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海上自衛隊第1術科学校大講堂の
大改修物語

                          75期  井ノ山 隆也

 

 海軍兵学校(現海上自衛隊第1術科学校)大講堂が平成10年大改修を終え、見違えるようなに生まれ変わっています。 下の左が改修前、右が改修後です。 外観だけではありません、内部の隅々まで完全にリニューアルされました。 これからこの大改修のお話をしましょう。

大改修前の大講堂正面  大改修後の大講堂正面
 

1、歴史と経緯

 明治21年に東京築地から江田島に海軍兵学校が移転した時には、大講堂はおろか生徒館も無かったことはご承知の事と思います。赤レンガの東生徒館が完成したのは明治26年ですから、大講堂の話はずっと後のことです。大講堂の必要性は古くから問題になっていましたが、日清・日露の両戦争を戦った日本には財政的余裕はなく、明治45年になってやっと「鎮遠」「赤城」「八重山」などの数艦を廃艦し、その払い下げ売価を原資として予算が認められました。国会で可決された当初の建築予算は当時の金額で30万円でした。

「鎮 遠」 「赤 城」 「八重山」

 公式には明治45年6月着工大正6年4月落成となっていて、竣工までに総工費40万円を支払った旨の記録があります。大改修に際して屋根裏から発見された銘盤には、「大正2年1月12日起工、大正6年3月31日完成」と書かれてあったのです。 明治45年は大正元年ですから、予算年度で言えば大正2年1月は明治45年度ですね、5年計画の大工事だったことが分ります。記録では、完成した翌月の大正6年4月21日に大講堂の落成式が挙行されています。ここで、総工費40万円について、平成17年現在の貨幣価値では幾らになるのか?を考えて見ましょう。物の値段を時代に応じてスライドさせて比較することは簡単ではありません。東京神田で製本業を営んでいた宮田勝太郎という人が昔の思い出を語った中で「その時代の物価は、かけそば一杯の値段を見ると、凡その実感としての貨幣価値が判る」として次のように記録しています。

(横道に反れますが、他にも参考になることと思いますので掲載します)

 

かけそば一杯の値段     明治35年   ・・・ 2銭 

              同 39年   ・・・ 3銭

               大正 6年   ・・・ 4銭

              同  9年   ・・・ 8銭

               昭和 9年まで ・・・10銭

               同 15年   ・・・15銭

              同27年(戦後) ・・ 17円

               同28年    ・・・20円

              同32年    ・・・30円

               同35年    ・・・35円

              同47年    ・・・80円

 上の表のように、書かれた年の関係で昭和47年以降の記録はありません。因みに現在かけそば一杯の値段(上下いろいろですが)を仮に300円〜400円とすると、大正6年の40万円は30億円〜40億円になります。この外に一流会社や公務員の初任給から算出する方法、一人前の職人の1日の手間賃の比較から割り出す方法などがあります。 こうした一般市民の稼ぎは、8,000倍〜10,000倍になっていますから、これから比較すると32億円〜40億円ということになります。この数字をどう思われるかは読者諸賢にお任せしましょう。

 

 話を元に戻します。大講堂は戦後11年間の米軍接収中の傷みが目立つようになっていました。更に昭和38年には芸予地震などもあり、雨漏りだけでも直しておく必要に迫られ、昭和40年に屋根の修理が行われています。次の写真にその時の屋根葺き替え工事前後を比較していますが、建造当時の屋根にはドーマー・ウインドウと呼ばれる、屋根裏部屋の明かり取りと屋根の飾りを兼ねた窓があったものが撤去されていることがわかります。

 

 我々が生徒の頃には、このドーマー・ウインドウはあった筈ですが、筆者の記憶には残っていません、筆者は昭和35年から38年までの3年間、江田島第一術科学校の教官勤務をしており、日夜、大講堂の佇(たたず)まいを目にしていたのですが、それでも全く気が付きませんでした。

昭和40年の屋根の葺き替え工事前
にはドーマーウィンドウが見える
昭和40年の屋根の葺き替え工事後
にはこの明かり取り窓は見えない

 ところで、学校に大講堂と呼ばれるものが建設され始めたのはいつの頃からなのでしょうか?

有名な東大の大講堂(安田講堂)は1921年(大正10年)起工、1925年(大正14年)竣工となっています。早稲田大学の大隈講堂は1925年(大正14年)〜1927年(昭和2年)の間に建造されたように記録されています。これらに比べると海軍兵学校の大講堂の建築は少し早かったと言えます。当時文明開化のトップを走っていたのは海軍でしたから当然と言えば当然かも知れませんね。ついでに、もう少し大切な事に触れておきましょう。江田島の大講堂の最大の特徴は何と言っても講堂演壇中央上段に「玉座」が設けられている事でしょう。日本のあちこちに天皇陛下が行幸された際にお泊りになった、或は、お立ち寄りになってお休みになった行幸記念の場所は多くあります。

 しかし、公式に「玉座」と呼ばれるものが設けられている建築物はごく限られています。海軍を考える場合、対照に陸軍のことも参考にすべきですが、陸軍士官学校は昭和12年に市ヶ谷台から座間の相武台に移転されており、元の建物は現在東京市ヶ谷の防衛庁敷地内にその一部が記念館として保存されています。この記念館は東京裁判が行われた跡として、また三島由紀夫が自刃したことで有名で、この記念館の中に「便殿の間」が保存されており、天皇陛下の行幸の際の御休憩所であったと説明されています。

 

 陸軍士官学校にも「玉座」があったと思いますが調査できていません。筆者は京都育ちですから京都御所の紫宸殿の奥に天皇陛下の御座(高御座(たかみくら))があることは知っています。

京都御所から想像すると東京の宮城内にも「御座」はあると思いますが実際は知りません。宮中には3度ばかり拝謁を賜った際に参内したことがありましたが、「竹の間」「松の間」などで他の大勢と一緒に拝謁を賜ったとき陛下は同じフロアーを歩いてお出ましになって我々の前にお立ちになってお言葉を下さいました。「玉座」はもっと別の所にあるのでしょう。

 公式の「玉座」は国会議事堂内の参議院本会議場正面上段に設けられています。憲法の規定により、国会開会式には衆参両院議員はこの参議院の議場に集まり、天皇陛下の国会の開会宣旨があることは万人の知るところです。

 海軍兵学校には天皇陛下は開校以来何度か行幸されています。「我が国の軍隊は世々天皇の統率し賜うところにぞある・・・」軍人勅諭の冒頭にあるように、帝国陸海軍は天皇の軍隊として存在し、その中核たる将校の養成機関である兵学校の卒業式にはその都度ご名代を差し向けられました。優等生には「恩賜の短剣」が下賜されたことは周知のことです。後で触れますが、大講堂には「玉座」とセットに「お車寄せ」、「貴賓室」が設けられているのです。

左の写真は大正6年完成当時の写真として残されているものです。
モノクロ写真の古いものですからその豪華さは分りませんが、徳山産の花崗岩で張り詰められた風格ある姿は私共の記憶にも残っています。

                       花崗岩の下は鉄筋レンガ積み 

今回の大改修の際、花崗岩貼りの外壁の内側は右の写真のように鉄骨煉瓦積み構造である事もわかりました。この鉄骨煉瓦積み工法は東京駅(大正3年完成)と同じものです。外壁を更に花崗岩貼りにているのは日本銀行本店(明治29年完成)と同様です。因みに、東京駅舎も日本銀行本店も共に重要文財に指定されています。

 

2、大改修始動

 大講堂が重要文化財同等の建築物であることは今までの記述でご了解のことと思います。保存の対象として建造当時の状態に復元することが決定されたとしても、どこをどの程度、どの様に修理するか?詳細の検討が始まりました。先ず、傷みの状況です。果たしてどこがどの様に傷んでいたのでしょうか?膨大な調査資料の中からその一部を写真と共に説明しましょう。

花崗岩に滲み出した鉄サビ

 上の写真はそれぞれ外側に貼り付けられた花崗岩の鉄サビです。石と石とを繋ぎ止めるための内部の鉄部が錆びて外に滲み出た結果生じた汚れです、原因としては海の近くで長い年月潮風に晒されていたからでしょう。この汚れは原因が内部にありますから洗浄しても落ちません。花崗岩そのものを含めた対策が必要でした。更に、花崗岩のあちこちにヒビ割れ・目地部の破損・汚れが生じていました。勿論このままでは修理も汚れ落としも出来ない傷です。

花崗岩目地部の汚れとヒビ割れ
銅製樋部の破損 天井の雨漏れによるシミ
木部の老朽・汚損

 窓の木部、銅製の樋部、内部天井の雨漏れによるシミ・汚れは新替えが必要でした。戦後米軍等の使用で、花崗岩で敷き詰められていた床も一部に陥没箇所が見つかり、汚れもひどく徹底した

修理と洗浄が必要でした。又天皇陛下のご来場に備えた、お車寄せ・階段・貴賓室・演壇は建造当時の状態に戻すには殆どを新しく作り直す必要がありました。

 さて、このような状態をどのようにして修復したのでしょうか? 建築技術・建築材料の進歩が大きく貢献しています。 素人なりの理解ですが、順次に述べて見たいと思います。

 

3、改修の細部

 改修は次の2期に分けて行われました。

     第1期工事  平成8年3月〜平成 9年2月   屋根及び外壁・外部建具工事

     第2期工事  平成9年2月〜平成10年3月    内部内装工事

工事現場と足場をシートで被うことは、最近の何処の工事場でも見られますが、建設当時の記事を見ていましたら工事足場の写真がありました。当時は丸太の足場だったのでしょうが、当然とは言え余りにも似ているので並べてみました。 屋根の改修には最近のビルの屋上防水工事の技術が全面的に活用されています。大屋根は既設のものを剥がし、12_の複合合板を張り、その上に2_の防水シートを張り、更に1_のポリプロピレンによる2重防水措置をした上をスペイン産の天然スレート35,310枚で葺いています。
上の写真は、今回の改修時の足場

 

左の写真は、建設当時の足場(モノクロ)
既設のものを剥がす
二重防水工事を施し スペイン産スレーで葺く
庇屋根は新しい銅板で
葺き替えられた
屋根はこの様に美しく
葺き替えられた。
車寄せの屋根は新しく
造り直された。

 庇等の銅板葺きの屋根は、新しい銅板で吹き替えられています。

 外壁は花崗岩の鉄サビとヒビ割れの処理に新しい工法が採られています。サビの滲み出した部分の花崗岩そのものを削り取り、再び鉄サビが滲み出すのを防止するためエポキシプライマーを塗り込んだ上に、花崗岩の砕石を混合したエポキシ樹脂モルタルで埋め戻し、固まった後に表面を周りの花崗岩と均一になるように仕上げ処理しています。鉄サビ以外の長い年月の間に風雨に曝され汚れた花崗岩の表面は、水洗いをし、更に薬品で洗浄して真新しい状態にした上、全面に吸水防止剤を2回吹き付けて表面劣化防止策(所謂コーティング)が講じられています。

 外部の木部(窓枠)は全て新しく造り替えられました。 元の材質と同じ木材を専門の職人によって建造当時の姿に造られたのです。上には元の色 の合成樹脂塗料が塗られ、且つ表面には防腐処理が施されています。ここまでが、第1期工事です。

 外部の工事が終って、第2期工事の内部・内装工事が始まりました。

 大講堂の床は厚さ15cmの花崗岩で敷かれています。汚れは全面的に薬品で洗浄されましたが、一部の陥没箇所は、その部分の花崗岩を剥がし、沈下・陥没の原因となった基礎の部分の盛り上げを行った上で復旧し、目地の全てを詰め替え、元の姿に復元されています。

床の汚れはひどかった

工事中の演壇へ階段部 改修を終えた演壇 改修を終えた玉座

 演壇とそれに続く階段は補修では元の容(すがた)に復元することが困難であったので、同じ材質で新しく造り直されました。当時の木工技術や繊細なデザインを損なうことなく、腰壁や鏡板等には合成樹脂エマルジョンペイント・ウレタン樹脂クリアーなどの新しい塗料が使用されましたし、木部の補修を終った後、金具・取っ手等を現在の材質で新しくし、窓枠、壁、天井が夫々元の雰囲気に復元されたのです。 

講堂の2階部分には、1階フロアーを見下ろす感じのギャラリーが設けられています。名前から想像すると、1階フロアーで挙行されるセレモニーを陪席する形で見学出来る構造ですが、この床には新しい薄いパープル色のカーペットが敷かれました。天井にはシャンデリアとその基部と同じ形の換気口が付けられています。

  左の写真:講堂2階ギャラリー

車寄せ 階段 階段を上がるとそこは廊下
 

 我々は大講堂へは海岸側、即ち、大講堂の西側から出入りしていました。我々には馴染みの薄い東側、天皇陛下がお着きになるのですから、こちらが正面側と言うべきでしょう。(事実玄関と呼ばれています) これからの記述は最終ページに付けております「大講堂1・2階平面図」を参照にして読まれると一層理解し易いと思います。この部分は、我々一般の兵学校に在校した者でも知らなかった所だと思いますから少し詳しく写真と共に説明しましょう。

「お車寄せ」から玄関を這入りますと、まず「エントランスホール」があり、右側に「1階控室A」があり、左側には吹き抜けの階段があり、その奥に「1階控室B」があります。(A,Bは筆者が便宜上区別するために付けたものです) 階段を登ると2階廊下に出、右側に奥に向って「準備室」「2階控室」「貴賓室」があります。

階段は、中央を上がって踊り場で左右に分かれる生徒館と同じ形式ですが、階段の造り、手摺り、絨毯の全て気品が溢れています。行幸、或いは、ご名代が卒業式等でご来校になる時、どの程度の方が随行されたのか、或は、されるのか、記録を見たことがありませんので分りませんが、講堂の演壇ステージ部分の広さから筆者なりに想像すると、VIPと呼ばれる方は十数名〜二十数名であろうと思います。そして、そのVIPにも更にお供の方々が付きますから、接遇する学校の裏方のご苦労は大変だっただろうと、ついつい想像を逞しくしてしまいます
1階控室A 

 「1階控室A」は大講堂で行われる儀式・行事に参列するVIPが開式までの時間を待機する部屋であり、玉座に向かって左側の出入り口に通ずるドアが備わっています。VIPはこのドアからステージ上の各自の席に着かれたのでしょう。

前述のように、2階右奥にある「貴賓室」は、主賓即ち陛下或は御名代を接遇申しあげる部屋であり、建造当時の室内装飾の最高のものであり、しかも簡素で気品のある造りになっています。シャンデリア、天井、窓・窓枠、壁、腰板、出入り口ドアの上のエリキュール飾り、絨毯、何れも相応しい現在の材料・技術で復元されました。 隣の「2階控室」は「貴賓室」に入られる方のお側に仕えられる方々の控えられる部屋でしょう。2階左奥の「応接室」は主賓とは別筋のVIPを接遇する部屋なのでしょう。

貴賓室 貴賓室の造りの細部

    

2階控室 2階応接室

 以上、どの部屋がどのように使われたか、決まりはあったでしょうが、記述は筆者の想像です。上の写真は、修理を終ったばかりの時のものでガランとしていますが、現状は立派な応接セットが備え付けられています。 

 また、「貴賓控室」及び「応接控室」の2つの控室があり、多分VIP付の人達が通路を通って講堂2階ギャラリーに出られたのでしょう。参考までに申しますと(付図参照)2階から階段を下りると真正面が玉座右側のドアに向うようになっています。兵学校自習室の後ドアは1号専用でした。

 また、戦艦の後甲板ハッチは司令長官専用でした。玉座両側のドアも多分専用区分の決まりがあったのでしょう。更に、絨毯の敷かれた各部屋の写真には暖炉が見えますが、暖炉のある部屋には現代風にエアコンが効くよう改修されています。講堂は昔のままで冷暖房装置はありません。

 

4、終わりに

 以上がこの物語のすべてです。最後に大講堂及びこの大改修の概要をまとめておきます。

 

        海上自衛隊第1術科学校(海軍兵学校)大講堂

  建造期間   大正2年1月12日〜大正6年3月31日

  総建造費   40万円(当時の金額)

  構造     古典様式、2階建て、鉄骨煉瓦積み・外壁花崗岩張り

  要目     建築面積 1,673.98u、 延べ床面積 2,487.16u

  大改修期間  平成8年3月〜平成10年3月

  総改修経費  11億3,000万円                     

 

 付 記

 近頃では少なくなりましたが、海軍の経験者からよく「海上自衛隊は果たして海軍なのか?」と問われます。この物語を書こうと思ったのは、筆者が海軍兵学校の最後の卒業期生であり、戦後、海上自衛隊に勤務し、江田島の第1術科学校の教官を経験し、母校の印象を強く記憶している者の一人として、同じ海軍兵学校に学んだ先輩・同僚・後輩にこの大事業を伝え、上記の問いに答えたかったからです。そして、さらに強調したいのは、先に書いた「海上自衛隊第1術科学校学生館建替え物語り」でも述べたとおり、戦後50年を経過し、海軍を知らない海上自衛隊の人達によってこの大改修が計画され、実現したことの意義を伝えたかったからです。

 おりしも今年は、日本海海戦100周年に当りますが、幕末以来、我が国海軍の創設と近代化に関わった、有名・無名の先輩の志は、脈々と現在の海上自衛隊の後輩達に伝わっています。

その確かな証拠の一つとしてこの物語を読んで頂ければと思うのです。記述は平易に、なるべく写真を多くし、一見して理解して頂けるように配慮しました。

    平成17年2月               海兵75期   井ノ山 隆也 記

 

       付 図          

 

 

改修なった大講堂の内部

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