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海上自衛隊第1術科学校
(海軍兵学校第1生徒館・西生徒館)
大改修物語

海兵75期 井ノ山 隆也

 

 上の写真は、我々兵学校出身者には思い出も懐かしい練兵場から古鷹山を望む風景ですね。

しかし、良く見て下さい。西生徒館が4階建てになっています。ご存知の人も多いと思いますがこれは最近建替えられたのです。正確に言うと平成17年3月に全ての建替え工事が終了する事になっています。今日は、現学生館がどのようにして旧西生徒館とソックリに建替えられたのか、そのお話をしようと思います。実は東生徒館(赤レンガ)も大修理が行われていますが、これも後で少し触れます。

1、経過 

 江田島海軍兵学校の施設は、戦後昭和20年10月米軍が進駐し、その後、英連邦軍が駐留するなどの経過がありましたが、昭和31年1月の返還とともに海上自衛隊が使用することとなり、「海上自衛隊術科学校」が田浦から移転しました。現在では、江田島の旧海軍兵学校の施設は「第一術科学校」及び「幹部候補生学校」として使われています。

 旧海軍でもそうですが、「砲術学校」「水雷学校」「通信学校」など夫々の術科の専門家を養成するための教育は必須の事項です。海上自衛隊では幹部・パイロット・潜水艦乗組員・音楽隊員などの教育は別にして、専門特技毎に第一から第四までの術科学校で教育をしています。江田島の「第一術科学校」はこの中の主として艦艇デッキ部門(砲術・水雷・運用など)の術科教育を担当する学校であり、年間を通じて常時、幹部・曹・士約600名が各種・長短数十のコースで教育を受けています。旧西生徒館は学生館として、学生の居住用(寝室・自習室)・一部教室・教官室などに使われてきました。

 さて、この話の本題に入りましょう。昭和13年竣工の西生徒館は老朽化が進み、全面的な改修が検討されるようになりました。おりしも平成年1月17日に阪神大震災があり、その直後に建築基準法の大改正がありました。改修は耐震・耐火・換気・採光・衛生などの細部にわたりこの法律に定める建築基準をクリアーすることを考慮して計画されたことは当然であります。また、改修に際しては建築基準法もさることながら、国民一般の生活レベルが向上し、隊員の居住環境が艦艇内はもちろん陸上の諸施設も若者の生活スタイルに合わせる必要がありますし、我々世代には想像することも難しいことですが、現在の自衛隊では女性隊員が全ての分野で男子隊員と同等の任務に就いていて、学生の中の何%かは女性隊員であることを前提に、それなりの配慮があったことを知っておかなければなりません。

 ここで、海上自衛隊内部において旧海軍の建造物の保存と改修をどのように考えているかについて少し説明する必要があります。明治・大正・昭和と近代国家への道を急ピッチで歩んできた歴史を、建築物だけに限って考察することも研究価値の高いものですが、敗戦と戦後の混乱で失われた多くの歴史的建造物の中にあって、海軍が残した施設の多くを海上自衛隊がそのまま引き継いだとしてもそれは極めて当然だといえましょう。

 西生徒館建替えの前に、大講堂を日本近代化の貴重な文化遺産として保存するために大改修が行われました。この大修理にかかわられた、広島大学工学部教授の石丸紀興氏は、「海上自衛隊第一術科学校大講堂、平成の大改修に寄せて」という論文の中で、江田島の海軍兵学校の建造物について次のように書いておられます。

 『兵学校が煉瓦造りであったり、煉瓦鉄骨石造りであったり、鉄筋コンクリート造りであったり、一見バラバラの様相をみせ、外国人の設計であったり、海軍内設計組織であったり、外注したりしている。また、軸線を通したり、対称性を貫いたりするのでなく、要するに当初にマスタープランが不在であったことを如実にしめしている。さらに建築様式的にもネオバロック風・ギリシャ風・バシリカ風・イオニシア式柱頭を有するロマネスク風など様々で、一つの明快な様式として確立されていないことが指摘できる。 しかし、このことは江田島の海軍兵学校設計の或は、一つの特徴であるかも知れない。すなわち、たとえばマスタープランによって、後世の主体に確定した空間づくりに参加させるよりも、それぞれの段階での主体に地形とその段階での条件を絡ませて空間を構成するように託したと考えられるのである。 (中略) 江田島という日本全体からみれば必ずしも意識されにくい場所にあって、輝くばかりのいくつかの建物が維持されて存在していることは、驚くべきことである。率直にいってよくぞここまで永らえてきたということになろうか。』と、

 こうした学者の論点を待つまでもなく、海上自衛隊は海軍の残した歴史的建造物を大いなる遺産として後世に残すことを重視しています。因みに、江田島にある旧海軍の諸施設について保存し活用すべき建物として、次のように選別しています。  

古い順に挙げますと、

水交館、(士官クラブ 945u・明治21年)

理化学講堂、(756u・明治21年)

◇東生徒館、(4,352u・明治26年)

◎大講堂、(2,365u・大正6年)

高松記念館、(賀陽さんも使用、272u・大正9年)

教育参考館、(5,260u・昭和11年)

賜さん館、(昭和天皇の行幸を記念して建てられた、184u・昭和11年)

の大小・新旧7つの建物です。 (◎印は大修理完了、◇印は大修理進行中です。)

 話を西生徒館の建替えに戻しましょう。 西生徒館は上記の保存対象建造物外ではありますが、海上自衛隊は歴史的意味と訓育効果を考慮して、始めは建物を当時のまま生かすことを基本に計画をスタートしました。大改修をすることを前提に調査工事をした結果、コンクリートの強度が低下し、廊下部分はシロアリによる被害が広がっていました。建築基準をクリアーできる耐震強度を得るにはH形鋼で補強するなどの工事が必要であることも判りました。また、既に完成している他の新しい隊舎の基準に合わせてエアコンを入れる場合、旧生徒館の天井は、高さが四米以上もありエアコンの効きが極めて非効率であること、かと言って、天井を下げると採光が悪くなり建築基準法違反にもなって部屋として使えないなど、難問が続出したのです。

 改めて、改修経費、基礎に免震装置を整備する経費、更に、後々発生するであろう維持管理のための修理経費やその手間などを新築した場合の経費と比較検討した結果、総合判断として新築の方が安上がりで、且つ全てが良くなるとの結論に達したのです。

 ご存知の方も多いと思いますが、国の予算として計上するということは大変なことです。   当初は改修することで大蔵省に説明し、成立していましたが、当時の大蔵省に実状を説明して全面建替えで執行することの了承を得たわけです。さて、新しく設計して建て直すとなると、使用する学生数や教官数をどのように算定するか、自衛隊には夫々の規模に応ずる施設の建築基準というものがあってフリーに設計しても良いというものではないのです。旧海軍兵学校からの歴史的環境・景観に調和させながら、新しい時代の学生館としての機能を満足し、なるべくなら旧生徒館の外観・寸法を最大限に残す方針のもとに、全ての基準をクリアーするというのです。この設計にかかわった人達の苦労は大変だったと聞いています。

 歴史的建造物なるが故に、保存のための大修理が行われた大講堂や、大修理中の東生徒館(赤レンガ)のことを仄聞している旧兵学校OBからは、「由緒ある建物を何故建替えるのか?」のいくつもの問合せがあり、その都度、建替えの必要性と外観は最大限残す旨の回答をして了解してもらったという関係者の苦労話が残されています。 

2、工事 
 さて、いよいよ工事が開始されますが、これから示す図や写真で判るように、新旧の学生館は同じ場所にほぼ同じような形で建設されるわけですから、所謂「スクラップ・アンド・ビルド」を地でいくことになります。通常と変わらぬ教育を続けながら、移動や一時的な窮屈な生活は避けられなかったものの、学生は計画どおりの教育期間に入校し、計画どおりの教育を受けて修業して行きました。

工事は、平成9年度から16年度までを三期に分け、第1期は海岸側を壊して新しくし、第2期には正面を、そして現在(平成16年6月)は第3期の参考館側の工事が間もなく完了する予定で進行中です。新学生館は逆L型になっていますが、この欠けた部分には将来食堂が新築される計画になっていると聞いています。




 上の上空から撮った写真は、新旧の建物全体の位置を比較する上で参考になると思います。特に第3期工事の前で、取り壊し前の旧生徒館が残っている状況も良く分ります。新学生館が正面入口部分を別にして全体が4階建てであること、建物の巾というか奥行きというか、光庭が設けられてブロックとしての容積が大きくなっていることなども良く分ります。4階建てとすることを可能としたのは、各階の高さ、即ち天井の高さを低くしたことによります。建物の中は、江田島へ訪問された際に見てもらうしかありませんが、学生の居住は4人部屋が基準であり、階段の鬼に泣かされた屋上の洗濯場・物干し場に代わって、立派な洗濯・乾燥室がありますし、娯楽・休憩室も完備されています。当然、女性隊員のための区画も独立して設けられています。

3、伝統的美観の継承

 冒頭に掲げた写真のように、一見ソックリに見える形に建替えられたことを少し取り上げて見たいと思います。ソックリに見える理由として、@全体の大きさと色と形、A正面玄関周りの2本柱の形状、B最上階と次の階の間にある庇(ひさし)の形、の3点が挙げられると思います。次の写真はこの3点を説明するために作ってみました。

 詳細に見れば多くの相違がありますが、@の全体の見た目はさておき、Aの正面玄関周りは2本の柱と屋上部分のペントハウスが特徴です。窓の数が幾つあったかは注意して記憶している人は少ないのではないでしょうか。Bの最上階と次の階の間にある庇(ひさし)については少々説明が要ります。

 

 帝国海軍は明治以来一貫して増強と近代化の歴史を積み重ねていますが、そのスピードは国際情勢によって大きく変化しています。兵学校の生徒数も同様に、兵力増強計画に合わせて変化したことはご承知のとおりです。中島親孝氏(兵54期)著「海軍兵学校沿革」によりますと、八八艦隊が計画された大正6年から48、49期と次第に増員され、50、51,52の各期は300人クラスになります。ところが、大正10年のワシントン条約によって建艦計画にブレーキがかかると、53期は51人、54期は79人と採用が激減します。続く55期から63期は130人クラスで経過しますが、昭和11年末にワシントン・ロンドン両条約が失効し、日・独・伊3国同盟が結ばれる動きでも回顧されるように、国際情勢は次第に悪化し昭和8年入校の64期は170人、65期は200人、66・67期は240人クラスに増えたと書かれています。「海軍兵学校沿革」には触れられていませんが、西生徒館が建設されたのはこの時期で、当初2階建てで設計されていたものが、途中急遽3階建てに変更になり、屋上部に1階プラスされた結果がこの2階と3階の間の庇であると言われるのです。しかし、この庇は旧生徒館の外見上の特徴でした。設計上このような庇は必ずしも必要とは思われませんが、新学生館は、3階と4階の間にこの特徴を残して設計されています。ここで、正面中央の大きな特徴であるペントハウス(5階部分)についても少し触れますと、ここは建物の顔であり、昔の姿を残すための重点でもあります。我々が生徒時代は気象観測機器が置かれ図書室でもありましたね。常時在籍する学生数から建物の大きさが算定され、デザイン上からの理由で国の認める基準面積に加えて大面積のペントハウスを造る根拠とするのは困難でした。正当化できるペントハウスの必要性・用途が検討されました。外観を維持すると中の採光が確保できない、倉庫としては他に確保されており屋上部では出し入れに不便である。考え抜いた末、大人数が収容出来る昔流で言うと500畳の広い大講堂兼映写講堂とすることが最良と判断されました。これは、その講堂内の視界を遮る柱を最小にする為にも屋上部に造ることが合理的であるからです。かくして正面屋上部を五階部分とする外見が旧生徒館とソックリな建物として仕上げることができたのです。

 以上のような伝統継承のこだわりは現世代にどのように伝えられたのでしょうか、一つの鍵は海上自衛隊の幹部教育の環境にあると思います。海上自衛隊は、防衛大学校(防大)第1期卒業生を受け入れる昭和32年4月、江田島に幹部候補生学校を設立しました。そして、幹部自衛官となるコースはいくつもありますが、防大・一般大学(艦艇・航空・医科歯科医官・技術)・航空学生出身・海曹からの幹部試験合格者など、各種ある幹部候補生としての教育は全て江田島の幹部候補生学校において実施することにしました。考えてみればこれは驚くべきことで、海上自衛隊の幹部は、そのスタートにおいてコース・期間の違いこそあれ全てが江田島の同窓生ということになるのです。この制度が採られて間もなく50年、勿論、陸・空自衛隊にもこのような制度はありません。多分外国でも無いでしょう。江田島には第一術科学校と幹部候補生学校の2校が存在しますが、江田島のたたずまいに寄せる彼等の思いの根元がどこにあるかが判るのではないでしょうか。もう一つは広報の問題です。中国地方観光コースの中に「江田島旧海軍兵学校見学」のプランが組み込まれるようになって久しくなりますが。毎年見学に訪れる十万人以上の一般市民に対し、海上自衛隊も江田島町(能美・沖美・大柿各町と合併して、間もなく江田島市となります)も広報拠点としてその歴史的価値とともに風致・美観・威容を守っていくことに強い関心があるのです。

4、終わりに 

 いろいろと西生徒館(学生館)の建替えのお話をしてきました。最後にこの工事の概要を記述しておきます。

 工   期  平成9年度〜16年度、(平成10年2月から平成17年3月までの7年1ケ月) 

 総 工 費  約74億円
 建物概要 構  造  鉄筋コンクリート造、光庭付き構造、4階建て、
      総床面積  35,228u
     (参 考) 旧生徒館 鉄筋コンクリート造、3階建て、総床面積37,721u                旧生徒館に比べ、総床面積が約2,500u少なくなっています。

 なお、エレベーターを設置するかどうかで議論された経緯があります。階段は艦艇乗員にとって重要通路の一つであり、この揚がり降りも日々の大切な訓練項目であるため無用論も出たのですが、ペントハウスは校内第一の展望所でもあり、見学に来る障害者・老齢者にも考慮して、加重370sのもの1基を中央階段の裏側に5階屋上まで通じるよう設置してあります。

 更に付け加えますと、廊下の巾についても検討されています。雨天の場合の体操や整列等を行うスペースとして廊下は極めて重要な役割を果たしていました。新学生館の廊下の巾は広くなっています。

(平成16年6月 井ノ山隆也 記)

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