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教育参考館

教育参考館 教育参考館内お東郷元帥の遺髪

海軍機関学校の舞鶴移設によって,同校が使用していた第2生徒館が空室となった。時の海軍兵学校長谷口尚真中将は第2生徒館の階下を利用し、従来蒐集した記念品および訓育資料をここに陳列して,教育参考館を創設した。

 「頗るに大正6,余が常磐艦長として遠洋航海に赴きたる際,卑見に基づき諸官協力して,巡航各地より教育資料となるべき記念品を蒐集して,之を兵学校に寄贈したることあり,爾来,余は教育資料の蒐集に関して多大の関心を有し来たりたるところ,偶々,兵学校在任中の大正14,関東大震災後,一時合併教育することとなり居たる機関学校が舞鶴に移転し,第二生徒館階下は全部空室となりたるを以て,此際,之を参考館として活用せん事を着想し,時の教頭向田大佐等と計り,趣意書を起草して之を海軍部内の古参者(大佐級以上),幕末海軍の生存者並びに遺族,貴族,名士にして海軍に縁故ある人,若しくは海軍文献を襲蔵せりと思われる方々に配布して其の後援と援助を求むることとし,又一方,海軍次官を経て海軍大臣に計画の趣旨を述べ,之が承認を求めたり。(中略)幸いにして,海軍大臣は直ちに之が承認を与えたるを以て大いに力を得,在来の旧記念品と新たに蒐まり来たりたる各種訓育資料を此処に陳列し,之を教育参考館と名づけて,今日の基礎を築くことを得たり」

 谷口尚真大将は,昭和113月に本建築の教育参考館が完成したのを記念して,同館創設の絡緯を以上のように述べている。

 

教育参考館と新生徒館

 生徒増員に伴つて問題となつたのが収容施設であるが,機関学校舞鶴移転後の第2生徒館の空室を利用して創られた教育参考館が先ず俎上に上った。

 「海軍兵学校教育参考館は,大正14,時の校長谷口尚真中将が創設せられたるものにして,其の趣旨とするところは生徒をして帝国海軍の淵源甚だ遼遠なるを知らしめ,且先人苦心の跡を味得せしむると共に身を以て国に殉じたる幾多先輩偉人の忠烈に私淑せしめ,光輝ある帝固海軍の伝統を永遠に継承発輝せしめんが為なり,爾来歴代校長相継ぎ鋭意整備を重ね今日に至れり。従って之等資料の多くは諸遺族を始めとし賛助諸家の寄託に負う所多く,就中侍従職並びに各宮家より貴重なる御下賜品を拝受するの光栄を荷い,益々其の内容充実し現に一万余点の貴重なる資料を蒐集し,今や海軍兵学校生徒並びに学生訓育上至大の効果あるのみならず実に帝国海車の至宝と成るに至れり。 

 然るに同館の収むる資料の大部は僅かに木造建築物たる,第二生徒館の一部に収蔵しある実情にして危険此の上もなく,依つて学校当局は勿論各関係当事者は適当なる参考館新築に付き常に考慮しつつありしも,財源其の他の関係上未だ之が実現の域に至らず甚だ遺憾とするところなるに,更に本年度よりは生徒採用員数二百人に増加せられたる結果,速に参考館新築問題を解決せざれば遂に之を閉鎖するの已むなき状況にあり。斯くの如きは再び得難き天下の至宝を永遠に保持して以て生徒訓育の資とせんとする同館創設の趣旨に悖るのみならず御下賜品拝受の光栄に反き,門外不出の珍宝を寄贈したる各位の好意を無にするものなり。今や同館の建設は実に緊急を要する問題なりとす。然らば同館建設並に維持は如何なる方法に依るを可とすべきや,又如何にせば最も有意義なりや,之れ又大に検討を要する事項なるが,具体的方策としては凡そ次の諦案の何れかに依らざるべからざるものと思考す。」

 昭和91,海軍省教育局第一課長佐藤市郎大佐の名で以上のような「海軍兵学校教育参考館建設甚金に関する件提案」が海軍兵学校卒業各期代表に配布せられ,大方の賛意が得られた結果,卒業者および一般有志から醸金をえて,教育参考館を新設することとなり,翌昭和102月起工。第2生徒館と第1講堂の中問に,鉄筋コンクリート造り2階建,一部3階建,近世古典様式,4,481平方メートル(1,358),近代建築の教育参考館が翌昭和113月に完成したのである。

 なお、旧教育参考館に保存されていた教育参考資料は,前掲の室配置によつて新教育参考館に陳列された。教育参考館の中心をなすものは『東郷元帥室』と『戦公死者名牌』であつた。

 建築設計が始まって間もない昭和9530日死去した東郷元帥の遺髪を,教育参考館創設者谷口尚真大将および東郷吉太郎中将の尽力によって,海軍兵学校に安置することとなり,67,及川古志郎校長が遺髪を戴いて帰校,大講堂階上正面に安置した。将来、教育参考館が完成した暁には同館に安置して,同館の中心とすることが生徒訓育上最も相応しいとの決定を見たので,「東郷元帥室」設置のために設計の変更を行った。また,及川校長の発意によって「元帥遺髪安置の精神に就て」と題する次の一文が起草された。

 「元帥の遺髪を兵学校に頂戴して安置するは偏えに生徒をして元帥に私淑せしめ居常の間元帥の霊的感化を蒙らしめ以て元帥の如く偉大なる海将たるを希念せしむる為に外ならず。然るに今兵学校に於て遺髪を神杜として奉安し或は参考館内の一部を神社化して奉祀し生徒生活に対し全く超越的なる意義を帯びしむることは啻に元帥の人間味ある御風格に副わざる感あるのみならず又処を得たるものとも称すべからず。蓋し元帥は如何なる後輩に対しても啻に溢るる如き恩情を以て接せられたるのみならず又殊に将来元帥の偉勲を恥かしめざる後継者を出すべき兵学校としては元帥を最も理想的なる大先輩として敬仰すると共に努めて其の霊的感化に浴することを念とせざるべからざるを以てなり。若し夫れ元帥を神として奉祀するは自ら他に適当なる処と施設あるべし,例えば東郷神社の如き靖国神社の如き然り。是等は何れも護国の英霊として元帥を敬仰する心意の表現に外ならず。勿論我兵学校に於ても一面此意義を以て元帥を仰ぐべきことは言う迄もなき所なるも同時に他の一般社会の敬仰方法とは多少趣を異にする方面を有せざるべからざるものなるべし。即ち元帥は我兵学校に取りては恰も一家族の中に於ける祖先の英霊の如く最も緊密親縁なる霊として日夜敬仰私淑せらるる対象たらざるべからず。俗の語を以て云えば元帥は我兵学校或は海軍に取りては全く「うち」の人として偉大なる先輩たるなり。換言すれば元帥は我帝国の護り神たるのみならず又我海軍にとりて最も偉大なる理想的大先輩として我等の行手に燦然として光を発する太陽の如き存在ならざるべからず。されば元帥の英霊を代表する御遺髪は一面に於て勿論神体としての意義は有するも同時に最も親しく感化を受くべき「我等の聖将」の表現ならざるべからず。

 此意義よりして遺髪安置の方式を考うる時之を神社の如くすることは兵学校として必ずしも相応わしからず。然らばとて一般戦死者遺品の如く或はネルソン遺髪の如く取扱うことも勿論元帥を敬仰する道にはあらず,要は我々の先輩として衷心より敬慕尊崇の気分を以て敬仰し得る如く安置するを趣意とせざるべからず。別言すれば吾々が家庭の神棚又は仏壇に祖先を祭る如き意味を以て恰も「在すが如く」仕え奉る意義を以て敬し得る如く安置すべきものなるべし。(後略)

 この結果,中央階段上の正面に『東郷元帥室』が設置され、その内部に特別設計の『遺髪室』を設けて,永久保存のため生前愛用の硝子コップ内を真空化して納めた遺髪を昭和11318日の竣工式当日に安置した。

 また,従来は大講堂の玉座に面して奉掲されていた『海軍戦死将校名牌』(昭和75月停戦の第1次上海事変までの150霊位の氏名および、戦死年月日)2階特別室正面の壁面に移すと共に,新たに『元帥室』直正面の壁面に,海軍兵学校出身公死者(明治20年から昭和10年末までに殉職した298霊位)の氏名および公死年月日を大理石に刻んだ『海軍公死将校名牌』が新設された。

 教育参考館竣工直後の昭和1141日入校した67240名の入校特別教育は,1種軍装を着用して『東郷元帥室』と戦死者,公死者の名牌に参拝することによって始められた。以後各期の入校特別教育も同様であった。

 なお,昭和111027,御召艦愛宕で江田島へ行幸された今上陛下は,この教育参考館にも立寄られたが,これが最後の海軍兵学校行幸になった。

 在校生徒数の増加に対して次に採られたのは新生徒館の建設である。赤煉瓦の生徒館の西側海岸寄りにあった木造の教官室,選修学生関係施設,剣道場,砲台等を他に移して大きな生徒館を建てることになり,昭和1097日起工,124月完成した。中庭を囲んで四角に造られた鉄筋コンクリート3階建ての渚楚な建物で,その白色に耀く直線美は,赤煉瓦の旧生徒館と並んで好対照をなしている。

 本部は大講堂の南側に移されたが,木造の粗末なものであった。砲台は練兵場の南西端に移されて近代的なものとなり,その隣りに40糎砲塔が新設された。また,練兵場の南側を埋立てて,敷地が拡張された 

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