ほどきを受けてロック、フラワー、メイ等にも足を向けるようになってグリーンとの縁は自然に薄れていったが、俺は最近迄呉と縁が切れなかった如く、グリーンとも空襲で焼ける迄気のむくままに立ち寄ったものである。

 伊号三十三潜が沈没して褌一枚で泳いでいる所を救助された後、長鯨で呉に帰投、軍需部で軍装一式を支給してもらうために、伊集院の軍服等を借用して上陸した際、無一文では困るので大阪の父に金送れの連絡をとるためグリーンに寄って電話を借りたが、つながる迄の間、茶果の接待をしてくれ、工廠筋等から薄々噂を聞いて心配していたが、無事で何よりと長距離電話料は無料、送金の受坂役迄引き受けやくれる親切さであった。

 また、終戦間近く、呉大空襲の一過間程前に母と姉が呉に来たが、水交社の家族用宿舎でグリーンの近くの借上素人下宿に潜在している間、毎食特製の食事を運んでくれ、帰りの弁当迄持たせてくれた親切さに母は感激、娘のように世話してくれたと、当時のことを話す度に喜んでいた。

 大阪で乏しい配給物資を糧にしていた母としては当然の感激であったと思うが、母が帰って二日目に呉の町もろともグリーンも流失、俺も十特戦に配属されて一〇二突で豊後水道の護りについたので、その後、グリーンの彼女達には会う機会がなくなった。

 

(なにわ会ニュース39号29頁 昭和53年3月掲載)

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